音が呼ぶのは、化け物だけじゃない
化け物より怖いのは、人間だ。
壊れた世界で生き延びた者は、
優しくなるか、牙をむくかのどちらかだった。
夜の静けさに潜むのは、
音ではなく、欲望。
私たちは、声を殺しながらも、
闇の中で最初の火種を手にしていた。
森を抜けると、空が再び見えた。だが、晴れていたはずの空は、どこか灰色がかって見えた。太陽の光さえ、山の奥ではくすんでいる。
古びた斜面の下に、わずかに広がった空き地が見えた。そこにあったのは、打ち捨てられた集落の“残骸”だった。
崩れかけた民家。朽ちた倉庫。半壊したフェンス。だが、それでも明らかに“人の手”が加わっていた。
バリケード。足跡。見張り台。
「……誰か、生きてるな」
私の隣で、あの女が低くつぶやいた。木々の隙間から様子をうかがっていたその顔は、相変わらず感情を見せなかったが、肩にかかる手斧のようなものをすでに握っていた。
その直後だった。
「動くな!!」
怒声が響いた。隠れていたつもりの木陰から、私たちは棒を構えた二人組の男たちに囲まれていた。
「こんなとこ通るバカがいるとはな……!」
ひとりはニヤつきながら、彼女をジロジロと見ていた。私は前に出ようとしたが、それより早く、彼女が一歩踏み出す。
「下がってて」
小さく、しかし確かな口調だった。
そして——
彼女は足元の倒木から、鋭利な金属片のついた棒を素早く拾い上げた。
「——ッ!」
あまりにも一瞬だった。
刃先が、相手の膝の裏を切り裂いた。男の悲鳴が山に響く。血が地面を濡らす。
「この、クソアマ!!」
もう一人の男が突進してくる。私はとっさに彼女の背後へ回り、倒れていた枝を拾って背中に叩きつけた。
ぐらりと男が崩れかけた瞬間——
「やめろ!!!」
新たな声が響いた。草むらから現れたのは、よれた服を着た壮年の男。目だけが異様に鋭く光っている。
「落ち着け!お前ら何者だ?」
男は睨みながらも、手にしたナイフをしまい、私たちを観察するように言った。
「……逃げてきた。街のほうから。感染者に追われて……」
「化け物に会った」
女が続けて言うと、男は鼻で笑った。
「そうか。ここまで来られたのは運がいい。じゃあ“運が悪くなる前”に、ちょっと払ってもらおうか」
そして、彼は——彼女を指さした。
「一晩。預かるだけだ。明日には返す」
彼女は一言も返さなかった。私は震えながら、しかし声を絞り出した。
「……わかった。だけど、まず休ませてほしい。……それからでも遅くない」
男は目を細めた。こちらの思考を探るような目。でも、すぐに口元だけで笑った。
「いいだろう。まともな奴は、口がうまいな」
私たちは廃屋のような小屋へと案内された。腐りかけた畳、埃まみれの布団、そして割れた窓ガラス。
男たちは“監視”と称して外に立ち、時折、私たちを覗いていた。
私は壁際に座り込むと、彼女に小声でささやいた。
「……どうする?」
「逃げる。夜のうちに」
「どうやって?」
「音を使う」
彼女は、窓の外の遠くにある鉄塔を見つめていた。その根元に、倒木が積まれている。
「ぶつける。音を出せば、化け物がくる。混乱に乗じて逃げる」
私は、言葉を失った。
この女——初めて出会ってから、数時間。それでも、すでに自分の命をかけて背中を預けられる気がしていた。
私たちはそれぞれ、武器になりそうなものを確認し、逃走の準備を始めた。夜が来る。闇と音が、すべてを変える夜が——