第56話 迫る凶刃と主の帰還
勝利の実感に湧く俺は、完全に油断していた。
だから、まるで気配を消したようにして忍び寄るその人物に、まったく気づくことが無かった。
真っ先に反応したのは、ムルだ。
彼女は突然、ミナからもらった短剣を抜き放つと、それをミナに向かって――否、ミナの背後から迫っていた刃に向かって振りぬいた。
金属のぶつかる甲高い音と共に、火花が散る。
それで全員がそちらの方に注目した。
ミナの背後から彼女を襲った凶刃。
それを手にしていたのは――
「グァバレア辺境伯っ……!?」
誰かの驚愕する声が響く。
その男――ドゥーラン・グァバレア辺境伯は、装飾華美な宝剣を手に、表情を醜く歪めた。
「ちぃっ……邪魔をするでないわ、冒険者風情がっ!!」
それはムルに向けて放たれた言葉。だけどムルはミナを背に庇い、動じることなく短剣を構えている。
「グァバレア辺境伯……これはどういうことですか?」
ソフィア団長に庇われながら、クラルゥが問いかけた。
辺境伯は不愉快そうに「ふん」と吐いて捨て、じろりとクラルゥを睨みつける。
「どういうことか……だと? それはこちらの台詞だ。地下監獄に行ってみれば罪人は牢はもぬけの殻。罪人は外にいるというし、それを追って断罪しようとすれば邪魔をする。クラルゥ嬢、そなた一体何のつもりだ?」
「彼女のことでしたら、私が領主の権限で戦時徴集いたしました。拘束呪具も装着させていますし、何ら問題は無いはずですが?」
それを聞いた辺境伯はますます機嫌を悪くしたように「屁理屈を抜かすなっ!」と怒鳴り散らした。
なんだ……? あの晩と違って、何やら余裕が無いように見える。
あとよく見ると顔の半分が腫れてる。何かあったのか?
「戦時徴集の規則は知っておる。それによると定められた戦場を外れて逃亡を企てた罪人兵は、問答無用で殺処分を下せるはず。街の防衛に駆り出したのなら、その範囲は街の中か、よくて市門のすぐ外だろう? ここは門からだいぶ離れておるぞ」
「何をもって逃亡の意図有りと判断するかは、現場の監視役に一任されています。今回の場合は、ここにいるソフィア戦士団長がその権限を持つ責任者です。貴方に独断で罪人兵を処断する権利はありませんよ」
「黙れっ! 小娘が、儂の判断に口を挟むでないわっ……!」
歯を剥き出して滅茶苦茶な理論を捲し立てる辺境伯。
クラルゥは一歩も退かないけど、このままじゃ辺境伯は無理やりにでもミナに斬りかかりそうだ。
そうなった時、クラルゥやソフィア団長は立場的に奴を止められるんだろうか?
現時点で、奴の不正を証明するものは何もない。
それに、もし仮に奴が罪人だったとしても、決闘の場でもないところで貴族を傷つければ、死罪は免れない。
それこそ、奴が同じ貴族であるクラルゥを傷つけようとでもしない限りは。
だけど、いざという時は容赦しない。
俺は一足飛びに斬りかかれるギリギリの間合いを維持して、静かに腰の剣へと手を伸ばす。この場で唯一、それに気づいたソフィア団長が視線でやめろと訴えてくるけど、こればかりは退くワケにはいかない。
「そいつはどの道、死罪と決まっとるっ! その執行が少々早まるだけのこと……いいから黙ってそこをどけ。取り巻き共にもそう伝えろっ」
辺境伯はそう叫ぶと、ズリズリと靴底を引きずってミナの方へ近づいていく。
そのあいだにいるムルのことも、お構いなしにだ。
それを見たムルの腕と足に力が入ったのが分かった。今にも斬りかかろうとする彼女を庇うように、俺は二人と辺境伯のあいだに身を滑り込ませる。
だけどその俺よりさらに前に割り込んでくる姿があった。
クラルゥだ。
「っ……! 何の真似だ小娘……?」
さすがの辺境伯も、足を止める。
そんな奴に向かって、クラルゥはハッキリと言い放った。
「我々の立場、貴方の立場、そして彼女の置かれた状況はご説明した通りです。それでも彼女を処断すべきと仰るなら――どうぞ、私ごとお斬りください」
そして、両手を広げる。
横ではソフィア団長の慌てる気配が伝わってきた。
「……正気か? 罪人ごときのために、貴族が命を張ると?」
辺境伯も、理解できないといった様子だ。
「誤解があるようなので申し上げておきますが、彼女にかけられた容疑はまだ確定していません。従って彼女は罪人ではありません。それに――」
クラルゥの声からは、静かな怒りが伝わってくる。
「彼女は今の今まで、この街を守るために奮戦してくれた恩人のひとりです。ならば私は街を預かる領主として、その恩に報います――ええ、命だって張ってやりますよっ! 分かったらさっさと剣を引きなさい、このタヌキ親父っ!!!!」
その毅然とした態度に、辺境伯はおろかその場の全員が圧倒された。
気のせいか、今だ勢いが衰えない川の激流すら畏怖して音を断ったように感じられた。
誰も、ひと言も声を上げない。
そんな状態が数秒か、あるいは数分か続いた後――
「……ぷっ」
沈黙を破ったのは、俺の背後。ミナが思わずといった様子で噴き出した笑い声だった。
「あっ、ははは……タヌキ親父って……いくらなんでもダメでしょっ……? タヌキに失礼じゃない」
そのあんまりな物言いに、俺も釣られて笑ってしまった。
するとムルも、離れたところで見ていたスレインやユリアも、果てはソフィア団長や戦士団員までもが、こらえきれないといった風に笑い始めた。
「たっ……確かに。そのオッサンから抜けてるのは『太』じゃなくて『知』だよな」
「兄さん、笑い過ぎです……まあ、タヌキほど愛らしくないですし、不相応とは思いますけど」
「ぷっ、皆さん……あちらは仮にも貴族なのですから……ぶふっ、もう少しうふっ……言い方をですね……?」
ソフィア団長が、何かツボに嵌ってしまったみたいだ。
スレインとユリアも、歯に衣着せぬ物言いである。
初めはみんな抑え気味だったけど、やがて耐えられなくなってしまったのか、笑い声は哄笑に変わる。
中には笑い過ぎて涙を流している者までいた。
そんな様子を、自分への侮蔑だと受け取ったのか。
辺境伯は「貴様らっ……!」と周囲の面々を睨みつけた。
そして改めてクラルゥに向き直ると、苦々しく吐き捨てる。
「後悔させてやるぞ」
奴の顔は怒りで真っ赤になっていた。
「全員、指を切り落としてやるっ……! 後悔させてやるぞ。伯爵家ごときが、この儂に歯向かったことっ……!!」
そう怒鳴り散らす辺境伯は、もはや周りが見えていないのではないかというほどに激昂していた。
ともすれば、本当にクラルゥのことすら切り捨ててしまうのではないかと不安にさせるほどに。
だけど、結果的に奴の剣が振るわれることは無かった。
俺たちの背後、街とは逆方向から思わぬ声が聞こえてきたからだ。
「伯爵家ごとき、とは。些か例を欠くもの言いではありませんかな、グァバレア卿」
低く、落ち着いた初老の男性の声。
その声に、奴だけではなく俺たちも驚いたように声がした方を振り向いた。
そこにいたのは白馬にまたがり、数人の騎士を連れた男性だった。
やや老いてはいるものの精悍な顔つきで、染みひとつない純白の該当を肩から纏い、馬上から声をかけて来たその人物。
一体何者なんだ――? という疑問は、クラルゥの一声で解消される。
「――お父様っ……!」
ということは――
彼が、王都に出向いていて不在だったという、バドゥル・ハーヴォルド・グランヴェンシュタイン伯爵……ここ、ハーヴォルド領の現領主だ。




