1-6 僕、月系魔法を目撃した(2)
応急処置を終え、グラウシュミを無事に家まで送り届けた。
少し説明を加えて安心させたあと、念のためにランシブを彼女の家にこっそり残してきた。
これで、グラウシュミの様子をリアルタイムで把握できるはずだ。
さて、今起きたことをしっかり整理し、分析を進めなくてはならない。
まずは、グラウシュミが無意識に使った月系魔法の再現を試みてみよう。
僕は再び森に戻り、先ほどの出来事を思い出しながら、指先にわずかな魔力を注いだ。
そして、魔法を1平方メートルの範囲にだけ展開することに成功した。
「なるほど、こういう仕組みか。」
「さすがの記憶力ですね。」
と、システムが言う。
「当然だろ。お前が月系魔法の詳しいことを教えてくれないから、結局、自分で手探りするしかないんだよな。マジで頭、痛くなるっての……」
わざと愚痴っぽく言いながらも、頭の中ではさらに深く考え込み始めた。
月系魔法って、思ってた以上に複雑な構造をしてるんだ。やっぱり、その公式はそう簡単に構築できるものじゃない。
――でも、その代わり、威力もハンパじゃない。
もし深く練習すれば、精神力に影響を与え、さらには他人の行動や思考まで操ることができるかもしれない。
だからこそ、月系魔法には触れなかったのかもしれない。——精神を操る魔法は、道徳的・倫理的に禁忌とされているからだ。
これを使えば、他人を傷つけたり、意志を操ったり、混乱させたりすることが可能になる。
それは決して、人を助けたり守ったりするため「だけ」のものではない。
でも、月系魔法は黒魔術のような邪悪なものとは違う。
確かに性質が少し似ている部分はあるけれど、黒魔術のように災厄や不幸を呼び寄せるわけではない。
黒魔術というのは「悪」の力として見なされていて、禁忌とされているから、小説などでも使うのは決まって「悪役」だし、社会的にも厳しく罰せられる。
もちろん、悪役が改心したり、善人が意図的に黒魔法を学んだりするケースも存在するが、そういった例外についてはここではひとまず触れないことにする。
でも、月系魔法は……なんていうか、もっと神秘的で、そこまで忌み嫌われるものじゃないはずだ。
だって、月系魔法にはそういった邪悪さはない。正しく使えば、治療や守護、他者への支援といった正当な目的にも使えるものだ。
しかし、月系魔法は人間の精神と深く結びつく力を持ち、その「精神への影響」という特性があまりにも際立っているため、他の魔法が持つ直接的で明快な効果とは鮮やかな対比を成している。
精神操作ができない人々は、月系魔法の適性者に対して恐怖を抱き、操られることへの不安から、「ひとりも見逃すな」とばかりに、その存在を排除しようとしている。
その結果、多くの月系魔法使用者が自分の家族の手によって命を絶たれ、生き延びた者も周囲に忌み嫌われ、若いうちに自殺するのが常となっていたのだ。でも……
「こうした現象が出始めたのは、実はここ20年ほどなのよ。」
ぼんやりと、1歳のときに偶然目を覚ました際、奥様が語ったその言葉を思い出した。
……なぜ「20年」という数字にそこまでこだわったのか、はっきりとは理解できない。
奥様には、「20年」という数字に対する何らかの明確な意図が絶対にあるはずだ。
ただ、ひょっとするとこれは、魔法系統間に存在する……差別によるものなのだろうか?
差別……
Discrimination……
歧视……
家に帰るなり部屋に閉じこもり、鍵をかけ、花系魔法で紙を生成して、こう書き記した。
まずは、僕が最も慣れ親しんだ二つの言語で、思考を書き留めていく。
次に、前世で覚えた、もう一つの言語で書き記した。
そして、少し抵抗を感じながらも、ネットでこっそり学んだ基礎的な単語も加えていく。親の期待に逆らい、自分が学びたい言葉を独学していた……
……そういえば、なぜ今さら過去のことを思い出しているんだろう。死んでから四、五年も経つというのに、どうしようもなく、不甲斐ない最期を迎えたあの過去のことを……
……いや、今はそんなことを考えている暇はない。
この世界では、月系魔法の適性者は徹底的に「隔離される」。
魔法の適性はランダムに振り分けられると言いながら、実際には誰かが月系を持つと、その力を奪ったり、存在ごと消し去ったりする仕組みがある。
さらに、万が一複数系統の適性を持っていたとしても、「月」に関する書物はすべて破棄され、誰もそれについて語ろうとしない。
僕に文字の知識がなければ、この事実には気づけなかったに違いない。
やれやれ……これが異世界の中世的思考ってやつか。
今どきの四歳児でも気づきそうな話だが、もちろんそんなことは言わない。
いや、口に出しても問題ないかもしれない。けど、誰かの耳に入ったら厄介なことになりそうだ……
……余計なトラブルはご免こうむりたい。
まぶたが閉じないよう、必死に意識をつなぎとめながら、指先に残った最後の力で炎を灯した。
この紙だけは……絶対に誰にも見られてはならない。何が書いてあるのか、今すぐ消さなければ……
紙に記した内容を燃やし、灰になったそれをすぐにかき消した。
もう、体力は限界だ。いまの僕はまだ四、五歳の子供。これ以上は無理が利かない。
「おはよう、セリホ。」
優しい声が耳に響き、ゆっくりと目を開けると、身体がずしりと重く感じた。
ベッドのそばには、奥様が静かに座っていた。優しげな眼差しをこちらに向けながらも、どこか芯のある強さを感じさせた。
起き上がろうとしたものの、身体は思うように動いてくれなかった。
それを見た奥様はすぐに手を貸してくれ、枕に寄りかからせてくれた。
「疲れたでしょう?少しは楽になったかしら?」
小さく頷いたものの、頭の中はまだぼんやりとしていた。奥様がそっと背中を撫でてくれると、心の奥に暖かさが広がっていった。喉の渇きを覚え、水を一口含むと、少しずつ力が戻ってくるのを感じた。
しかし、心にはまだ重苦しさが残っていた。
僕の沈黙に気づいた奥様は、そっと手を握ってくれた。
「あなたには、もう少し休息が必要よ。昨日どこへ行ったかは聞かないけれど、今はとにかく体を休めてね。」
「……でも、ドアに鍵をかけたはず……」
「あなたが食事の時間になっても出てこないから、何度も呼んだの。でも返事がなかったので心配になって、ドアを開けたのよ。」
「そうですか。」
「そのとき、机に突っ伏しているあなたを見てしまって……ごめんなさいね、プライバシーを侵しちゃったかもね。」
「そうですか……お手数をおかけしました。」
「もう、ここは家なのだから、そんなにかしこまらなくていいのよ。」
「そうですね、おく……母さん。」
僕はゆっくりと目を閉じ、母親の温かな愛情を感じていた。
部屋の鍵を持っていたことには少し驚いた。だって僕は以前、こっそり鍵を変えたし、合鍵を渡した覚えもないのだから。
それでもなぜか、妙な安心感に包まれていた。もしかして、頭が少しぼうっとして防衛本能が鈍ったのかもしれないが……
……まあいい。こうして静かに横たわると、体が次第にリラックスしていき、思考も戻ってきた。心の中で呼びかけた。
「システム。僕の前世の記憶をもっとしっかりと封印できないか?今の生活に無意識に影響を与えないようにしてくれ。」
「ご提案の機能について、拙者はまだ十分に理解しておりません。」
「僕が必要なときだけスキルや知識だけ取り出せるようにしてほしい。性格とか感情とか、それに関連する記憶が今の僕に影響しないよう、うまく隔離してくれればいい。」
「なるほど、記憶内容を精密に分類し、管理を行うというわけですね。しかし、直接現在の状況に活用できない潜在的な価値を持つ記憶については、どのように保管すればよろしいでしょうか。」
「それなら、僕の前世の姿を象徴として使って、記憶を暗号化して保存してもらえる?そうすれば、普段は影響を与えず、必要なときに取り出せると思う。」
アルサレグリア奥様を「母親」として完全に受け入れられない自分がいることを自覚していた。
普段は「奥様」って呼んでるけど、こう呼びかけるたびに、彼女の心に微妙な影を落としていることは分かっていた。それでも心の中のその壁が取り払われることはなく、いずれ彼女もそれに気づくだろう。
過去の記憶がこの関係に影響を与えないよう、徹底的に隔離し、心を整理する必要があった。
「この操作は記憶モジュールの深層管理を要するため、完了までには約1.5日かかります。今すぐには実現できませんので、しばらくお待ちください。」
何なんだこいつ……
どれほどの時間が経ったのか分からないが、体は少しずつ回復し、ようやくゆっくりと起き上がることができた。体調は、ほぼ元通りになっていた。
ふと横を見ると、母親がベッドのそばで毛糸を編んでいる。……なぜ今、毛糸を? 冬の準備?
――いや、そもそも毛糸なんて、どこで手に入れた?
「え、母さん、毛糸編んでるの?」
「そうよ。冬が来る前に、あなたに暖かいセーターを作っておこうと思ってね」
母親は優しく微笑みながら、そう答えた。
「でも、どうやって毛糸を手に入れたの?」
「それは……ひ・み・つ。」
そう言って、母親は僕の背後へと視線を向けた。
「セリホ!」
背後から、聞き覚えのある声がした。振り向くと、グラウシュミが緊張した面持ちで傍に立ち、じっとこちらを見守っていた。
僕の無事を確かめるやいなや、彼女は勢いよく駆け寄ってきた。
「やっと目を覚ましたのね!」
「グ、グラウシュミ?!」
グラウシュミは、心配のあまり泣いたのか、目がわずかに赤く腫れていた。その瞳で、まっすぐ僕を見つめてくる。
や、やばい……!
可愛すぎ……これは――!!
左心室から新鮮な動脈血が体動脈を通って押し出され、全身の組織の隅々で酸素と二酸化炭素のガス交換が行われた後、動脈血は静脈血に変わり、下大静脈を経て右心房に戻ってきて、そして右心房から右心室へと送られ、肺動脈を通って肺毛細血管に到達。肺胞で酸素を取り込み、二酸化炭素を放出することで、静脈血が再び動脈血に変換されて、その後、肺静脈を通って左心房へ入り、再び左心室から全身へと血液が送り出される……
この、絶え間ない循環の感覚!!
鼻血を噴き出し、そのまま失血して崩れ落ちた。
「セリホ――!!!」