心を欲しがる旦那様と、身体しかあげられない私
私たち人間が『魔王』と呼んでいた旦那様は、息を呑むほど美しい方だった。
角も牙もない端正なお顔立ちを、腰まであるサラサラの長い銀髪が、星みたいに輝かせている。
宵闇を思わせる深い藍色の瞳は、恐ろしいどころかとても優しく、そして寂しそうに見えた。
そんな旦那様と私は今、生贄の儀を執り行う為、大きなベッドの上に座り向かい合っている。
身体を残酷に引き裂かれ、生きたまま内臓を喰らわれるのだろうと覚悟していたけれど……その眼差しに、ふっと気が緩んでしまった。
彼の艶やかな唇から、雨音のような声が漏れる。
「そなたの心が欲しい」
私は戸惑う。
血や肉ではなく、まさか心を欲しがるなんて。
どうせ死ぬのなら怒りを買っても構わないわ……と、その理由を訊いてみることにした。
「なぜ、私の心をお求めになるのですか?」
「……人間の心は、大変美味だと聞いたからだ。愚かで脆くて儚いくせに、逞しくて弾力があると」
「旦那様ほどのお方であれば、いくらでもお味見し放題なのでは?」
「いや、いくら魔界の長であろうとも、こうして生贄の儀を行った人間の心しか味わえない。家族も群れも持たぬ、絶対的な上下関係しかない孤独な魔族にとっては、非常に尊いものなのだ」
「そうなのですね。ではぜひ……と言いたいところですが、私の心は差しあげることができません」
「……なぜだ?」
私は痩せた胸に手を当て、空っぽの息を吐き出した。
「私には心がないからです。笑うことも泣くこともできませんし、今こうして旦那様とお話ししていても、恐怖すら感じません」
彼は宵闇色の目を瞠る。
「心がない人間などいるのか?」
「どうやら私がそのようですね。まさか旦那様が心を求めていらっしゃったとは知らず……生贄になってしまい申し訳ありませんでした」
──政略結婚をした愛のない男女。その間に生まれたのが私だ。母が病気で亡くなるとすぐ、父は愛人を屋敷に迎え入れ後妻にした。
義理の母は、実の母によく似た私を疎んだ。義母だけでなく、腹違いの弟や妹、そして父までも。存在を隠され、毎日暴言を浴びせられ、下女のように扱われてきた。
その内何も痛みを感じなくなってしまった。殴られても罵られても、ただ静かに時が過ぎるのを待つだけ。
『お前には心がない』
義母に言われ、ああ、だからかと納得した。
あの女と生き写し、醜い、可愛げがない、邪魔者、役立たず。たくさん浴びせられたどの言葉よりも、すとんと腑に落ちた。
ある日、国に神託が下った。
我が家から娘を一人、魔王の生贄に差し出せ。さもなければ未曾有の災害が起こると。
父が選んだのは、もちろん私だった。
お前には心がないから丁度いいと。
青ざめた顔でガタガタ震える妹と、それを抱き締め泣く義母を見て、私も自分が適任だと思った。
空の胸を魔剣で貫かれた私。
案の定痛みは感じず、無事に魔界へ来た訳だけど……
生贄としての務めを果たせないと知り、困惑する。
とりあえず持っているもので妥協してもらえないかと、交渉してみることにした。
「旦那様、心の代わりに、私の身体を召し上がっていただけませんか?」
彼の白い顔は、忽ち真っ赤に染まる。
穏やかな雨のようだった声は、豪雨に変わった。
「なっ、なんとはしたない! 乙女のくせに!」
乙女……
泣く子も黙る魔王様の口から、そんな言葉が出るなんて。胸の奥が何やら弾む。
「申し訳ありません。ですが私には、身体以外に差しあげられるものがないのです。痩せていて不味そうなのは重々承知しておりますが、必要な養分を頂ければ、できるだけお好みの肉に近付けるよう励みますので」
旦那様は、目をぱちぱちと瞬かせる。
黒い聖服に包まれた私の全身を眺めると、複雑な表情を浮かべた。
「もしかしてそなたは……我がそなたの肉を喰らうと思っているのか?」
「……違うのですか?」
「一体何憶年前の話をしているのだ。食糧難ならばいざ知らず、不味い人間の肉など、誰がわざわざ好んで食すものか」
「……血や骨も?」
「全く興味がない。動物性の養分ならば、その辺の魔獣で充分だ。それに最近は、我らも人間と同じく、牛、豚、鶏なんかも食すぞ。我が特に好きなのは焼いた鶏だ。小さく切った肉を、こう木の串に刺して、塩か甘辛いソースを……」
……これは困ったわ。
身体しかあげられないのに、それを要らないと言われてしまったら、生贄の役目を果たせなくなってしまう。
もし災害が起きれば、新たな生贄を用意しなければならない。心のある娘が選ばれてしまったら、どんなに恐怖を感じるだろうか。
私はベッドから降りると、固い床に跪く。
「心と身体以外で、旦那様のお役に立てることはありませんか? 何でもしますので、どうか生贄としての務めを果たさせてください」
頭を伏せ返事を待っていると、また雨音みたいな声が降ってきた。
「……何でも、してくれるのか?」
「はい」
「毎日でも構わないか?」
「はい、もちろんです」
そう答えた瞬間、身体がふわりと宙に浮いた。柔らかいベッドに仰向けで着地した私を、旦那様の優しい瞳が覗き込む。
長い銀髪がサラリと落ちて、私の顔をくすぐるせいだろうか。何やら痒い私の胸元に、旦那様は綺麗な顔をぽすんと埋めた。
一体何を……
よくよく見れば、顔ではなく、魔族の特徴である尖った耳を埋めている。胸の奥をかきむしりたい気持ちに耐えながら、私は大人しくしていた。
しばらく経つと、旦那様は顔を上げ、はあと深いため息を吐く。
「何と心地好い……これが心臓の音か」
「魔族には心臓がないと聞きましたが、それは本当ですか?」
「ああ、本当だ。初めて聴いた……実に神秘的だな」
痩せた胸元をうっとりと見つめる旦那様に、私はすかさず提案した。
「あの、もしよろしければ、お好きなだけ聴いてください。毎日でも、一時間置きでも、一分置き……はちょっと……でもがんばります」
「……本当にいいのか?」
「はい。夜は胸にお耳を置いたまま寝ても構いませんよ」
旦那様は、魔王らしくない満面の笑みを浮かべる。それなのに、いかにも魔王な角、牙、しっぽ、翼が急に現れ、あたふたと慌て出した。
「……すまない。つい興奮してしまって。恐くないか?」
「はい。私には心がありませんから」
淡々と答える胸の奥が、何やらキュッと締め付けられた。
それから旦那様は、私を片時も離さず傍に置き、何をするにもどこへ行くにも連れ回している。
政務をする時も、狩りに行く時も、食事をする時も。
彼はいつも優しく親切だった為、多少不自由ではあったが、人間界にいた時よりもずっと人間らしい暮らしを送っていた。
今夜も、彼は嬉しそうに私の胸に耳を傾けている。生贄の仕事があって良かった、ただ動いているだけの心臓のお蔭で、国の平和は守られたと安堵していた。
「不思議だな。こんなに素晴らしい音がするのに、そなたには心がないなんて」
「心臓と心は別ですから」
「では心はどこにあるのだ?」
「……頭、でしょうか。でも、少し違う気もします」
旦那様は胸から離した顔を、私の頭に埋める。
しばらく耳を当て、うーんと首を傾げた。
「我も違う気がする。頭は魔族とあまり変わらないな」
「魔族にも脳みそがあるのですか?」
「ある。人間よりも腐りにくく長持ちだ」
角のお蔭かなと頭を擦る姿に、また胸の奥が弾む。
ふふっと変な息を漏らす私に、ご主人様は微笑みながら言った。
「そなたの心はどこかに隠れているかもしれないな。我に探させてくれないか?」
髪の毛、首筋、鎖骨、腕、掌、指……
旦那様の耳が触れるたびに、とくんとくんと胸の奥が痒くなる。あまりにも痒くて、妙な熱を持ち始めるほどだ。お腹に辿り着いた時には、つい、ひゃっと変な声が出てしまった。
「探してもどこにもないと思います……だって、ご主人様にこんなことをされても、全然恐くなくて。ただ胸の奥が痒いとしか感じていないんですもの」
「胸の奥……やはり心臓ではないか?」
再び胸元に耳を置かれ、身体がぴくりと跳ねてしまう。
「……ん? 今までと音が違う。激しくて鋭くて……まるで先日、我が人間界に轟かせた雷鳴みたいだ」
「雷、落としたんですか?」
「腐った人間どもが住む屋敷を、一つ燃やした。……それくらいいいだろう。魔界のエネルギーを少しずつ解放しないと、もっと大変なことになる。そなたが傍に居てくれるから、この程度で済んでいるのだぞ」
尖った耳をすりすりと動かされ、どくんどくんと、ますます胸の奥が痒くなる。唇からは熱い息が、瞼からは熱い涙が溢れそうになり、ハッとした。
「目っ……! 旦那様、私の心は目にあるのかもしれません」
その言葉に、旦那様もハッと顔を上げる。私の頬を大きな両手で挟み、潤む目を覗き込んだ。
互いの顔の間には、僅かな隙間しかない。宵闇色の瞳からは、優しいでも寂しいでもなく、夜明けみたいな熱と光が注がれている。
彼は耳ではなく、艶やかな唇を私の瞼に落とす。しっとりとしたその感触は、雨上がりの大気に似ていて。心地好くて、結局涙が溢れてしまった。
「……近い気はするけど。ここではないな」
涙の跡を辿るように、つうと滑らされた唇は、顎まで行かずに途中で逸れ、私の唇と重なった。
吐息まで飲み干されるようなその感触は、底のない深い水溜まりに似ていて。やっぱり心地好くて、泣きたくなってしまう。
口内を、尖った何かがつんと刺激する。
旦那様は慌てて離れると、口を押さえて言った。
「すまない、つい興奮して牙が……痛くないか?」
それよりも、空っぽの唇が堪らなく寂しい。
私は広い背中を翼ごと掻き抱いた。
「心、ありました。私の心、ちゃんとありました。だから……どうか食べてください。美味しいかは分からないけど」
旦那様は嬉しそうに微笑むと、私の黒い夜着を脱がせ、傷だらけの素肌へ向かう。
胸、お腹、爪先、腿、そして……
牙や爪を立てないように、柔らかい部分で私の身体に触れる。そのたびに溢れる私の心を、貪欲に喰らい尽くした。
翌朝、私はまだ生きていた。
心と一緒にぐずぐずに溶けてしまった身体は、暖かな翼にすっぽりと包み込まれている。
角も牙もそのままの魔王然とした姿で、旦那様は私にせっせと養分を与える。
「そなたはやはり痩せすぎだ。もっと肉を付けて、美味い生贄にならねば。ほら、あーん」
その声はお天気雨みたいにご機嫌だ。
「身体には興味がないのでは?」
「ああ。身体ではなく心が欲しい」
「心は夕べ召し上がりましたのに」
「……壊してしまいそうで。恐くて、まだ最後まで味わっていない。というか、あんなの我にとっては味見程度だ」
あれで味見? 信じられないと開けた口に、クリームたっぷりのスプーンが入れられた。
あっ、だからまだ生きているのねと納得した私は、甘い余韻を舌で絡め取りながら、別の皿を指差す。
「甘い物よりもそちらを食べてみたいです」
「おおっ! 食べてみろ! 美味いぞ」
串に刺さった鶏肉を、ふうと息を吹き掛け冷まし、口元まで運んでくれる旦那様。ぱくりと咥えれば、甘辛いソースと、瑞々しい肉汁が広がった。
「……美味しい。すごく美味しいです!」
「そうだろう! 塩もなかなかいいぞ」
嬉しそうに別の串を焼く旦那様に、私は……幸せな気持ちになる。
生きていてよかった。せっかく見つけた『心』を、もう少し感じていたいもの。
味見に止めてくれたことに、心から感謝していた。
「旦那様、私の心はいかがでしたか?」
「大変美味だった。この肉よりもずっと素晴らしい弾力で。……そなたは強くて優しいのだな」
角のない無防備な頭を撫でられ、涙がじわりと滲む。
「旦那様の心も、すごく美味しかったです。私もまだ、味見程度しかしていませんが」
ふふっと笑う私に、彼はきょとんと首を傾げる。逞しい胸に手を当て、ないはずの鼓動を探り始めた。
「心……我にもあったのか」
やがてははっと声を上げながら、どしゃ降りみたいな涙を流した。
ありがとうございました。




