1.赤い目の乙女
わたしは今日も、ひとりきり。屋敷の離れで、古い鏡台に向かって正座し、身だしなみを整える。
ここ東藤の家は歴史のある士族の家であり、屋敷も古いながら大きく重厚だ。けれどこの離れはこぢんまりとした、質素そのものの場所だった。
そしてこの離れが、わたしにとって唯一の居場所だった。
母の形見の古い着物をまとい、長い黒髪を丁寧にすく。長く伸ばした前髪をひと房取って、耳の上の髪と合わせて緩く編む。垂れ下がった前髪に、左目が半ば覆い隠された。
わたしの左目は、生まれつき赤い。雪の中の椿のような、澄んだ赤だ。
赤子のわたしの目が開いたとき、父である一智と母であるひなは、言葉も出ないくらいに驚いていた。
ふたりは医者を次々と呼び、この目をどうにかできないかと手を尽くしていた。けれど医者たちは、なすすべなく首を横に振るだけだった。
やがて父はわたしのことを気味悪がるようになり、ろくに屋敷に寄りつかなくなってしまった。わたしと母をこの古い離れに押し込めて、自分はずっと外泊するようになってしまったのだ。
どうやら、父は外に愛人を作ったらしい。使用人たちがそんなことを噂しているのが、時折聞こえてくるようになった。母は優しく笑いかけてくれたけれど、そのことが余計に苦しかった。
それでも母は、父のことを愛し続け、待ち続けていた。けれどそんな暮らしは、少しずつ母の心と体をむしばんでいたようだった。わたしが八歳のとき、母は風邪をこじらせ、そのまま帰らぬ人となった。まるで眠るように、ひっそりと息を引き取ったのだ。
そうしてわたしは、ひとりぼっちになった。
頼めば最低限必要なものはそろえてもらえるので、暮らすことはできている。けれど父は母が亡くなってから、一度もここに顔を出したことはない。使用人たちもほとんど顔を出さないので、母が亡くなってからはほとんど誰とも話さない日々が続いた。
ひとりきりは、寂しい。けれどそれ以上に、申し訳なさが勝っていた。
わたしがごく普通の娘だったなら、父も母は今もなお仲睦まじい夫婦でいられただろう。わたしのせいで、この赤い左目のせいで、ふたりは離ればなれになって、母は寂しく死んでいった。
わたしが、ふたりを不幸にした。わたしは、生まれてきてはいけなかったんだ。
母を亡くしてから、ずっと離れに閉じこもっていた。ただひたすらに、自分を責めながら。
けれど、ひと月ほど前のこと。
真夜中ごろふと目が覚めて、障子の外がやけに明るいことに気がついた。何かに導かれるように障子を開けて、息を呑んだ。
深い藍色の空に、ため息が出るほど明るい満月が、煌々と輝いていたのだ。
その金色を見つめていたら、なぜか勝手に涙がこぼれた。そして同時に、このままではいけないと、強くそう思った。
母はわたしのせいで、不幸になった。それなのに、一度たりともわたしのことを疎んじることはなかった。いつも、わたしにありったけの愛を注いでくれていた。
『紅子、あなたは私の大切な、愛しい娘よ。どうか、幸せになってね』
母は、幼いわたしにいつもそう言ってくれた。そのことを、ふいに思い出した。
そうして、決意した。わたしは、前を向かなくてはならない。母の思いを、無駄にしないために。
けれどそのためには、東藤の家を出るしかない。ここにいても、わたしは幸せになれない。独り立ちして、自分の手で幸せをつかみにいこう。
といっても、ここを出てからどうすればいいのか、さっぱり分からなかった。生まれてから十六年、そのほとんどをこの離れでのみ過ごしていたわたしには、外での暮らしがどんなものかすら分からなかったのだ。
だから、意を決して屋敷の外に出てみることにした。まずは、外の世界を知るところから始めようと、そう考えて。
とはいえ、赤い目のわたしが堂々と出歩いていたら目立ってしまうので、離れを出るのは昼を過ぎて人通りが少なくなってからと決めていた。
「さて、今日はどの辺りを歩こうかしら……」
身支度を終えて立ち上がろうとしたそのとき、どたどたという足音が近づいてきた。続いて、ふすまが勢いよく開かれる。ぱあんという派手な音が、部屋に響いた。
その拍子に、天井板の隙間からばらばらと埃が落ちてくる。ああ、あとで掃除しないと。
「あらお姉様、今日もお出かけになるの? ご自由でうらやましいわ」
やってきたのは、華やかに装った少女だった。
大ぶりの花柄が染め抜かれた赤い着物に、深い緑の袴、そしておさげ髪に結わえた大きなリボン。どうやら高等女学校の帰りらしく、特別仕立ての布かばんを肩からかけている。
「千代さん、ふすまはゆっくり開けてください。ここは古いので、荒く扱うと壊れてしまうかもしれませんから……」
彼女の問いには答えず、それとなく話をそらす。彼女はぱっと顔を輝かせ、満足そうな笑みを浮かべた。
「まっ、そうでしたわね! お姉様の居場所を壊したら申し訳ないですもの」
彼女はわたしの腹違いの妹、千代だ。わたしのひとつ年下の、十五歳。
母が亡くなってから二年が経ったある日、父の愛人である吉野が、彼女を連れてこの家に乗り込んできた。そして今では父と三人、母屋のほうで仲良く暮らしている。
父と吉野はまだ正式に結婚はしていないらしいが、吉野は実質的に後妻として、千代は後継ぎ娘として扱われていた。
そのこと自体に、異論を唱えるつもりはなかった。いや、そもそもわたしには口を挟む権利なんてない。父がああなったのも、もとはといえばわたしの目のせいなのだ。
だからわたしは、吉野と千代には極力関わらないようにしていた。しかし彼女たちはわたしのことが気に食わないようで、ことあるごとにこうやって嫌がらせをしてくるのだ。
ただ千代のやり口は、まだ可愛いほうだった。こんなふうに、ちくちくと嫌味を言いにくるのが関の山だし、その内容も大したことはなかったから。
そんなことを考えていると、彼女は手にしていたかばんを手に置き、中から真新しい本を取り出した。そうして、満面の笑みでこちらに見せつけてくる。
「ほら、これ! また、新しい教本を買っていただけたのよ!」
彼女が手にしているのは、西洋史教科書と記された本だった。貸本屋では見かけないその題名に、思わず目が吸い寄せられる。
わたしは、学校には通っていない。母から読み書きは教わっていたけれど、ずっと本とは無縁の日々を送っていた。
帝都には貸本屋もあったものの、わたしには自由になるお金はない。数日に一度くらい、少しだけ立ち読みをするが関の山だった。いつかこの家を出られたら、じっくりと本を読んでみたい。そんな夢を、こっそりと抱いていた。
ついうっかり、うらやましいという思いが顔に出てしまっていたらしい。千代がさらに満足げに、愛らしくふふっと笑った。
「お姉様、この本、気になりますの?」
「……それは……」
「ごめんなさいね、でも貸すことはできませんの。この本は、お父様が特別に見つくろってくださったものだから。お父様、わたくしには期待しておられるのよ」
口ごもるわたしとは対照的に、千代は得意そのものの顔だ。
言われなくても分かっている。『千代には学をつけて、いいところの男性を婿にもらわなくてはな』と父が言っているらしいと、千代と吉野の口からさんざん聞いたから。
わたしたちの父、東藤一智。父は士族の出ながら、ずば抜けた商才を持っていた。
東藤家は代々、ここ帝都の東のはずれの地で暮らしていた。所有する土地こそ広かったが、石ころだらけで耕作には向かず、湿地があるせいで建物を建てるのにも向かなかった。
そういった理由で長きにわたり、この一帯は帝都の発展から取り残されていた。しかし父の手により、文字通り生まれ変わることになったのだ。
父はたくさんの牛を飼い、この土地を牧場に作り替えた。そうして乳を売り、肉を売り……洋食がどんどん広まりつつある中、乳も肉も、飛ぶように売れたらしい。
結果として東藤家は、かなりの財を蓄えている。父はその財とこの屋敷を、千代とその夫に継がせるつもりらしい。
やはりそのことについても、異論はなかった。むしろ、当然だろうなと思っていた。
しかし千代と吉野は、わたしがそのことを悔しがっていると思い込んでいる。おかげで、ふたりの自慢話が絶えることはない。
「学問に礼儀作法、それにたくさんの方々をおもてなしするための話術……学ぶことが多くて、大変ですのよ」
この話を聞くのも、何度目だろうか。できるだけしおらしい表情を作って、右から左へ聞き流す。幸い千代は天真爛漫というか、少々単純なところがあるので、わたしが上の空なことに気づくことはなかった。
そうしていたら、開けたままのふすまの向こうから、女中の一人がそろそろと顔を出した。
「あの、千代お嬢様……そろそろ、お花のお稽古のお時間です」
「あら、いけませんわ! 運転手を待たせてしまったわね。あとで謝らないと」
そう言って千代は、ちらりと流し目をよこしながらくすりと笑った。
この東藤家には車があり、お抱えの運転手もいる。そのこともまた、千代の自慢のひとつになっていた。ただ当然ながら、わたしがその車に乗ったことは一度もない。
車の乗り心地がどのようなものかについては、興味はある。もっとも、そのことは顔には出さない。出したら最後、また彼女が長々と話し始めかねないから。
だから黙って、目を伏せた。やがて、千代が女中とともに出ていく気配がする。
そのままの姿勢で耳を澄ませて、辺りの様子をうかがう。車の音が遠ざかっていくのが聞こえ、また静かになった。
「やっと行ったわ……予定より遅くなったけれど、わたしも出かけましょう」
そうつぶやき、離れをあとにした。
「ああ、もう日が傾き始めた……」
屋敷を出るのが遅くなったせいで、あっという間に日が暮れ始めていた。そろそろ戻らないと、夕食の時間に間に合わない。
こうやって外をうろうろし始めたころ、一度だけ、うっかりしていて帰宅が遅れたことがあった。帰り着いたときには、わたしの分の夕食は吉野の指示で捨てられていた。
とはいえそのときは、女中たちが彼女の目を盗んで握り飯をこさえてくれていたので、ひもじい思いをせずに済んだ。本当に、彼女たちには感謝しかない。
ただこれ以上、彼女たちに迷惑をかけるわけにもいかない。わたしのせいで、彼女たちが吉野に目をつけられたら申し訳ないから。
きびすを返し、急いで離れに戻ろうとしたそのとき、背後から声がした。
「……見つけた……ああ、やっと……お会いできた……」
感極まったような声に、思わず立ち止まって振り返る。
そこには、逆光になった人影がぽつんとひとりで立っていた。すらりと背の高いその姿から、目が離せない。
心臓がどくりと、大きくひとつ跳ねた。




