沈黙は牙に変わる
沈黙の裏には、いつだって決意が潜んでいる。
声を殺し、息を止め、
ただ逃げることしかできなかった私たちは、
この夜、ついに“音”を手に取った。
音は、敵を呼び、混乱を起こす。
命を削ってでも得る、唯一の“武器”。
神が歩く夜に、
私たちはただ静かに、
この物語の終わりを祈りながら、走り続ける。
ー夜が来た。
集落を囲む山々が、まるで暗黒の波のように押し寄せていた。星はあるはずなのに、ひとつも見えない。雲ではない。“何か”が空を覆っている。
私は、廃屋の窓から外を見ていた。ぬかるんだ広場には、男たちが2人立ち、火のついたドラム缶を囲んでいた。笑っている。酒をあおりながら、今夜の“報酬”について話していた。
その横顔に、まったく人間らしさを感じなかった。
彼女は何も言わなかった。ただ、壁に背を預け、視線は窓の先にある、一本の鉄塔に向けられていた。その根元には倒木。昼間に誰かが運び、立てかけたもの。あれを利用する。音を立てる。あの“化け物”を呼び寄せる。
「やるのは……今しかない」
彼女が静かに立ち上がった。
その瞬間だった。戸口が軋み、誰かが入ってきた。
——リーダーの男だ。
「……そろそろいいだろう?」
吐息に酒の匂いが混じる。目はすでに“人”の理性を失っていた。私の横に立った彼女が、静かに手斧を握った。
「ふざけんな……お前ら、順番ってもんが……」
男がにじり寄るその時——
ドンッ!!!
外から、鈍い衝撃音が響いた。
一瞬で男の表情が変わった。
「……何だ?」
さらにもう一度——ガンッ!!バキィィンッ!!!
ドラム缶の火が消えた。見張りの男たちが叫びながら駆け寄る。
そして——その声が、絶叫に変わった。
「来た!!来やがったぁあああ!!!」
その叫びは、山全体に響き渡った。地鳴りのような音。地面を這う音。何かが這いずるような摩擦音。
“それ”が来る。
音に引かれて、獲物を求めて、音の元へまっすぐに。
化け物たちは、目ではなく、耳で追ってくる。
リーダーの男が慌てて外に出ようとした瞬間、彼女がドアを蹴り閉めた。外では悲鳴と怒号が飛び交う。
「逃げるよ!」
彼女が私の手を引いた。私は頷くと、窓を蹴破って外に飛び出した。
広場は地獄だった。ひとりの男が、膝を折られ、胸を踏み潰されていた。
見上げた先に——いた。
神話の化け物たち。あの、性別を失った“巨大な裸神”。ひとり、またひとりと闇の中から現れ、音に向かって首を傾ける。
見えてはいない。だが、聞こえている。
私たちは、音を立てないように、ぬかるみの中を走った。木の陰、崩れた家屋の隙間を縫い、見張り塔の裏へと抜ける。
背後で、リーダーの男が叫んでいた。
「やめろっ!俺じゃない、あいつらだ!おいっ、おいぃぃっ!!!」
その声が、やがて潰れた肉の音に変わる。
振り返らなかった。
彼女が先を走る。私は後を追う。
「もう少しで森に入る……!」
小屋の陰に回った瞬間——
化け物のひとりが、目の前の壁を破って飛び出した。
土砂が舞う。空気が重くなる。私たちはとっさに伏せた。
化け物は、何かを探すように静止した。耳を澄ますように、首を傾けた。
私は、息を止めた。
胸が痛む。喉が焼ける。心臓の音さえ聞こえる。——その音で、見つかってしまいそうなほどに。
長い数秒。
だが、彼女は一歩も動かなかった。目を閉じて、音を完全に遮断している。
化け物は、興味を失ったのか、音の方向へ向きを変えると、ゆっくりと離れていった。
私は彼女の腕を引いて、また走り出す。
森が見えた。木々の隙間から、夜の風が吹いてきた。
「……行ける……!」
叫びたい衝動を押し殺しながら、私たちは闇の森へと、再び逃げ込んだ。
背後からはまだ、喧騒と獣の咆哮が断続的に響く。追いかける影の足音は、止むことを知らない。
深い闇の中、私はふと彼女の顔を見た。恐怖に染まったその瞳の奥には、確かに“生き抜く強さ”が宿っていた。
──この夜が明けるまで、終わりなき逃避行は続くのだろう。
冷たい風に吹かれながら、私は初めて、この瞬間の重さを噛みしめた。
「まだ……終わらない。」
そう、二人で呟いた。逃げ場のない世界の中で、静寂に紛れてただ生き延びることだけを願いながら。
──幕は、まだ下りていない。