1-16 僕、無理やり女装させられる(3)
その軽い口ぶりに、なぜか胸の奥が少しざわついた。なんだろう、この感じ……どこかで、似たような言葉を聞いたことがある気がする。
それは、理想を語る人の夢を容赦なく壊し、現実の冷たさを突きつけるような響きだった。
「しかし、」僕は思考を落ち着けようとした。この世での判断力は、かなり鈍ってしまっていたが、
「たとえこの世界がどれほど過酷であっても、我々は人としての最低限の良心や倫理を守るべきではないでしょうか?
今日、獣人を取引の駒として扱えば、明日には我々自身が同じように扱われるかもしれないのです。一度、人間性の限界が利益によって踏みにじられてしまえば、この世界はいったいどのような姿になってしまうのでしょうか?」
話を聞いて、男は少しだけ嗤えるような笑みを浮かべて、
「はいはい~そんなの、1歳の獣人でもわかるよ〜でもね、現実はそんなに甘くないの〜余たちの優しさや同情で世界が優しくなる?そんなわけないでしょ~?
見てごらん、あの上位者たち~他人の『良心』なんて踏み台にして、上までのし上がったんだから。これがルールってやつよ~」
「だからこそ、我々はこの『倫理の一線』を、いかなる時も守り抜かなければならないのです。
なぜなら、我々は社会に生きる人間であり、野生動物として生きる猿ではありません。そしてましてや、歪んだ『弱肉強食』に盲従する存在であってはならないのです。
『弱肉強食』は生物としての本能にすぎません。それを人間社会の言い訳にしてはならないのです。我々が生きるこの世界は、文明という価値観に導かれるべきで、決して暴力や欲望が支配する未開のジャングルに成り下がってはならないのです。
人を手段として扱い、その尊厳を踏みにじることを黙認する——それは、自らの良心に闇をもたらす行為であり、社会の道徳的崩壊への伏線となります。
今日、我々が『利益』の名のもとに、ある少数者——たとえば獣人のような存在——の権利を冷淡に踏みにじるのであれば、明日には同じ理屈で、親しい人々にさえ刃を向け、自分自身すらも裏切ることが可能になってしまうのではないでしょうか?
もし我々全体が、この最低限の倫理すら見失ってしまえば、社会の基盤は音を立てて崩れ始めるでしょう。助け合いや信頼といった人間らしさは姿を消し、残るのは損得勘定のみ。
そんな冷酷な世界に、我々は未来を託すべきでしょうか?文明社会の礎が、いままさに崩れ落ちようとしている――我々は、それを黙って見過ごしてよいのでしょうか?」
「ふん……また理想論か~?まったく、君って本当に『綺麗事』が好きだよね~でも残念ながら、この世界はそんな甘い舞台じゃない。これはゲームだよ~そして余たちは、ただの観客じゃない——プレイヤーだ。
当然、勝ち残るにはルールを理解し、適応し、そして利用する。他人をどう使い、どう踏みつけて、どう目先の利益を奪うか——それがこの世界のルールだよ。善意や尊厳?それは『利用価値』がある間だけ存在する幻想さ~」
「善意や尊厳については言っていませんが、おっしゃる通り、それは確かに『目先の利益』にすぎません。しかし、まさにその短期的な利益であるがゆえに、長期的なリスクや損失が付きまとうのです。
人間関係の複雑さ、そして持続的な社会の発展を考えるならば、我々が築くべきなのは、互いに信頼し助け合う関係性のネットワークであって、一時的な利益のやり取りに終始するような姿勢ではありません。」
「へぇ〜?人間関係ってそんなもんなの?今日の分踊ったらハイ終わりってわけ~?」
「もういいです。そんなごまかしにはもううんざりです。」
彼の理屈にこれ以上つきあうのは時間の無駄だと思ったから、話を元に戻すことにした。
「つまり、君は結局、彼らを取引の道具としか見ていないってことですか?わかりました。」
僕は少し手を広げて、
それなら、市場経済の持つ資源の動員力を問題解決の手段の一つとして活用してみようと思います。要するに、僕が出捐して、彼らの首にかかる見えない鎖の鍵を買い取るということです。」
あたりは一瞬にして静まり返った。彼も、まさか僕がこんなことを言うとは思っていなかったのだろう、ふざけたような表情が少しだけ引き締まった。
その言葉を口にしたとき、僕はこっそりと月系魔法を使って、あの子どもの聴覚を封じた――ほんの数秒間だけだけど。
というのも、月系魔法は世間から誤解され、蔑まれているせいで、僕はずっとその使用に慎重だったし、軽く使うこともできなかった。ましてや使いこなすなんてとても。
理解も浅く、熟練度も足りないせいか、この魔法は発動するたびに驚くほど魔力を消耗する。まるで、魔力を底なしの穴に投げ込んでいるような感覚だ。
それでも――
命への敬意を貫くために、あの子の残されたわずかな尊厳を守るために、僕は、ためらわずに宣言した。
「君たちにとって獣人は、ただの取引対象にすぎないのかもしれない。でも、僕の価値観は違う。彼はまず、『知恵ある生命』だ。尊重され、守られるべき存在だ。
──さて、おいくら?」
「ふん、そこまで言うなら売ってやるさ。ただし、安くはないぜ?」
「値段なんて関係ない。」
魔力の消耗が激しい。早く終わらせないとまずい。
「1000ゴールドだ。」
「成立。」
「そんな馬鹿な!?お若いの、騙されるな!あいつなんぞ、良くて50だ!」
さっき倒れていたあの老人が慌てて声を上げた。
「分かる。市場取引の視点で考えると、完全にぼったくられたが、それでも……これは『所有権』を買ったんじゃない。『価値のないもの』に、『価値あるもの』をぶつけたんだ。」
魔法を解除しながら、僕は静かに言った。
「この勝負──僕の勝ちだ。」
静まり返った空間に、ゴールドが積み重なる音が響き渡り、周囲の視線が一斉に僕に集まった。
「違う……」
老人はかすかに呟いた。
「お若い、お前は……あの方のお子か……? だが、胎の中で命を落としたはず……?」
やがて最後の鍵が外されると、その男が一枚一枚を確認するのを見守りながら、彼はようやく首の鍵を外し、少年を解放した。
「お前のものだ。」
「彼は誰の所有物でもない。」
疲労で体が重くなっていたが、僕は前に出て、足を引きずる少年にそっと手を差し伸べた。
この少年は、僕と年が近いように見えたが、その頭の角があるという理由だけで、自由と尊厳を奪われていたのだ。
「君は自由だ。」と僕は言った。「もう二度と捕まるんじゃない。さあ、早く行け。」
少年はその言葉をしっかりと受け止め、力強くうなずいた。だが次の瞬間、何かを決意したように、自分の角に手を伸ばした。
「待って、何をするんだ?」
少年は、自分の角を折り始めた。顔に汗を浮かべ、歯を食いしばりながらも、その手を止めることなく続けている。
その姿に、僕は驚き、言葉を失った。
「ありがとうな、恩人。自由と尊厳をくれて。このツノは、きっとすぐにまた生えてくると思うわ。今の俺にできる、唯一のお礼として――俺の決意の証にするんや。」
少年はようやく手を止め、痛みに耐えながらも、僕の目をまっすぐに見つめて言った。
その言葉に、僕は何も返せず、ただ少年の顔を見守ることしかできなかった。
彼の目には強い意志が宿っていて、その覚悟がはっきりと伝わってきた。
「まずはブレウッズに戻って、自分と同じように苦しんどる仲間らを探すつもりや。
みんなに、平等に接してお互いを尊重することの大切さ、ちゃんと伝えたいんや。
俺が知っとることを教えて、みんながふさわしい尊厳と幸せを取り戻せるようにしたいんや。
せやから、恩人。いつかみんなが公平に向き合える場所で、また会えること――願ってますわ。」
「いい。それはそうと、君の最初の名前は何?」
「秤。十遊秤や。」
「セリホと呼べばいい。」
「わかったで、恩人。ちゃんと覚えとくわ。」
そう言い残し、彼は背筋をピンと伸ばし、重い決意と信念を抱いてブレウッズの奥深くへと向かい、夜の闇に溶け込むようにその姿を消していった。
……財布が空になっちまった。
彼の去りゆく姿を見つめながら、僕は少しばかり感慨にふけった。
確かに、後悔することはない。
だが――さっきのやつ、いったいどういうこと……?