新章序譚:緊急事態の主人公
――暗闇だった。
何も無い悠久の暗闇、熊の穴倉のような狭さに一人、背筋を曲げた胎児の様に、そこにいた。
「殺してくれ。」
タイムリミットが迫っていた。それでも身体は動かない。ただただ度々、そこにいた。どうやら痛みは無い様だ。熱さはあって風邪っぽい。度々不快、唯々不愉快。そんな時間が、永遠と続いていた。考えることはと言えば、夢想について。幾たびも寝て、目が覚めて、どの夢よりも悪夢のような現実を見る。意識が戻る、しかし屍の様だ。
「殺してくれ――」
「死ねばいいさ。これは走馬灯。」
――?
冷たい声が、こめかみを貫くように響いた。
「走馬灯でさえ、君は僕に顔面を踏まれている。」
素足の少女は、冷たい足をこの右頬に当てがり、踏みつけながらそう言った。
「セカイ。」
しかし身体は5/4スケール。
「違うなぁ。僕らはセカイの思念体であって、セカイでは無い。その指輪にプログラム化された人工知能みたいなもので、つまるところ似て非なるもの。僕は私であって、私は僕ではない。」
暫く黙っていた。もう一度眠ってしまいそうな一時に、さながら定位置かのように柔い足は動かず、徐々に体温が近付いていく。沈黙、そして沈黙。幾ばくかして腕を組みながら顔を踏み続ける少女に、俺は僅かながらの反抗心で呟いた。
「...臭い。」
「ん。図々しい抵抗は止め給え。腐っても僕らの足だ。清潔で、完全で、完璧で、超常で、明晰で、冷血で、爛漫で、傲慢で、高潔で、やっぱり清潔で、君の大好きな、私の足。むしろ、好きだろ。こうされるの」
仄かに明るい声色が冷たいものに変り、いくつかの表情を見せてまた明るいものに戻る。そしてペタペタと額や瞼の感触を確かめるように踏んだあと、そいつは俺の腹に尻をついて、両足を頬に当てがった。
「ねぇ、どう?」
「悪、くないです...」
いっそここが地獄なら。俺は視線を落とし、白絹からすらりと伸びる脚を覗いた。
「そう。……ちなみに全部冗談で、私はセカイの分身だし記憶が共有されている。」
「げ。」
「なんてことが有り得るんだよ?パンツみないで。」
そいつは俺の瞳を覗くように両手をついて、髪を垂らし、俺を見下ろした。パンツタイム終了。
「ねぇ。僕の知る限り、サテラのプロミスゲートは一度別世界を経由している。そこが冥府であれ何であれ、彼女は経由して現れる。」
――。
「君の最期の記憶はブラックブックの呪いにカノンを返し、吸収しながら相殺しようとした場面。しかし誤算だったね。カノンを使えば肉体を護る魔素が無くなる。だからリンゼ・シラハは頑なにカノンを使うなと君にお灸を据えた。」
囁くような声と吐息が当たる距離。まるで誰かに聞かれまいと、密かに伝える様に。
「……」
「君が聞きたそうにしてたから話しているんだよ。ここの場所について。視線を外さないで。」
――。
「何が出来るって言うんだよ。」
「何でも出来るさ、少し歩こうよ。」
間髪入れずに彼女は言った。しかし、歩けるわけがない。呆れながらそう口にしようか迷っていた。口にすれば現実を自分自身に突きつけるだけ。絶望を見返すだけ。しかし、何も言わない内にそいつの手が身体を起こす。まるでそれは幽体離脱でもしたかのように、軽かった。
「どうして。」
「歩けたね。」
ずっと寝ていた分、身体は軽かった。手は繋がったままで歩調は遅く、景色は変らない。
「……」
しばらく、歩き続けていた。
「セカイ。」
「なに?」
俺は調子が狂い、髪を掻いて目を逸らした。悟ったように彼女は頬を膨らませ、冷たい態度に声色を変えると見透かしたように指を抓って言った。
「いたっ。」
「名前なんて別に良いでしょ?君も名無しなんだから。」
少女は止まる。
「言うなれば私は末の妹だ、まぁそれはいい。じゃあ次は、目を凝らして。」
俺は彼女を見つめるが、そいつはずっと遠くを見渡していた。俺は習う様に遠くを見て目を凝らす。一呼吸を整えて、沈黙が続き、小さなセカイは俺の手を強く握った。
「ここは冥府。」
スッと暖色の雲がほどけた様に透明な夜空が現れた。形容し難い空間、その中にいる異端の俺らに彼らは視線を合わせていた。俺は腰の鞘をまさぐり刀の柄を掴む。彼らはそれを見ると、少しばかり仰け反って一歩下がった。
「敵じゃないよ。」
セカイは俺の手を離し、柄の先っぽに手を置く。
「目を凝らさなければ見えないし、干渉しようとしなければ、声も匂いも届かない。私たちはここでは特異な存在。」
「……特異。」
「でも、向こうには見えてる。君が刀に手を当てたその行動、一挙手一投足。」
セカイは手のひらを上に向けた。
「炎魔法、上手だったでしょ。」
そして空いた左手を繋ぎ、強く握った。
『――レヴァーテイン。』
剣を象った様に尖るその上級炎魔法は、元素系の攻撃魔法で最も有名なもの。しかし誰に向けるでもなく、その焔は天に昇らせるように揺らめき、踊る様にくるりと螺旋を描いて、風に吹かれたようにフッと消えた。
「何したんだ?」
「分からない。でも敬意を表したの。"弔う側"としての。」
セカイは何かを目で追う様に踵を返し、手を引っ張った。
「それは同時に、救われる側だって言葉にもなる。だって私たちはそう願われているから。きっと今までも、これからも。」
目で追った先には子供たちが跳ねていた。それに釣られるように、彼らの表情が柔らかくなる。
「やっぱりこっちだったね。」
彼女は歩き始めた。
「身体を動かすのにもコツはいるけど、それが出来たとして出口を見つけられなきゃここからは出られない。座標はきっと最初に君がいた場所の近く。ここは冥府だから端を探して意味なく歩いてたら彼らの仲間入りさ。私がいて良かったね。」
「……。」
「こういうとこ、セカイはあざとい魔性さんでプライド鬼高さんだから、君のことを好きかどうかなんて神にも分からないけど。大切には思ってるはずだよ。これも君が聞きたがったこと。」
「そう。……お前は?思念体。」
彼女が指輪の思念体なら、旅の相棒に嫌われる訳にはいかない。というか嫌われている訳がない。というかそんなことは別に聞きたがっていいないが、やはり聞いておいて損は無いだろう。
「パンツ覗いたから嫌~い。」
「面目ございません……。」
俺はげんなりとした気持ちのまま歩いていく。
「まぁでも、大切であることに変わりない。指輪を薬指に嵌めるんだ。そして祈れ。」
足は座標とやらに辿り着く。夢うつつ。正直曖昧のまま。
「幸せになりたいって、祈れ。それが薬指に宿る時の力。正直、こんなヒントは与えたく無かったけどね。」
促されるまま両の掌を握った。次第に気配が鮮明になる。その場所の周りには人が集まっていた。否、初めからそこにいたのだ。ただ、迷い込んだ異端の旅人を見守る様に。
――死んだらまた、ここに来るのか。
一抹の不安、あるいは疑問。
「ありがとう。」
しかし、それをさっぱり拭う様に僅かに声が聞こえた。子供の声。俺は顔を上げて周囲を見渡す。
「ありがとう。」
――?
「助かった。」
聞こえない筈の声、次第にそれは増えていく。
「がんばれ~」
「ありがとうございます。」
「応援してる。」
何故だか、誰が誰だか分かる気がした。あの時、エリックの過去を覗いた時に、きっと彼らはそこにいた。痛みながら、絶望しながら、呪われながら、しかし生者であった彼らは今、ここに居る。他人の気持ちなんか分かるわけがない。誰もが死を恐れている。当たり前のことが当たり前に流れて、世界は残酷なまでに無価値な絶望で溢れている。それでも何か一縷の何か、救いがあれば。たった一つ希望があれば。
「ありがとう。」
正しかったと。
『旅人よ。』
そこには、仮面を外したエリックが立っていた。
『何の見返りも無いだろう?』
「あぁ。自己満足さ。それよか、あんたそんな大きかったんだな。」
2m悠々に超えようか。年老いたエリックは咳ばらいをし、笑いながら言った。
『そうか。そうだろうとも。しかし命を賭した君に何か見返りが有ろうとも、偽善には成らぬや。お主はこれだけの者を救ったのだ。つまり...、それは見返りでは無く、副産物と言おうか。」
エリックは耳打ちする様に腰を曲げ、
「……星見寮の祭壇にある小さなレリーフを“大法廷”に持っていきなさい。』
小声でそう言った。
「何かくれるの?」
『ふふ、お楽しみだ。さぁ行きなさい。』
なるほど。人生に楽しみがあるならば、帰りたくもなる。生きたくもなる。活力が湧いてくる。エリックは大きな杖で地面を着いた。そこにはヒビが入り懐かしい匂いがする。きっと正しい居所。俺はその亀裂に手を入れ、力づくでこじ開け、頭から身体をねじ込んだ。今、生きているという実感が湧く。身体が入る3/1、2/1、加速するように胴体は吸い込まれていった。
◇◇◇
「いつつ……。」
身体が重い。死んでるみたいだ。
「......うっ」
花の匂いが、離れていくほどに、視界には光が舞い込んでくる。
「セ...カイ...?」
見慣れた顔は、怒った様に泣いていた。俺はそれを拭う様に手を伸ばす。しかし彼女の頬はやけに遠かった。涙なんて流れていない。彼女は今日も平常運転。
「お帰り、...馬鹿ナナシ。まだ生きてたの?」
全身に血が回るような感覚。足先を伸ばし、肺に呼吸を入れ、後頭部の後ろで弾む柔らかい腕を感じながら、俺は小言を返す。
「いきなり、罵倒ですか...」
「うん。私の気を散らせた、馬鹿でアホでドジで、あとチビ。」
――いやっ。
「チビは余計...」
空気が、巡る血が、感覚が、身体の輪郭をなぞっていく。
「よけい……」
そこにある違和感と落とす視線、雄大なダンジョンにポツリと自身。
「チビ。」
身体は小さくなっていた。
――――新章序譚:冥府の村
しばらく休筆します予定。