1-16 僕、無理やり女装させられる(1)
「透幽藤?なんだそれ?五百年前に一度見つかったって話だけど……気になるなぁ。この名前、僕でさえ聞いたことがない……」
「……でもさ、それよりも今は……やっぱり、静かな場所が欲しいんだな……」
言葉を途中で切り、ふと息をついた。
「ってのが、本音なんだよな……」
図書館には学習の雰囲気が漂い、静かにページをめくる音や、時折響く軽い足音がその静けさをわずかに乱す――そんな、集中できる時間が流れているはずだった。
だが、現実はその理想とは大きくかけ離れていた。
「こんなはずじゃなかったのに……。どうしてこんなにも賑やかなんだろうなあ……」
子供たちの声が騒がしく、老人が大声で話したり、咳をする音が聞こえてくる。まるで黒死病でも広がっているかのような錯覚を覚えた。
「やっぱり、今日もか……はあ、仕方ないか」そう小さく息を吐いた。
ページをめくる手もどこかゆっくりで、心の中では静かな空間を夢見てしまう。
「誰にも邪魔されない、プライベートな図書館があればなあ……」
そんなことを考えながら、耳をふさぐように両手をゆっくりと頭に持っていき、心の中で小さく愚痴をこぼした。
でも、わかっている。きっと、それでもまた同じ場所に戻ってくるのだと。
図書館を出る頃には、もう夜の帳がすっかり下りていた。澄んだ夜空に満月がぽつんと浮かび、まるで見守るかのように穏やかな光を街に注いでいる。
リリラアンナたちは、きっともう家路についているだろう。どれだけ満足のいく収穫があったかはわからないけれど、少なくとも自分にとっては確かな手応えがあった。
「何もしてない気がするけど、これでもいい……暇だね。」
ぼんやりとつぶやき、月を見上げながら歩き出した。心は少しばかり軽く、ただ夜風に揺られながら帰るつもりだった。
――って、静かな夜は突然、悲鳴に破られた。
「キャーッ!」
鋭い泣き声が夜空を裂いた瞬間、反射的に顔を上げた。
視線の先には、街角から猛スピードで突進してくる、手綱の外れた馬車。その姿が目に飛び込んできた。
馬の蹄が石畳を鋭く打ち鳴らし、その恐ろしい勢いに、周囲の人々は次々と悲鳴を上げ、顔を引きつらせながら逃げ惑う。
暴風のような馬車はすでに制御を失い、道という道を突き進んでいく。まだ階段を降り切っていなかった僕は、危うくその混乱に巻き込まれそうになった。
「こんな状況じゃ、本当に死ぬこともあるだろう……」
皮肉を口にしかけたその瞬間、混乱の中で、痩せ細った小さな姿が人々の波に押され、馬車の進路へと飛び出してきた。
目を凝らしてみると、そこにいたのは幼い獣人の子供だった。
頭には小さな角が生えていて、首にはずっしりとした鎖が巻きつけられていた。
その姿に一瞬見とれてしまったが、次の瞬間、彼の周りでさらに恐ろしいことが起こった。
逃げ惑う人々の中で、その子に手を差し伸べる者は誰一人としていなかった。
むしろ、周囲の目は冷たく、蔑んでいるようにすら見えた。
獣人であるその子に対して、誰も助けようとしないどころか、存在そのものを無視しているのだった。
でも……
何も考える間もなく、体が勝手に動き、気づいたら雪の魔法を発動させていた。
無詠唱魔法で放たれたその瞬間、前世で車に轢かれたときの記憶が、頭の中でフラッシュバックする――痛みは一瞬だったが、あのときの鋭い衝撃と喪失感が、今でも鮮明に蘇る。
あ――無意識に発動した。
一瞬のうちに、透明な氷の橋が馬の蹄の前に現れた。その橋は馬車の下をくぐるように伸び、獣人の子供が通れるだけの小さな空間を作り出した。
氷の橋はまるで空から伸びてくる手のようで、獣人の子供を守ってくれた。
そして、車輪がものすごい勢いで氷の橋にぶつかった瞬間、澄んだ音が鳴り響き、氷がぱらぱらと夜の街に散らばった。
「やっと静けさが戻る……」と思ったそのとき、その静けさを打ち破るように、野次馬たちの声が冷酷に響き渡った。
「……またこんな獣のガキどもが邪魔をするんだ! 人間の世界には必要ないだろう!」
非難の言葉が、周囲から次々と飛び出した。
口々に嘲笑が広がり、冷たい視線が獣人の子に向かって集中する。
「獣人なんて、結局は獣のまんまだよ。」
「見ろよ、また厄介事だぜ……ルールなんか守れるはずがねぇ。」
誰も、その子の存在を歓迎していないように見えた。
「この役立たずめ! お前がどんな騒ぎを起こしたか、分かってるのか!」
体格のいい男性が、怒りと蔑みを隠さずに、立ちすくむ小さな獣人に向かって吼えた。
震えるその子の目には、まだ驚きと恐怖が浮かんでいた。
でも、男の冷酷な目には、そんなことなど全く関係なかった。
男は威嚇するように一歩一歩近づいていき、その圧力が子供をさらに怯えさせるだけだった。
「……っ!」
男は黙って手にした鞭を振り上げ、そして容赦なく、その小さな体に叩きつけた。
乾いた音が夜の街に響き渡り、そのたびに子供の細い肩がびくりと跳ねる。
「お前、この馬車に誰が乗っているか分かってんのか? もし何かあったら、お前ごときに責任が取れると思ってんのか!」
小さな獣人の顔に浮かんでいたのは、ただただ耐えるしかない無力感と、諦めの色だった。
「何様のつもりだ、この野良のガキが……!」
男の怒声がさらに響き渡り、その場の空気は凍りつくように冷たくなった。
大きな足を振り上げ、子供の体を容赦なく蹴りつける。その一撃は、小さな命の尊厳までも踏みにじるかのようだった。
また一撃、そして、また一撃……
誰一人として止めることもなく、ただ見ているだけだった。
周囲の人々の目には、あの子供が何の価値もない存在に映っているのかもしれない。
冷たい視線が子供を突き刺し、誰も手を差し伸べようとはしなかった。
「見てみろ、これが獣人ってやつさ。いつもこうだ、迷惑ばかりかけやがって。」
野次馬たちも、口々に言い始めた。
「彼らにはルールが理解できないのよね。もしこのせいで、お偉い方が気分を害したらどうするつもり?」
「こんな連中、我々の街にいるべきじゃない。さっさと森に帰ってもらいたいものだ!」
「はぁ……気の毒な話だね……」
ある地面に倒れ込んでいた老人が、ぼそりと呟いた。
その表情は、周囲の冷たい空気と同調していた。