①フィーア
第Ⅰ譚{円卓の国}
怖いんだ。
「千賀様。」
いつだってそこには、恐怖が有った。
「千賀、紗良様。」
――・・・
「千賀 紗良さま~?」
――・・・?
【東京都江東区某所・病院施設】
クレゾールの独特な匂いが、風呂に入れない患者の体臭と混じり特有の臭いを作り出す。彼女の鼻は敏感なもので、そのせいかこの場所に来るときはいつも顔を俯き、ローテンションだった。フカりと安っぽく反発するソファから立ち上がり、看護師は近付いてくる彼女を見下ろした。
「チガヤです。千萱...紗良。」
「あ、あらぁ、ごめんさい。」
「いえ。フリガナ、書き忘れたので。」
薄手のカーディガンを羽織った制服姿の少女は、紡ぐ言葉を淡々と伝えると、チラリと怠そう首を傾げた。斜に構えたような態度から表れるムッスリとした無愛想な表情をしながらも、目を奪われるような大きな瞳がパチリと瞬く。ボーイッシュな短髪の前髪は眉毛にかかり、ふわりと甘い匂いが揺れた。
看護師は暫くの間、その陰りに心を奪われるようにボーッとその姿を見つめていた。
・・・
「え。」
時計の針がカチりと音を鳴らした。ジトーとした目が看護師へ向く。
「そ、そう。いえ、では体調お変わりないようでしたら、Ⅾ病棟の1004号室へどうぞ。」
時計の針と、受付を終えた彼女の足が進みだした。カチカチ、カチカチ、しつこいほどに残響する時計の音が彼女の足音と重なった。廊下は仄かに灯りが揺れて、奥へ進むにつれ暗闇が広がっていた。看護師はその背中を見届け、C病棟の文字に目を落す。
「ねぇ、高橋さん。」
「んー。」
「いえ、その......。あの。。。何て言おうとしたんだっけ。」
「どしたー、夜勤のショックで記憶飛んだかいな。アンタ、病院行った方がいいわね。」
看護師は皮肉にニヤリと笑い眉を顰めた。
「大丈夫です、お気遣いどうも。」
次の来客対応へ視線が移る。遥か闇へ伸びる廊下では、すでに彼女の背中は消えていた。
――――――
――タン、タン、タン、タン・・・
ローファーの足音へ寄り添うように――チャチャチャチャ、と軽くて短い爪の音が合流する。
「病院に家畜とはねぇ。いつからココは動物病院になったんだろうか。」
嬉しそうにベロを出しながら、はち切れんばかりに尻尾を振る白く綺麗なサモエド。やがて病院特有の匂いは薄まり、犬の匂いが混じっていく。
「ハッ・・ハッ・・ハッ・・!」
小走りの犬と角を曲がり、段差を降りてはまた越えて、やがて暗闇に塗れた廊下は一筋の光を漏らす病室へと道を繋げた。千萱 紗良と名乗る少女はガラリと引き戸を開け、その先に見える石畳の空間へと足を踏み入れる。おおよそ病室とは思えない1004号室(室外)。土っぽいに気流に、鳥の囀りが響く。気付くと紗良の横には彼女と手をつなぐ様に佇む、包帯を巻いた半透明の少女がいた。そして一つ、また一つと、冷たい冷気が彼女の背中へ迫る。しかし紗良は当然の如く、ヒンヤリとした少女をチラリと見ては「来る?」と言って笑った。
「そっか。」
紗良は石畳へローファーを踏み出し、サモエドも続いては利口にも病室の引き戸を閉めてみせた。軽い陽の光は肌に照り付け、何処からか、涼やかな風が蒸発した草花の香りをフワリと運んだ。
「はぁ。お化けこわ。」
軽口へ続くようにサモエドが知的な男の声を響かせる。
「主。アレは、どうやってなされたのですか。」
「ん?」
「凡庸な一般人に解除魔法を使わせ、廃病棟を開くトリガーにしてみせた。」
彼女らの正面にはまた扉があり、一人と一匹はその扉を見つめて並んでいた。
「自覚のない魔女なんてそこら中にいる。幽霊や怪異が淘汰されてきたように。そういうのを見つけてやれば、あとはちょちょいと受付の書類に術式を混ぜてやるのさ。紙の折り目、印刷の汚れ、鉛筆の濃淡。その全てに意味がある。」
「左様ですか。簡単そうに仰られる。」
「難しいはずだろう、そっちではね。しかし問題は無魔モドキ、つまるところさっきのナースみたいな優れた混血がいることさ。必然私たちの邪魔をしている奴は、感度ビンビンの老害純血魔導士だろうね。あるいは混血でもよぉーやってんのか、なんにせよ手を出さないのが最善手だ。観測出来る人間はレベルが高い。これ以上敵を作るのはごめんだからね。こっちにはもう暫く帰ってこれない。」
サモエドは悲しそうに首をもたげた。
「残念だね。さらば愛しのスカイツリー。」
「残念です。さらば豊洲のドッグラン。」
「んなモノ、幾らでも作ってあげるってば。」
千萱 紗良は自身の正面へ構える重厚な木製の扉に手を掛け、それを開く。
「はっはー。何せこれから、コロンブスも驚きの大航海をしようってんだから。」
ギリリと開いた扉の先。大きな円卓を囲む威圧的な老若男女、
そしてゆっくりと最後の空席へ辿り着くは、JKと犬。
「そうだろ諸君。」
その目が鋭く光る先で、時計回りに鎮座するは、
先導手:オリバー・ウィリアムズ{フェノン騎士団シーカー部隊}
運搬師:ブラン・アレクサンドロス{アレクサンドロス探潜団}
技術師:アルプ・ネビュラ{ネビュラ探索隊}
医療師:オーガスタス・アルデンハイド{サラマンダル・アルデンハイド}
調理師:ウィル・ヒュドラ{ウィンディーノス・ヒュドラ}
護衛者:アーサー・ヴィクトリア{アポロニカ騎士団シーカー部隊}
幸運者:オルテガ・オースティック{ウェスティリア魔術学院・教師}
7人の秘匿されし英傑とオルテシアの魔法史が交差するその日。
『さぁ、ワールドクエストを始めよう。』
全てが始まり、終わりだす。
・
・
・
・
「ところで、コロンブスって誰だっけ?」
世界は巧妙に奇妙であって。サテラは「はて?」と首を傾げた。
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ノスティア遠征、【霊廟テヌーガ】攻略後。
{ウェスティリア魔術学院・シルフィード寮}
「僕は、ユーヴを抜けるよ。」
春を招こうとする矢先、残る寒さと雪を払い除け、暖炉の熱がじんわりと身体を暖めた頃合い。凪ぐ水面へ水を落したように、沈黙は破れ、動揺が波及する。
端を発したのは、ユーヴサテラの交易担当「アルク・トレイダル」であった。
小説家になろうにお住いの皆々様。
お久しぶりです。
こちら一年間小説を書きませんでした西井シノです。
さて、まずは暑中お見舞い申し上げます。
年々暑さが厳しくなりますが、お元気でお過ごしでしょうか。夏は何かとセミやら蚊やらが多くて鬱陶しい限りだと感じていましたが、最近では暑すぎて虫が湧かないという「幸か不幸か分からない時代」へと突入しましたね。また読書が好きな人間を本の虫(Bookworm)などと呼称したりもしますが、蛆虫の皆様方におかれましては体調お変わりないでしょうか。本の虫は元来、チャタテムシという本に住みつくシラミから来ていますが、言葉は生き物であり紙媒体が淘汰されデジタルへ移行していく中で、本の虫という言葉もやがては淘汰されていきそうにも感じます。あるいはチャタテムシが絶滅しない限り生き残るか。反面スマホやPCに齧りついてる人への秀逸な呼称は未だ思いつきそうにもありません。余りにもマジョリティ過ぎるんでしょうね。取り敢えずNetworm(網の虫)なんて言うのはどうでしょうか。あー、芋虫捕まえたみたいですね。
閑話休題。
作者がこの一年間で何をしていたかは秘密ですVALOが、常々小説は書きたいなと思っていましたので、熱意が心の何処かでストールすることなく、無事に再開することができたことは嬉しい限りです。多くの活動家もそうであるとは思いますが、こうして創作を連ねられるのは受け手の皆様がいるからであると存じ上げます。
またこの場を利用しまして、再度読み始めてくださった方、最近読み始めてくださった方。そしてep.261という長い旅路を経て、この休憩場所で出会えた皆様方へ、本作『ノアの旅人』の”新しいあらすじ”を掲載して締めとさせて頂きます。
読了マジあざす。
―――2024年7月28日 西井シノ
【新あらすじ】
ワールドシーカー『ノアの旅人』。
物語は、時の大事件{ワールドクエスト・Ⅲ(サード)}が終結した「クリア後世界」の御話。
オルテシア大陸に根差す国々が各国のパワーバランスを覆し得るオーパーツという新概念を求め、それを悟った冒険者たちが一獲千金、あるいは地位や名誉の為に高難易度ダンジョンへ挑んでは命を落とす大探索時代。それは同時に、未知なる探求への高揚と、オーパーツによる新たなる野心、混乱を孕む不安定な時代であった。
そんな世界において、大衆がオーパーツを知り得る一昔前より、陰ながら未知の迷宮への興味、知見を深め調査・開拓・探索活動をしていたのが、特殊領域専門の冒険者『探索士』であった。
ウェスティリア魔術学院で落第ギリギリのはぐれ者であるナナシも、ダンジョンへの興味とシーカーへの憧れを抱き、課外授業として「アルク・トレイダル」と共に冒険者クラン{ユーヴサテラ}を結成。挑みし超高難易度ダンジョンアミテイルにて傑出の狙撃手「テツ・アレクサンドロス」を仲間に引き入れると探索士クラン{ユーヴサテラ}を結成した。そんなこんなで国を滅ぼしたり、人を拉致したり、盗みをしたり、あれやこれやと旅を進め、ダンジョン・テヌーガにてナナシが死亡し現在に至る。
時は寒明け、一陽来復。
場所はウェスティリア魔術学院シルフィード寮。
母校にてアルクは、ユーヴサテラを脱退することを宣言する。