その街は、まだ“日常”のふりをしていた
これは、終わった世界の話ではない。
人々はまだ街にいて、信号はまだ点滅している。
学校に通う者も、買い物をする者もいる。
ただ、そのすべてが“人間”だったとは限らない。
世界は、静かに崩れた。
音を立てた者から、神に裁かれる。
誰が最初に感染したのか。
なぜ、その姿になったのか。
誰も知らない。
けれど、ひとつだけ確かなのは——
まだ、逃げられる者がいたということ。
その街は、まだ“日常”のふりをしていた。
倒壊した建物の間を縫うように走る私の足音が、異様なほど大きく響いていた。アスファルトには車の残骸が転がり、ガラス片が足元で微かに鳴く。空は曇天。太陽の位置すらわからないまま、時間の感覚も曖昧だった。
追ってくるのは、一体の“化け物”だ。
全身が滑らかで、衣服のようなものを纏っていないのに、不思議と性別は感じられなかった。
人間だった頃の名残を微かに残しながらも、2メートルを超えるその異形は、まるで神話に登場する女神のようだった。だが、女神と呼ぶにはあまりにも禍々しい。艶めかしさではなく、威圧と冷たさが肌から滲んでいた。
私は走る。肺が焼けるように苦しい。それでも振り返れなかった。
この街の住人は、すでに全員“感染”している。誰もがその神のような姿になり、かつての生活をなぞるように、意味のない“日常”を繰り返している。学校へ向かう者。コンビニで立ち尽くす者。スマートフォンを耳に当てながら、口を閉ざす者。その全てが、奇怪な静けさの中で動いている。
「……やだ……やだやだやだ……!」
小さく声が漏れた瞬間、背後から“それ”の足音が加速した。
私は横道に滑り込み、住宅街へと入った。古びた一軒家のドアを無理やり押し開ける。軋む音が鼓膜を刺したが、もう止まらない。とにかく隠れなくては——
一軒家の階段を駆け上がった私の足は、ふいに止まった。
そこだけが異様なまでに“整いすぎていた”。
薄暗い廊下の突き当たり——重く閉ざされたドアの奥に、夢のように精緻な部屋があった。壁は淡いクリーム色、白木の床は一切の埃すらなく磨き上げられている。ぬいぐるみが整列して座り、カーテンは窓辺に揺れていた。そしてその中央に、ひとつのドールハウス。
まるでモデルルームのように、整然として、完璧だった。その人工的な美しさが、却ってぞっとする。
私は呼ばれるように、ふらりと足を踏み入れた。
「……ここなら、見つからないかも……」
そんな安易な願いが浮かぶ。息を整え、意識が薄れそうになるほどの疲労の中、私はドールハウスに近づいた。
——異常だった。
私は“人間サイズ”のはずなのに、そのドールハウスの扉が、私の手のひらにぴたりと合った。吸い寄せられるように扉に手をかけると、扉が音もなく開いた。次の瞬間、世界がめまいのように歪んだ。
私の体は、何の抵抗もなく、ドールハウスの中に“収まった”。
それは縮小ではなく、“移動”だった。外の世界と完全に切り離された、精密で、人工的で、狂気じみた静寂。キッチン。リビング。寝室。どれもが現実そっくりで、現実ではありえないほど完璧だった。
一歩踏み出すたび、床がきしまず、空気すら作り物のようだった。
——そのとき。
「こんにちは。」
その声は、上から響いた。見上げると、大きな瞳が窓からのぞき込んでいた。指人形をはめた“指”が、部屋の中に差し込まれている。
私の動きが凍りつく。指人形は笑っている。だが、その笑顔はまるでマネキンのように動きがぎこちない。指を動かす“主”の姿は見えないが、口元だけがぽつりと動いた。
「わたしは……マリナ。あなたの名前は?」
声はあくまで優しい。だがその響きは、温度がない。私はとっさに“人形のフリ”をしようとした。この状況ではそれしか方法が思いつかなかった。
「……〇…〇〇…です……」
そう口にした瞬間、指が一瞬止まり、わずかに首を傾げるような動作をした。
その沈黙が、怖かった。
演技がバレたのか? 試されているのか?それとも“別の目的”を持っていたのか——。
一秒、また一秒。私はたまらず、ドールハウスの裏手の扉から、逃げるように飛び出した。
一瞬、目がチカッとした。現実の空間に戻った。私は再び“人間のサイズ”になっていた。
とにかくこの家から出ないと——そう思って階下へ駆け下りたとき、一階の廊下に何かがうろつく音がした。
“それ”はドールハウスの持ち主の“母親”だった。
化け物だ。白くのっぺりした肌。どこか不完全な女神のような姿。その顔に“目”はあるが、見えている気配はない。その代わり、音に敏感に反応していた。
私は咄嗟に廊下の壁の凹みに身を押し込み、息を殺した。
ピタリと足音が止まった。心臓の音が響く。喉の奥で鼓動が響き、我慢できずに吐息が漏れそうになる。
——その瞬間。
「こっちじゃない……右の奥の物置、隠れて。」
声がした。あの“マリナ”の声だった。はっきり聞こえた。幻聴ではない。声には、怖さではなく、どこか“哀しみ”のようなものが滲んでいた。
私は母親の化け物の背をすり抜け、言われた方向へ向かう。
「このまま裏から出れば、山に続く道がある。山へ行けば''私たち''は少ない。早く逃げて。」
マリナの姿はもう見えなかった。
それでも、彼女の言葉は確かに私を導いた。
「山へ……この街から逃げて」
そう、小さく、ひどく静かな声だった。
彼女は完全に“変わってしまった”わけではなかった。姿は化け物に近くなっても、心だけがまだ人間だった。
私が外へ出たとき、空はもう夕方のように薄暗かった。遠く、山の稜線だけがかすかに光っていた。
私は一度も振り返らず、その光の方へ走った。