第1話 プロローグ
仕事をして、家に帰る。同僚などとの付き合いは薄く、一人での食事は随分と慣れてしまった。趣味は特になく、念願だった死神の仕事にひたすら打ち込む、他人から言われれば味気ない生だ。
こんな代わり映えのない毎日を何千何万何億も繰り返していくのだろう。
そう思っていた俺の日常に彼女、フィロメナが入り込んだ。
鍵を開けて玄関に入れば明るかった。仕事に出かけて留守にしていれば当然暗いので照明をつけるところから始めるのだが、暫くの間は必要なくなるのか。
いつもの癖で照明のスイッチを押そうとしていて、何もなかったように手を下ろしておく。フィロメナの世話をさせていた死霊が目撃しており、何か言う前に与えていた力を俺自身に戻し、早々に今日のところは自由にさせた。死霊は生前の人の姿でいる内に奥の部屋を指差し、魂の姿になると空気に溶け込むように消える。
奥の部屋はなにやら動く気配があって、死霊の教え通りフィロメナだろうと慎重に足を進める。フィロメナはソファーを陰にして身を隠しており、ただ頭部の薄桃色の髪は覗かせていた。なぜ間近にソファーがあるのに、床に座っているのだろう。
聞いてみれば答えは得られるが、俺は口下手が過ぎて寡黙であった。口に力を入れて聞く努力だけして終わる。
フィロメナとしては急に身動きの音がなくなって、怪訝に思ったのだろう。ソファーから空色の瞳までを見せてきた。
「……」
「……」
何か声をかけてやれればいいのだろうが。
フィロメナにとっては住み慣れぬ部屋どころか世界である。元いた世界を離れ、技術レベルが違いすぎる世界に移ることになった。火を使わぬ照明一つに戸惑い、俺の留守の間を一人で過ごせるか不安になっていたのだ。
だが、ぶっきらぼうで何を考えているか分からないであろう俺相手に、フィロメナは音を震わせながらも声をなした。
「お、おかえりなさい」
そんなことを言われるとは思っていなかった。
驚きつつ、心がじんわりと暖かくなる感覚にみまわれる。その心地よさに浸っていると、挙動不審にあちらこちらと顔を向けていて、ついには下向きに固定した。最期に見た表情は今にも泣きそうになっていて、俺は先ほどの言葉に返事をしていないことに気づく。
「今、帰った」
ただいま、はなんだか言えなかった。
それでもフィロメナには十分だったらしい。
「はい。おかえりなさい!」
一気に花開いた笑顔は明るく、眩しすぎるくらいだった。俺は直視できずに誤魔化すように荷を置き、夕食をとろうとした。帰りが遅くなったので、手っ取り早く買ってきていたのだ。勿論部屋に籠っていたフィロメナの分もある。
ただ荷から夕食を取り出す前に、片づけているはずの鍋がコンロの上に置かれているのに気付く。怪訝に思ってフィロメナに視線を送った。
「その、夕食を作ったんです。お世話になるから、なにか少しでも役に立てるようにって」
「……助かる」
「っ! 冷めてしまったので温めますね、少し待っていてください!」
慌てて走ったその先のことを見越して、俺は既に動いていた。予想通り、フィロメナが躓いて転ぶのを受け止める。よく知らぬ男が、それも得体もしれない死神がいつまでも触れるのは嫌だろうから、自分で立つようにそっとかるく押して促すと、案の定飛び退かれた。
「ごめんなさい! 私、また……」
「慌てるな。ゆっくりでいい」
また同じように転ぶことになる。
フィロメナは顔を赤く染め、今度は気を付けてゆっくりと鍋を温めにいく。その手順を何度も確認して格闘し、火をつけられて喜んでいた。そんなころころと変わる表情は、初対面の時の面影はどこにもない。
『数多くの悪行により周囲に被害を振りまき、世を混迷に導こうとする罪深き人間、フィロメナ。その魂を狩らせてもらうぞ』
仕事を割り切って長々とした罪状を述べ、死を執行する。
神に見放された自業自得の罪人のはずだった。その罪人であるフィロメナは膝を抱えたままのろのろと顔を持ち上げる。暗雲がかかった空色の瞳は光がなく、絶望しているようだった。
擦り切れた襤褸のローブに骨をあしらった仮面、身の丈ほどの大鎌を持った、一目で死神と分かる正装の俺を見る前からだ。よく見ると腫れぼったい目で涙の跡や痣が確認できた。
本当に罪人なのか。人間ではどうしようもならない人間を死神は処理するが、フィロメナがそれに値するとは思えなかった。
真夜中に何をするわけでもなく、外で一人うずくまっていることからして不自然に感じていた。話をして、その疑問はますます深まっていく。
執行を保留し、帰る家がないという言葉から特例処置として冥界と天界の狭間にある俺の家に拘置する。調査が正しいとしたらそのまま放置して罪を重ねられるし、正しくないとしてもその不備を見直すまでに野垂れ死んだら困るためだ。
下手をすれば職務違反とされる行動だった。それでも仕事は忠実に、魂を扱うのだからなおさらそうする必要がある。
夕食の準備にとてつもない集中を発揮しているフィロメナなので、買ってきた夕食は気付かれることなく隠すことができた。夜食か明日にでも食べることにする。
ずっと見守るには心配させられるので食器を運ぶのは手伝って、ようやく夕食に辿り着く。家に置いてあった余り物で作ったのだろうシチューを口に含んだ。
……毒は入っていないな。
「うまい」
死神は人間と比べて生命力が高く、毒ごときでは死なない。調査の正誤のための警戒は会ってからまだ一日目なので続けていくことにする。
それにしても、やはり笑顔がまぶしすぎる。ただ事実を言っただけなのに。
フィロメナは俺の言葉に大袈裟なぐらいに反応する。ただこれは俺相手だけでなく、本来の性格が現れているのだけなのだろう。保留しているだけでまだ死を執行される可能性があるのだが、気を許すのが早すぎるのではないか。
俺は死神の立場であるのに心配してしまう。自らの家に拘留場所にしているせいで公私が混ざっていた。死神の重要な仕事である罪人の魂の狩り取り時に支障がないよう、人間への思い入れがないようにしなければならないのだが、フィロメナに対しては難しそうだ。
特例措置である以上、対応は異なるのだということにしておこう。ただあくまでも死神と人間の関係であるのだから、思い入れないようにと心に留めておいた。