8)トビハゼの避難行動の動機
「うん……まあオレの勝手な印象なんだけど」
亮平はボソボソと自信無さげに語り始めた。
「さっき、トビハゼの動画を観てもらったでしょ。潮が満ちてくると、慌てて水が無い方へ逃げ出すヤツ」
「うん。確かに観たけど」
舞は意外方向へ話題が飛んで、混乱気味だ。
「トビハゼは水が嫌いなんでしょ? 水が迫ってきたら逃げる。当然じゃなんのかな?」
「まあ、そうなんだけど」と亮平は認めてから「でもね、水口さん。トビハゼはちゃんと鰓呼吸も出来るから、海没したからといって水に溺れることはない。また体表が乾くと皮膚呼吸が出来なくて死んじゃうくらいだから、水を憎んでいるわけでもない。だから水が嫌いに見えるのは事の本質ではなく、結果だと思うんだよ」
「倉科君は、トビハゼが満潮から逃げ出すのは濡れるのが嫌だからじゃない、別に原因があるって言いたいわけだ」
呟いた脚本書きは「じゃあ、事の本質はどこにあるの?」とハッキリした声で質問した。
「水から逃げるのには、どんな理由があるの?」
「生存本能」
亮平は端的に答えてから
「危機回避能力に長けた個体が、優先的に生きのびて数を増やした結果だろうね」
と説明を補足した。
「トビハゼは水から逃げたんじゃなく、彼らにとって怖い敵、つまり海中の捕食者から逃げているんだよ」
「小魚を狙う肉食魚から逃げている、ってこと?」
舞の確認に「そう」と亮平は答えた。
「スズキやクロダイ、ヒラメといった魚食魚は、餌の群れがそれ以上逃げるのが不可能になる、波打ち際や岸辺に追い込むといった狩りをする。だから魚食魚の動きが活発化する夜明けや夕暮れは、岸辺近くで小魚の群れが逃げまどう姿がよく見られるんだ。その時間帯には、スズキやクロダイの大物が水深が50㎝以下の浅場にまで突っ込んでくるし、時には背鰭を水面から突き出して、水深30㎝未満の超浅場で暴れ回る事すらあるんだよ」
「なるほど」と舞は納得した。
「波打ち際まで追い込まれても……陸の上まで逃げることが出来れば。それは切実な願望であるってことか。そしてトビハゼは、長い年月をかけて、その能力を獲得した、と」
亮平は頷いて「敵に追われて水から逃げ出す魚なら、他にも例を挙げることが出来る」と続けた。
「マグロやシイラから追われたトビウオは、500mも空中を滑空して難を逃れようとするし、魚じゃないけどトビイカという烏賊は、50mくらい空を飛ぶことが出来るんだ。50㎝じゃないよ、50m」
そして「だけどトビウオやトビイカに関しては、誰も『水が嫌いで空中に逃げ出した』とは考えないでしょ?」と舞に了解を求めた。
「一方でトビハゼが『水が嫌いで水の無い場所に逃げようとしている』ように見えてしまうのは」
そう続けた亮平の結論を待たず
「明らかに敵に追われているというシチュエーションになる前に、既に行動を起こしているから」
と脚本書きはシメのセリフを引っ手繰った。
「いわば予備避難。転ばぬ先の杖ってわけか」
そして「トビハゼの行動の動機は分かったけれど……」と、一瞬、言葉を区切ったが「そうか! 倉科君が言いたかったのは『さもそのように見えている出来事が、見た目通りとは限らない。事の本質は別の所にあったりする』ってことだね」と悟った。
「つまり『行成と清少納言との間の書簡の往還は、行成がラブラブな関係を持ち掛け、それを清少納言が拒絶した』と、表面的なラブコメ展開だけに囚われていては、裏の本質を見誤るかも知れないってことだ」
天を仰ぐ脚本書きに、海洋生物マニアは「まだ上手く考えがまとまっていないんだけど」と呟いた。
「ただどうも、さっき岸峰が言っていた『政治的な情報交換の必要上』説が、ずっと頭の隅に引っ掛かっていてね……」
「言われてみると確かにそうだわ」
と、脚本書きが海洋生物マニアの目を見つめる。
「行成って能吏は、宮廷では――女官の間では――変人扱いだったんだけど、その奇人・変人ぶりっていうのは女官に良い所を誇示してラブゲームを持ち掛けるような動きを全くしなかったのに起因している。当時は噂話好きの宮廷スズメの存在が、今で云うインフルエンサーだったんだから。今に伝えられる行成の評判って、むしろ歴史上の天才数学者や物理学者の偏屈さや奇行エピソードに似ているんだよ。オモシロ雑学に出てくるような」
そして舞は「キミの言う通り、『夜をこめて』の時の行成の言動は、彼の普段の個性に照らし合わせて明らかにオカシイ」と喝破した。
「ニンゲン、恋に夢中になった時には自分を見失ったりするものだけど、そういう時って直情的に抱きしめたり壁ドンしたりしてしまうのが普通でしょう。いや普通じゃないのかもしれないけれど、なんと言うか……洒脱であるとか、どこか凝った手紙を書ける時って、理性や知性が活性化してないと無理だよね。だから普通、アタマに血が上って書いた恋文って『あなたの事が好きです。愛してます』みたいな、単純で単調な出来上がりになる」
「ん」と亮平は頷き「昔は恋文の代筆業って仕事があったらしいけど、依頼人が、字が書けないとか文章を作れないとかいうヒトばかりだったとは思えないんだよね。自分が冷静さを失っているのを自覚しているセンシティブな人物が――普段なら自分で書けるような内容でも――敢えて第三者のアタマを借りて文章を練ってもらうって場合もあったと思うんだよ」
「ただね」と舞は代筆屋説には否定的だ。「印刷文字じゃないんだからさぁ。特に行成の書く文字は、彼は三蹟――書家として最も優れた三人――の一人に数えられていたくらいで、他の人に真似は出来ない。書いたのは確かに彼本人で間違いないんだ。かねてから文の遣り取りをしていた清少納言が、間違えるはずがない」
「書いたのは彼本人かも知れないけれど」と亮平が反撃する。
「内容を考えたのが彼本人とは限らない。原案・原作者と作画担当が別人のマンガみたいに」
「倉科君の言う事に一理あるのは認めるけれど」
と脚本書きは懐疑的だ。
「ただねぇ……行成が清少納言を口説くのに、誰かに知恵を借りるとか、逆に誰かに入れ知恵されるとかアリなのかなぁ? 彼ってそういうタイプじゃなく、我が道を行くってイメージなんだけど」
「いや、だから」と生き物マニアは再反撃。
「行成が清少納言を口説いたというのが、そもそもの誤謬じゃないのかな。枕草子に書いてあるエピソードで確からしいし、それを否定する材料をオレは持ってないけど。でも、枕草子の作者は清少納言自身だろ? なにか重要な背景を省くことで、読者をミスリードしている気がするんだ。謂わば『書かない自由を行使したジャーナリスト』みたいな感じに」
そして亮平は「おい、そろそろ何か言えよ。片山」と、沈思を続けている探偵を責付いた。
しかし亮平の声に反応したのは、机に突っ伏していた純子で、ムクリと身を起こすと
「可能性があるとしたら道長でしょう」
と発言した。
「左大臣で後に摂政となる、藤原道長」