食卓から始まる物語
第一部 初芽
第一章 三つ葉の香り
キッチンの窓から差し込む四月の光が、ボウルの中の三つ葉を鮮やかに照らし出していた。朝露に濡れたような濃い緑。指先でそっとつまむと、春そのもののような瑞々しい香りがふわりと立ち上る。
中村由紀子、四十三歳。彼女の一日は、いつもこのキッチンから始まる。夫の健司が会社へ、高校生の娘の美雨が学校へと出かけていった後の、静寂に満ちた時間。冷蔵庫の低い唸りだけが、時の流れを知らせる音だった。
由紀子は、買ってきたばかりの三つ葉を丁寧に水で洗う。葉の一枚一枚を傷つけないよう、指の腹で優しく撫でるように。この作業に没頭していると、心が凪いでいくのがわかる。料理は彼女にとって、日々の務めであると同時に、瞑想にも似た時間だった 。
結婚して十八年。都心から少し離れたこの郊外の家で、家族三人、穏やかに暮らしてきた。健司は真面目なサラリーマンで、口数は少ないがいつも由紀子を気遣ってくれる。一人娘の美雨は、今どきの高校生らしくスマートフォンを手放さないが、根は優しい子だ。平凡、という言葉がこれほどしっくりくる生活もないだろう。
趣味はと聞かれれば、料理と、それから庭のささやかな花壇の手入れ。季節の花を摘んで、玄関や食卓に飾るのが好きだった 。高価な花瓶があるわけではない。飲み終えたジャムの瓶や、蚤の市で見つけた欠けた小ぶりの水差し。そんなものに一輪挿すだけで、空間がふっと息づくような気がするのだ。
今日の夕食は、筍と若布の煮物、出汁巻き卵、そして三つ葉をたっぷり使ったおひたし。健司も美雨も、由紀子の作る和食をいつも「美味しい」と言って食べてくれる。その言葉が、彼女の日々のささやかな喜びであり、張り合いだった。
まな板の上で、小気味よい音を立てて三つ葉を刻む。しゃく、しゃく、と軽やかな音がキッチンに響く。窓の外では、名も知らぬ鳥が鳴いていた。
夕食の時間。 「わ、筍だ。もうそんな季節なんだね」 美雨が箸を取りながら声を弾ませる。 「うん。八百屋さんで見つけて、美味しそうだったから」 由紀子は微笑みながら答えた。
健司が黙って煮物に箸を伸ばし、一口食べて、かすかに頷く。それが彼の最大の賛辞だ。 「この三つ葉のおひたし、香りがいいね」 「今日採れたてだったみたい」 食卓を囲む、ありふれた会話。けれど、この時間が由紀子にとっては宝物だった。丁寧に作った料理を、大切な家族が美味しそうに食べてくれる。それ以上の幸せを、彼女は知らなかった。
「ねえ、お母さん」 美雨がスマートフォンを由紀子に向けた。カシャ、と軽いシャッター音が鳴る。 「今日の夕飯、すごく綺麗だから写真撮っちゃった」 画面に映し出されたのは、今日の食卓。織部の角皿に盛られた煮物、黄色の鮮やかな出汁巻き卵、そして青々とした三つ葉のおひたし。由紀子がいつも見ている光景が、美雨の撮った写真の中では、まるで一枚の絵のように切り取られていた。
「……本当。なんだか、いつもより美味しそうに見えるわね」 由紀子は感心したように呟いた。その一瞬の美しさが、永遠に閉じ込められたような不思議な感覚だった。
第二章 デジタルの植物標本
「お母さん、インスタグラムやってみたら?」 夕食の片付けを終え、リビングでお茶を飲んでいると、美雨が言った。 「いんすたぐらむ?」 由紀子には聞き慣れない言葉だった。美雨が自分のスマートフォンで見せてくれる。画面には、お洒落なカフェのランチや、友達との楽しそうな写真が並んでいた。
「私には縁のない世界だわ」 由紀子が苦笑すると、美雨は首を振った。 「ううん、そういうのじゃなくて。お母さんの記録用として使うの。今日の料理の写真とか、庭に咲いたお花とか。自分だけのアルバムみたいに」 美雨はそれを「デジタルの植物標本」あるいは「レシピ帳」みたいだと表現した 。誰かに見せるためではなく、ただ自分のために、日々のささやかな営みを記録しておく。そう言われると、少し興味が湧いてきた。
「でも、難しそう……」 機械に弱い由紀子がためらうと、美雨は「大丈夫、私が全部やってあげるから」と胸を叩いた。
美雨は手際よくアプリをインストールし、アカウントを作成してくれた。 「ユーザー名は、どうする?」 「なんでもいいわ」 「じゃあ……『yukiko_no_shokutaku』、『由紀子の食卓』って意味。シンプルでいいでしょ」 こうして、由紀子のささやかなデジタルアルバムが誕生した。
最初の投稿は、美雨が先ほど撮った夕食の写真。美雨に教えられるまま、おそるおそる指を動かす。キャプションには、ただ一言、「筍と若布の煮物」とだけ入れた。ハッシュタグというものを付けるといいらしい。美雨が「#おうちごはん」と「#丁寧な暮らし」という二つを付け加えてくれた。
投稿ボタンを押すと、写真が画面に現れた。フォロワーはまだ一人。美雨だけだ。それでも、自分の作った料理がスマートフォンの中にきちんと収まっているのを見ると、少し嬉しい気持ちになった。
翌日、由紀子は庭に咲いた一輪のクリスマスローズを、小さなガラス瓶に挿して玄関に飾った。朝の柔らかな光が花びらを透かして、影を落としている。その佇まいが美しくて、由紀子はスマートフォンのカメラを向けた。
ピントの合わせ方もよくわからないまま、何枚か撮る。その中から一番ましなものを選んで、インスタグラムに投稿してみた。キャプションには「庭のクリスマスローズ」。
その次の日は、使い込んで木の色が飴色になった菜箸と、手作りの陶器の箸置きの写真を撮った。それは、ただそこにある、彼女の日常の一部だった。フィルターもかけない、加工もしない。ただ、ありのままの光景を切り取るだけ。その無作為さが、かえって静かな存在感を放っていた 。
フォロワーは数えるほどしか増えない。美雨とその友達が数人。由紀子は「いいね」の数もフォロワーの数も、まったく気にしていなかった。それはあくまで、自分自身の記録。日々の暮らしに散らばる、小さな愛おしいものたちを拾い集めるための、秘密の箱のようなものだった。
第二部 陽だまり
第三章 コメント欄のこだま
数ヶ月が過ぎた。由紀子は相変わらず、気が向いた時にだけ、ぽつりぽつりと投稿を続けていた。筍がそら豆に、紫陽花が朝顔に変わるように、彼女のインスタグラムのページもゆっくりと季節を映し出していった。
ある日のこと、美雨が由紀子のスマートフォンを覗き込んで言った。 「お母さん、フォロワーが500人超えてるよ」 「え?」 由紀子は驚いて画面を見た。確かに、そこには「512」という数字が表示されている。いつの間にこんなに増えたのだろう。
それ以上に由紀子を驚かせたのは、コメントの変化だった。最初の頃は美雨の友達からの「美味しそう!」といった短いものがほとんどだったのに、最近は見知らぬ名前のアカウントから、長文のコメントが寄せられるようになっていたのだ。
『いつも素敵なお写真、ありがとうございます。忙しい毎日の中で、由紀子さんの投稿を見ると心が和みます』 『このお皿、どちらのものでしょうか? お料理との組み合わせがとても素敵です』 『私にも高校生の娘がいます。今日の肉じゃが、なんだか母が作ってくれた味を思い出して、胸が熱くなりました』
コメントをくれるのは、由紀子と同じくらいの年代の女性が多いようだった。彼女たちの言葉は温かく、丁寧で、由紀子の心にじんわりと染み込んだ 。自分の何気ない日常が、どこかの誰かの心に届いている。その事実が、不思議で、そして少し誇らしかった。
由紀子は、一つ一つのコメントに、拙いながらも丁寧に返信を書き始めた。 『ありがとうございます。そう言っていただけて嬉しいです』 『このお皿は、旅先で見つけた小さな窯元のもので……』 顔も知らない相手との、ささやかな交流。それは、由紀子の生活に新しい彩りを添えてくれた。
健司も、由紀子の変化に気づいていた。 「なんだか、楽しそうだな」 夜、由紀子がスマートフォンの画面を見ながら微笑んでいると、健司が隣からそっと覗き込んだ。 「ええ。見てくれる人がいるって、嬉しいものなのね」 「お母さんの料理は、日本一だからな」 ぶっきらぼうにそう言うと、健司はテレビに視線を戻した。その横顔が、少しだけ優しく見えた。
由紀子の投稿は、何も変わらない。相変わらず、華美な演出はない。ただ、季節の食材を使った家庭料理と、庭の花、そして愛用の古い道具たち。しかし、その飾らない日常の断片が、同じように日々を丁寧に生きようとする女性たちの共感と、そしてほんの少しの羨望を集め、静かに、だが確実に広まっていった。
第四章 転換点
秋が深まり、庭の金木犀が甘い香りを放ち始めた頃だった。その日、由紀子は秋刀魚の塩焼きと、里芋の煮っころがし、そしてたっぷりのきのこを入れたお味噌汁を作った。炊き立てのご飯の湯気が立ち上る食卓は、それだけでご馳走に見えた。
いつものように、食卓の写真を撮ってインスタグラムに投稿する。キャプションには、「秋の味覚。秋刀魚が美味しい季節になりました」と添えた。
その夜、事件は起きた。 リビングでテレビを見ていた由紀子と健司のところに、美雨が部屋から飛び出してきた。その手にはスマートフォンが握られ、顔は興奮で紅潮している。 「お母さん、大変! 信じられない!」 美雨が突き出した画面を、由紀子は訝しげに覗き込んだ。それは、由紀子が数時間前に投稿した秋刀魚の写真だった。コメント欄に、見慣れないアカウント名がある。
『こういうのが一番、心に沁みますね。』
その短い一文の下には、テレビや雑誌で何度も見たことのある、有名な料理人の名前が記されていた。ミシュランの星を持つ、日本を代表するシェフの一人だった 。
「……え?」 由紀子は自分の目を疑った。何かの間違いではないか。 「どういうこと? なんでこの人が……」 「わからない! でも、本物のアカウントだよ! ほら、公式マークついてる!」
美雨が叫ぶのと、由紀子のスマートフォンがけたたましく振動を始めるのは、ほぼ同時だった。ぶー、ぶー、とテーブルの上で震え続けるスマートフォン。画面には、通知のポップアップが滝のように流れ落ちていく。
『〇〇さんがあなたの投稿に「いいね!」しました』 『△△さんがあなたをフォローしました』 『□□さんがあなたの投稿にコメントしました』
通知が、止まらない。 由紀子と健司、美雨の三人は、まるで嵐の中心にいるかのように、ただ呆然とスマートフォンを見つめていた。 「フォロワーが……増えてる……」 美雨が震える声で言った。 由紀子のアカウントのフォロワー数は、数時間前まで800人程度だったはずだ。それが、目の前で信じられないスピードで増えていく。1,000人、3,000人、5,000人……。
「これが……バズるってこと……?」 美雨が呟く。 あの高名な料理人のフォロワーたちが、彼のコメントをきっかけに、一斉に由紀子のアカウントに押し寄せてきているのだ。まるで、一つの小さな泉に、巨大なダムの水が流れ込んできたかのようだった。
10,000人。20,000人。 数字が現実味を失っていく。由紀子は、自分のスマートフォンがまるで未知の生き物のように思えた。ただの記録帳だったはずのささやかな場所が、今や何万人もの人々が覗き込む巨大な舞台になってしまった。
健司が、呆然とする由紀子の肩にそっと手を置いた。 「……すごいな」 その声には、驚きと、そして少しの戸惑いが滲んでいた。 由紀子は何も答えられなかった。嬉しいのか、怖いのか、自分でもわからない感情の渦の中で、ただ鳴り止まないスマートフォンの振動を、他人事のように感じていた。
第三部 夕立
第五章 受信箱の洪水
一夜にして、由紀子の世界は一変した。翌朝、恐る恐るインスタグラムを開くと、フォロワー数は5万人を超えていた。そして、ダイレクトメッセージ(DM)の受信箱には、見たこともない数のメッセージが溜まっていた。
これまで、DMはコメントをくれたフォロワーとのささやかなやり取りの場だった。それが今や、見知らぬ企業や個人からのメッセージで埋め尽くされている。まるで、静かだった入り江に、突然あらゆる種類の船が押し寄せてきたかのようだった。
その夜、由紀子と健司は食卓で向かい合い、困惑しながらメッセージを一つ一つ確認していった。 「これは、何かしら……」 由紀子が首を傾げたメッセージは、絵文字だらけで、やけに馴れ馴れしい口調だった 。
『はじめまして! 由紀子さんの素敵なライフスタイルに感動しました! 弊社の最新美容サプリにご興味ありませんか? 無料でサンプルお送りしますので、ぜひご紹介ください! 』
「美容サプリ……? 私が?」 由紀子は自分の顔を鏡で見るのも億劫なほどなのに、と呆れてしまう。
次に健司が見つけたのは、さらに怪しげなものだった。 『あなたの投稿は素晴らしい。我々の投資グループに参加すれば、その影響力で莫大な富を築けます。まずは、こちらのリンクから登録を……』 「これは詐欺だな」と健司は即座に削除した 。
中には、一見するとまともそうな、丁寧な言葉で書かれたメッセージもあった。しかし、その内容は由紀子と健司にはまるで暗号のように思えた。
『株式会社〇〇エージェンシーの△△と申します。この度は、貴アカウントの急成長、誠におめでとうございます。貴殿のエンゲージメント率とオーディエンス層を拝見し、ぜひ弊社のクライアント案件にご協力いただきたくご連絡いたしました。タイアップ投稿に関する弊社のレギュレーションと報酬体系について、一度お打ち合わせの機会を頂戴できますでしょうか』
「エンゲージメント……? オーディエンス……?」 由紀子には、言葉の意味すらわからない 。まるで外国語の手紙を読んでいるかのようだった。
受信箱は、混沌としていた。自分の料理を褒めてくれる純粋なファンからのメッセージに混じって、得体の知れないビジネスの誘いが渦巻いている。ただ日々の記録を付けていただけなのに、なぜこんなことになってしまったのか。由紀子は、自分のささやかなキッチンが、土足で踏み荒らされているような不快感を覚えた。
「どうしたらいいのかしら……」 途方に暮れる由紀子に、健司は言った。 「無理に返信することはない。今は少し、様子を見よう」 その言葉に、由紀子は少しだけ救われた気がした。
第六章 はじめての大きな決断
無数のメッセージの中で、一つだけ、由紀子の心に留まるものがあった。それは、日本で古くから愛されている、有名なキッチンウェアブランドからのDMだった。文面は非常に丁寧で、由紀子の料理や写真のどこに魅力を感じたのかが具体的に書かれていた 。
『……由紀子様の、季節の食材を慈しむように調理される姿勢と、道具を長く大切に使われているご様子に、弊社のものづくりの精神と通じるものを感じております。もしご迷惑でなければ、弊社の新しい鋳物ホーロー鍋をお送りさせていただき、普段の食卓でお使いいただけないでしょうか。そのご感想を、ありのままに投稿していただけましたら幸いです。もちろん、ささやかではございますが、謝礼もご用意させていただきます』
他の多くのメッセージとは違い、そこには由紀子の投稿への深い理解と敬意が感じられた。それでも、由紀子はためらった。お金をもらって何かを紹介する。それは、これまで自分がしてきたこととは、まったく違う行為に思えた。自分の純粋な記録帳に、商業的な要素が入り込むことに強い抵抗があったのだ。
その夜、この一件は中村家の「家族会議」の議題となった。 「やっぱり、お断りしようと思うの」 由紀子が切り出すと、健司は慎重に頷いた。 「そうだな。契約とか、よくわからないことに巻き込まれるのは心配だ」
しかし、美雨は少し違う意見だった。 「でもお母さん、この会社、すごくちゃんとしたところだよ。おばあちゃんもここのお鍋、使ってたじゃない。それに、これはお母さんの料理が認められたってことだよ。すごいことだよ」 美雨の言葉には、母親への誇りが滲んでいた。
「お金をもらう、っていうのが、なんだか……」 由紀子がためらいを口にすると、美雨は言った。 「それは、お母さんの料理の腕と、素敵な写真を撮るセンスに対する、正当な対価だよ。お父さんが会社で働いてお給料をもらうのと、同じことじゃないかな」
美雨の言葉は、由紀子にとって目から鱗だった。自分の家事を「仕事」や「対価」という視点で考えたことなど、一度もなかったからだ。それは、愛情の表現であり、日々の営みそのものだった。しかし、その営みに価値を見出し、お金を払いたいという人がいる。それは、自分の生き方そのものを肯定されたような、不思議な感覚だった 。
三人の間で、様々な意見が交わされた。由紀子の戸惑い、健司の心配、そして美雨の現実的な視点。 最終的に、由紀子は決心した。 「……一度だけ、やってみようかしら」
ただし、彼女は一つの条件を出した。 「もし、送られてきたお鍋が気に入らなかったら、お断りする。本当に自分が良いと思ったものしか、紹介したくないから」 その言葉に、健司も美雨も頷いた。それが、由紀子らしさを守るための、大切な一線だった。
数日後、ブランドから美しい深緑色のホーロー鍋が届いた。ずっしりと重く、滑らかな手触り。由紀子は、その鍋でじっくりと角煮を煮込んだ。鍋は熱を均一に伝え、肉を驚くほど柔らかく仕上げてくれた。
由紀子は、出来上がった角煮の写真を撮り、鍋の使い心地を自分の言葉で正直に綴った。そして、美雨に教わった通り、「#PR」というタグを付けた。投稿ボタンを押す指が、少しだけ震えた。
第四部 根土
第七章 チーム由紀子
最初のPR投稿をきっかけに、中村家には新しい習慣が生まれた。毎週日曜の夜、リビングに集まり、「チーム由紀子」の作戦会議を開くことだ。それは、押し寄せる未知の波から由紀子を守り、彼女の「好き」という気持ちを羅針盤にして航海を続けるための、小さな家族の営みだった。
それぞれの役割は、自然と決まっていった 。
まず、美雨は「デジタル担当」だ。彼女は、洪水のようなDMの中から、明らかに怪しい詐欺案件や失礼なメッセージをテキパキと弾いていく 。そして、残った依頼主の企業アカウントをチェックし、公式の認証バッジが付いているか、フォロワー数や投稿内容が信頼できるものかを確認する 。由紀子にはちんぷんかんぷんだった「タイアップ投稿ラベル」の付け方や、インスタグラムの規約についても、わかりやすく説明してくれた 。
健司は「法務・経理担当」といったところだろうか。彼は、企業から送られてくる契約書の草案に隅々まで目を通し、「報酬の支払い条件」や「写真の二次利用の範囲」など、由紀子が見落としがちな重要な項目をチェックする 。彼の口癖は、「急がなくていい。納得できるまで、きちんと確認しよう」だった。その慎重さが、由紀子を何度も軽率な判断から救ってくれた。
そして、由紀子は「クリエイティブ・ディレクター」であり、最終決定権を持つ最高責任者だ。彼女の判断基準はただ一つ。「その商品やサービスを、心から良いと思えるか。自分の暮らしの中に、自然に迎え入れたいと思えるか」ということ。どんなに高額な報酬を提示されても、彼女の哲学に合わないものは、きっぱりと断った。それは、自分のアカウントの世界観、そして何よりも自分自身の心を、守るための砦だった 。
ある時、有名な食品メーカーから、新発売の「万能だし」のPR依頼が来た。報酬も破格だった。しかし、由紀子は丁重に断った。 「私は、自分で昆布と鰹節から出汁をとるのが好きなの。だから、この商品を紹介することはできないわ」 その決断を、健司も美雨も尊重した。それが「チーム由紀子」のルールだった。
このささやかなチームは、由紀子にとって何よりの心の支えだった。一人では飲み込まれてしまいそうな大きな渦の中で、家族という名の防波堤が、彼女が自分らしくいられる場所をしっかりと守ってくれていた。
第八章 はじめての影
鋳物ホーロー鍋のPR投稿は、大きな反響を呼んだ。「由紀子さんが紹介するなら、間違いない」「私も同じものが欲しくなりました」といった好意的なコメントが溢れ、商品は一時品切れになるほどだった。由紀子も、自分の「好き」が誰かに伝わったことを素直に喜んでいた。
しかし、何百というコメントの中に、一つだけ、鋭い棘のような言葉が混じっていた。
『結局、金か。がっかりだ。』
たった一言。匿名の、顔の見えない相手からのその言葉は、由紀子の胸に深く突き刺さった 。 がっかりさせた? お金のためだと、思われた? そんなつもりは、まったくなかった。ただ、本当に良いと思ったものを、正直に伝えただけだったのに。自分の純粋な気持ちが、まったく違う形で受け取られてしまったことが、悲しくて仕方がなかった。
その夜、由紀子は夕食の支度をする気になれず、リビングのソファで膝を抱えていた。 その様子に気づいた美雨が、隣に座って由紀子のスマートフォンを覗き込んだ。 「あ、このコメント? ひどい! こんなの、削除しちゃえばいいんだよ!」 美雨は自分のことのように憤慨してくれた。
帰宅した健司も、事情を聞くと静かに言った。 「たくさんの人が見てくれるようになれば、いろんな意見を持つ人が出てくるのは仕方がないことだ。全員に好かれるなんてことは、あり得ないんだから」 そして、こう付け加えた。 「君が、自分の心に正直に選んだのなら、何も恥じることはない。俺と美雨は、ちゃんとわかっている」
家族の言葉が、冷え切った由紀子の心を少しずつ温めてくれた。 そう、自分は間違っていない。自分の「好き」を信じよう。そして、それを理解してくれる人たちのために、これからも正直であり続けよう。
この一件は、由紀子に有名になることの光と影を、はっきりと教えた。そして同時に、どんな時も自分の味方でいてくれる家族の存在が、どれほど尊いものであるかを、改めて気づかせてくれた。 「チーム由紀子」の結束は、この日、さらに強くなった。彼らは、由紀子を賞賛の声から浮かせることなく、そして誹謗の言葉から沈ませることなく、しっかりと大地に繋ぎ止める、人間らしい温かな錨だった。
第五部 開花
第九章 自分の声を見つける
影を知ったことで、由紀子は逆に強くなった。受け身で依頼を待つだけでなく、自分から動くことを覚えたのだ。彼女は、自分が本当に価値を伝えたいと感じるもの、まだ光が当たっていない素晴らしい作り手たちに、目を向けるようになった。
きっかけは、以前に投稿した一枚の写真だった。そこには、彼女が旅先で手に入れた、無名の若い陶芸家が作った粉引の小皿が写っていた。その素朴で温かみのある器について、多くのフォロワーから問い合わせが来ていたのだ 。
由紀子は、その陶芸家の名前を頼りにインターネットで検索し、彼が小さな町で工房を構えていることを見つけ出した。そして、深呼吸を一つして、工房のウェブサイトに記載されていたメールアドレスに、一通のメールを送った。
『はじめまして。中村由紀子と申します。インスタグラムで、あなたの作られたお皿を紹介させていただいた者です。あなたの器が大好きです。もしよろしければ、工房にお伺いして、お話を聞かせていただけないでしょうか』
それは、彼女にとって初めての、自分からのアプローチだった 。数日後、陶芸家から驚きと喜びに満ちた返信が届いた。
週末、由紀子は健司の運転する車で、山間の小さな町にある工房を訪れた。土の匂いがする静かな空間で、若い陶芸家は朴訥とした口調で、器作りへの想いを語ってくれた。由紀子は、その話に深く心を打たれた。
彼女は、その日のことをインスタグラムに投稿した。工房の風景、作り手の真摯な横顔、そして彼の作品である器に、心を込めて作った料理を盛り付けた写真。それはPR案件ではなかった。報酬もない。ただ、自分が感動したことを、伝えたいという純粋な気持ちからの投稿だった。
この記事は、これまでのどの投稿よりも大きな反響を呼んだ。陶芸家のオンラインショップには注文が殺到し、無名だった彼の名前は、器好きの間で一躍知られることになった。 「由紀子さんのおかげです」 後日、陶芸家から届いた感謝の電話に、由紀子は「私の方こそ、素敵な器に出会わせてくれてありがとう」と答えた。
この経験を通じて、由紀子は確信した。自分の役割は、ただ商品を宣伝することではない。作り手の想いや物語を、自分の言葉で丁寧に紡ぎ、それを求めている人々に届けること。それが、自分にしかできないことなのだと。 彼女は、大手企業からの高額な依頼を断り、地方の小さな味噌蔵や、伝統的な製法を守る織物工房など、自分の心が動かされるものだけを選んで、取材し、紹介するようになった。それは、彼女が自分の「声」を見つけた瞬間だった。
第十章 本の話
由紀子のフォロワーが30万人を超えた冬の日、一通のメールが届いた。差出人は、由紀子も知っている、暮らしや料理に関する本を多く手掛ける有名な出版社だった 。
『中村由紀子様。いつも、心温まる投稿を拝見しております。単刀直入に申し上げます。由紀子様の本を、作らせていただけないでしょうか』
本。その言葉に、由紀子の心臓が大きく跳ねた。 メールにはこう続いていた。
『私たちが本にしたいのは、由紀子様のレシピだけではありません。あなたの料理や暮らしの根底にある哲学、季節の移ろいを感じながら日々を丁寧に生きるその姿勢、そして、ご家族との温かな時間。そのすべてを、一冊の本として多くの読者に届けたいのです』
それは、単なるビジネスの提案ではなかった。由紀子の生き方そのものへの、最大限の賛辞だった。 その夜の家族会議は、いつになくお祝いムードに包まれた。 「本だって! お母さん、作家になっちゃうの?」 美雨は自分のことのように大喜びしている。 健司も、グラスに注いだビールを掲げて言った。 「すごいじゃないか。君の頑張りが、形になるんだな」
由紀子は、胸がいっぱいだった。インスタグラムを始めたあの日、誰がこんな未来を想像しただろう。自分のためだけのささやかな記録が、本という形になり、誰かの本棚に並ぶ。それは、夢のまた夢のような話だった。
もちろん、不安もあった。自分にそんな大役が務まるのだろうか。しかし、編集者との打ち合わせで、その不安はすぐに消えた。 「由紀子さんは、そのままでいてください。私たちが、あなたの言葉と想いを、丁寧に掬い取って本にしますから」 その言葉を信じて、由紀子は頷いた。
本の制作は、由紀子の日常に新しいリズムをもたらした。レシピの分量を正確に測り直し、料理の工程を写真に収め、そして、自分の半生や日々の想いを綴るエッセイを書く。それは、自分自身の人生を、もう一度丁寧に見つめ直す作業でもあった。
第十一章 同じキッチン、より広い窓
インスタグラムを始めてから、一年が経った。 春の柔らかな光が差し込むキッチンで、由紀子は夕食の支度をしていた。一年前と何も変わらない光景。まな板の上には、みずみずしい春キャベツ。窓の外からは、鳥の声が聞こえる。
彼女は、あさりと春キャベツの酒蒸しを作った。立ち上る磯の香りと、春野菜の甘い香り。出来上がった料理を、お気に入りの白い深皿に盛り付ける。
そして、スマートフォンのカメラを向けた。カシャ。
一年前と違うのは、その写真の先に、何十万人もの人々がいるということだ。 由紀子は、キャプションを書き始める。以前のように、ただ料理の名前を書くだけではない。そこには、彼女自身の言葉があった。
『春の香りが、キッチンに満ちています。新しい季節の訪れは、いつも心を少しだけ軽くしてくれるような気がします。皆さんの食卓にも、小さな春が届きますように』
投稿ボタンを押す指に、もう迷いはない。 彼女は、自分だけの記録を付けていたのではない。この小さなキッチンから、世界に向けて、ささやかな幸せと安らぎの便りを発信していたのだ。
夕食の時間。食卓を囲む、健司と美雨と由紀子。 「本の初稿、編集者さん、すごく褒めてたって?」 健司が尋ねる。 「うん。なんだか、恥ずかしいけど」 由紀子は照れながら答えた。 「発売されたら、クラスのみんなに自慢しなきゃ!」 美雨が笑う。
生活は、確かに変わった。本の締め切りに追われたり、撮影の打ち合わせがあったり。けれど、この食卓の光景だけは、何も変わらない。丁寧に作られた温かい食事を、愛する家族と共にする。その時間が、由紀子の全ての原動力であり、帰る場所だった。
彼女の世界は、間違いなく広がった。けれど、それは彼女がキッチンを離れてどこかへ行ってしまったということではない。むしろ逆だ。彼女は、この愛するキッチンに、世界へと繋がる、より大きな窓を取り付けたのだ。
窓から差し込む光は、以前よりもずっと明るく、そして遠くまで届いている。由紀子は、その光の中で、今日も変わらず、家族のために、そして自分自身のために、料理を作る。その営みこそが、彼女の物語の、始まりであり、すべてだった。




