神は音を裁く
神は、音を嫌う。
声も足音も、呼吸すらも。
だからこの山では、名を呼ばず、過去を問わず、ただ進むしかない。
音を立てた瞬間、
静寂は牙をむく。
山道へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
街を包んでいた“死んだ静けさ”が、さらに濃密になって襲いかかってくる。風も音も、何もない。ただ、重い湿気と、ぬかるんだ土の匂いが、鼻腔を満たしていた。
この道の先に何があるのか——誰も知らない。でも、私は進むしかなかった。あのマリナの言葉を信じて。
しばらく登ると、道は緩やかに曲がりながら森へと入っていく。木々が空を覆い隠し、昼なのに、まるで日没後のような暗さに包まれていた。
——そのときだった。
「……ッ」
私は思わず口元を押さえ、足を止めた。
前方、曲がり角の向こうに“それ”がいた。
滑るように地を這うような足取り。白く滑らかな皮膚。性別を感じさせない、禍々しくも神聖な異形。——化け物。
視線が合わない。だが確実に“音”には反応している。その足運びは、明らかに何かを“追って”いるようだった。
私はとっさに脇の茂みに身を滑り込ませた。一歩間違えば枝が折れ、石が転げる。音を立てたら、命はない——そう、肌が理解していた。
“それ”はゆっくりと、地面をなぞるように歩いていた。そして、ふと立ち止まり、道の脇の一角に顔を向けた。
私の隠れている位置の、わずか数メートル先。その“何か”を探るように、首が不自然に傾げられる。
私もそっと視線を向けた。
——そこに“女”がいた。
倒木の影。体を丸めるでもなく、無理に隠れるでもなく、まるでその場に“溶け込む”ように静かに息を潜めている。
驚くべきことに、彼女は焦っていない。表情は冷静で、目だけがわずかに動いて“それ”を観察していた。
まるで、既にこういう状況を何度も経験してきたかのように——肝が据わっていた。
化け物はしばらくその場に留まり、微かに首を傾け、しかしすぐに興味を失ったかのように、ふたたび前方へと歩き出した。その背中が闇に吸い込まれていくまで、私たちは一言も発さなかった。
……しばらくして、私はそっと立ち上がり、草をかき分けて彼女の元へ近づいた。
彼女もまた、ゆっくりとこちらを向いた。
「……見つからなかったわね」
低い声。落ち着いた口調。それだけで、この女が“ただ者ではない”ことがわかった。
「……ありがとう、隠れてくれてなかったら……あいつ、気づいてたかも……」
「こっちが静かにしてただけ。あんたが動いたら巻き添えだった」
彼女はつかず離れずの距離を保ったまま、すっと立ち上がった。そして森の奥を指さす。
「山の上に、まだ人がいるって噂がある。そこまで、行くなら一緒に行ってもいい」
「……私も、そこを目指してる。行こう」
言葉を交わしたのは、それだけだった。
名前も、過去も、信頼もなかった。でも、一緒に息を殺して恐怖に耐えたという経験が、何よりも確かなものだった。
それだけで、この地獄では“仲間”と呼ぶに足りた。
ふたりは無言のまま、森の奥へ歩き出す。
ただ一つ共通していたのは——
“音を立てれば、終わる”
それだけだった。