④ノアの旅人
かつて。
父さんは、私の目標だった。ソロシーカーでありながら、他隊の窮地には煙草を咥えて現れる。煙草の匂いはモンスターたちを誘き寄せるから、ダンジョンでは御法度な嗜好品。そんな父さんから終ぞ煙草を取り上げたのは、私たち姉妹だと聞いている。赤子に煙はよろしく無い。それから彼は胸ポケットにそれを忍ばせ続けた。何年も何年も未開封のそれを皺くちゃになるまで持っていた。
引退したら吸ってやるさ。
いつかの日、いつかは訪れるその日。父さんは帰らなかった。母さんは、浮気されたと言って笑いながら泣いていた。死なれるよりもマシだったのだろう。残念ながら、父さんは誠実な人間だった。浮気相手がダンジョンならば、なるほどそれは言い得て妙だ。ことなくして胸ポケットに煙草を忍ばせた珍しい遺体が、ダンジョンから発見された。身元不明の滑落死体、性別すらも不詳とされる。ダンジョンではよく見る置物である。
―――――――――
「もう二度と、この下には潜れないよ。」
「――は?」
「厳密には帰って来れない。ソフィアちゃん。君の身体はもう許容できる毒の蓄積量を大きく超えている。もう、このダンジョンには戻れない。君が持つのは、片道切符。」
「……。」
あの日。私が死んだ日。ボロボロになった煙草が私を見つめていた。どんな味がするんだろうか……。そんなことを思い浮かべて、頭の中を満たそうとした。
――リン……リリリン……。
鳴った受話器の音すら腹立たしい。しかし今は、それを無視してやる気力も無い。ただ流れに身を任せて、水車のように機械的に、私はそれを耳に当てる。
「……はい、ラインズ。」
「ソフィアちゃん?――私だよー、ミック・ラインズですけれども。」
ウザかった。それでも、こんな姉の調子が私を少し元気づける。
「何?」
「んふ。それがねぇー、面白い客人がそっちに行きそうなんだぁ。」
「え?」
「サテラの弟子たちだよ。それがさぁ、この間フェノンズが襲わて……」
それから考えた。片道の切符について。きっと父さんは、最期の時まで、この煙草を吸えなかったんじゃない。今になってよくわかる。この煙草を吸いたくない。最期の時まで、あるいは、この煙草が次に繋がるなら……。
そんなことが脳裏を過った。正気じゃない。分かってる。
私は涙を浮かべながら酒瓶を開けた。ミックには伝えられなかった。今日で、引退である。教会の酒場にある酒はコレクションだと聞いている。知ったこっちゃない。……全部開けてやる。全部できる。したいこと、出来なかったこと、試せなかったこと。何時間経っても、客人は来なかった。当たり前である、現実とはそういうものだ。こちらからは何もしていない。普通に考えればギルドはフリーダムを進める。あるいはカノープスか。冷やかし程度にアルデンハイドも。だから、私の所になんて来る筈が無い。現実とはそういうもの。私もそれを望んでいない。そうだろう。だって今来たら、ここに来たら、彼らが来たら、
――私は煙草を、吸えなくなってしまう……。
感情が高ぶり、急激に沈む。まるで躁鬱。そんな私の虚を突くように、教会の古扉が未練たらしく音を鳴らした。
――ソフィア。
父親の声がする。
――ソフィア?
母親の声がする。
――ソフィアちゃん?
それに似た姉の声が。
――ソフィアちゃん。
かかりつけの医者。
――ソフィアさん。
フェノンズの奴ら。
――ソフィア殿
――ソフィア?
ソフィア――
――ソフィア。
大切な仲間たち。
……あぁ、狂っているな。これだけの愛を踏みにじって、死に方を決めて挑んだ地で、最期の最期で、走馬灯なんかでッ、私はッ……、私はッ……、
――生きたがっている。
『誰かぁッ!!!!』
落ちる。落ちる。絶望的な浮遊感が身体を支配して、死に向かって走っている。
――まだ生きたい。また会いたい。
なんて強欲なのだろうか。それでも生きたい。落ちたくない。泣きたくない。空中で、制御の効かない身体で足掻く。泡が割れる様に、この身体が叩きつけられるその一瞬まで。あぁ、父さんもこうやって死んでったんだろう。あぁ、嫌だ。まだ何も、まだ何も。
「――いやだっ……」
いやだ、いやだ、いやだ、いやだッ、私はまだッ……
『死にだぐっ――』
「ふぉ・・・ぉ・・・!!!」
―――ッ?!!
終ぞ漏れ出た声の隙間を縫って、耳に入る声が、幻聴が聞こえる。伸ばしている腕の先から、闇に染まった上空から、一体何故か、何故か彼女の声が聞こえた気がした。いや、今、聞こえている。ずっと聞こえてくる。なんで、なんでか。なんで。
『ぉおおおおおおおおおおおおお・・・・・・・!!!』
もうずっと落ちている。助からない高さを落ちている。
「――な..」
それなのに何故、君がいる。
『ソフィ見ぃいいいいいつけたぁあああああああああ!!!』
『プーカ?!』
何故。
『ウノっでェ、言ってなァあああああああああああああい!!!!!!』
『……ウノ?!』
プーカは肩をがっしりと掴み、特に何をする訳でも無く落ちていく。
――この子、重いッ。
向かい風の中も、声が風にかき消されないように、プーカは大きく口を開ける。
『ウノって言ってないどッ・・・、ああ上がれんねんッ!!だからァよぉ分かんないけど、ソフィは一人じゃないねん!!』
「えっ...」
『独りじゃないねんッ!!』
何か、自分を助ける手段がある訳でも無く増えたその重さに、ソフィアは笑う。口角を上げ、涙を流しながら、ただ笑う。
――あぁ、……そうか。
私はただ。生きる理由が欲しかった。
思案が駆け巡る。まるで今ある全てが、この時の為に有ったかのように。プーカの身体を背中へ乗せ、空中でうつ伏せに姿勢を制御する。この命を、この重みを、絶やさない為に。
境界を越える者
一子相伝の刃が光る。
『お別れだ。』
かつてないほど高い威力で崖の岩へ刃を刺し込む命のハーケン。その柄には命綱を結んで垂れ下げながら、限界まで最速で創造、同時に握力で摩擦を増やしブレーキを掛ける。
――ジジジジジジジジジッ!!!!!!!
「痛ッ!!」
破れるような音が聞こえ、右手が使い物にならなくなる。手を変え左へ、苦痛へ飛び込むように命綱をまた握る。
『止まれぇえええええええ・・・・えええええええ!!!!!』
――ジジジジジジジジジッ!!!!!!!
皮と肉が飛び散っていく。
手袋でも、しておけば良かった。
『うぉおおお・・・おおおおおおおおおお!!!!』
まだ死なない。
まだ、死ねない。
――ジィジジジジジッ!!!!!!!
死にはしない。死ねはしない。死ぬわけにはいかない。右手の肉が剥がれ落ちようとも、左手が吹き飛ぼうとも。
『おぁああ・・・あああああああああああ!!!!!』
限界と境界の外側を、見てみたい。
『・・・あ˝あッ!!』
――ジジジッ……ジッ……ジ、ジ……。ジリ。
「はぁ……、はぁ、痛ってぇ」
思わず声に出る。痛みのせいか、止まった安堵か。しかし良く止まったものだ。何かを握る力など、とっくに無くなっていたと思っていたのに。
「いってぇねぇ、これ。」
―――――ッ?!
視界に赤が垂れ、髪が汗以外で濡れていることに気付く。顔を上げれば、プーカの両手からは自分と同じように真っ赤な血が流れていた。彼女はプーカの手を見て間接的に自分を理解した。酷いケガだ、と。
「・・・」
「あー、プーカさんクスリ無くしましたわ。コレ。」
当たり前のようにポケットをまさぐりながら、地獄の果てのような場所に少女がいる。幼い少女が。一介の、ただの冒険者が。
「……なんで来たんだ。」
ほどなくしてソフィアは聞いた。ゆっくりとロープに血の跡を付けて降りながら。
「仲間だかんね。」
「……パトロンだ。」
「でも、ナナシが言ってた。ソフィはまだウノって言ってないって。だから、上がらせちゃダメなんだって。だから、一緒に居てあげろって。……また続きをやるんだって。だから、ナナシはここに来る。」
風の無い暗がりで、ソフィアの捨て去るような低い声が通る。
「……バカだな。来れやしないぞ。こんな所に。」
「くるよ。プーカがここに居るかんね。」
食い気味でプーカはそう返す。
「っ……」
やがて地に足が付き、辿り着いた層には異様な神殿が有った。ソフィアは微塵も恐れを見せず、躊躇もなく、現状に構わず歩みを進める。プーカもそれに続く。ここが何処だかは問題じゃない。歩みを進めるか否か、ソフィアにとってはそれが肝心だった。それだけが肝心だった。
「帰るんよ、ソフィ。」
「それ以上は、来ない方が良い。」
ソフィアは不思議と神殿の構造を理解していた。それは長年の経験に基づくものからか、彼女には既視感が有ったのである。
「なんで?」
プーカは歩みを進め、仕掛けられた重厚な扉が天井から下り、その質量を叩きつける様に二人の出口を塞ぐ。
「こうなるからだ。」
分厚い仕掛け扉から外気を遮断するように風が巻き上げられた。
「どうなるん?」
プーカは閉ざされた出口に振り向きもしない。
「プーカ。私たちが帰るには、もう多すぎるんだ。困難の数が、越えなきゃいけない障壁の量が。」
「うん。」
「だからもう..」
「うん。」
「だからもう、ダメなんだ。」
ソフィアの声が闇に震える。塞き止めていたものが溢れ出すように。
「もう、進むしかないんだ......」
「うん。」
「...ごめんなさい。本当は、巻き込みたく無かった。私なんかの為に、あなたを……」
感情が決壊したように俯いたソフィアを前に、プーカは声色を変えずに言い切った。
「――またこればいいんよ。」
「え……?」
「始めに決めた約束だかんね。切っても切れない、ソフィとの約束。でもユーヴはまだ臆病だかんね。今日はもう帰るんよ。」
屈託のない真っ直ぐな表情。諦めることを放棄し、闇を裂くように光る、迷いのない幼い瞳。
「みんなお腹空いてるかんね。だからみんなでごはんを食べて、何度も挑んで、何度も挫けて、また辿り着くんよ。一緒に笑いながら辿り着くんよ。それが、約束だかんね。だから、一人で悩むのも、勝手に進むのも、今日で止め。いっしょに生きて帰るんよ。」
「でも……、どうやって……?」
縋る様にソフィアが顔を上げる。絶望に曇ったその表情。プーカは対していつも通りに、当たり前のように、紅い血に濡れた手を差し伸べて、碧髪を揺らした。
「ソフィ。」
空気に流れが生まれる。直後、プーカの後ろで木製の巨大な拳が壁を粉砕する。神殿はドゴォン!!と衝撃に揺れ、そこに現れたのは外身をボロボロにした猫のようで壊れかけの歪な乗物。そこに現れたのは余りにも巨大な「斜塔の陰謀」に踏み込んだ一介の底辺冒険者クラン。
ガラガラと闇は崩れ、光が漏れ出し、風が吹いた。
――【探索士クラン『ユーヴサテラ』】
TIER:7
階級位:F
構成人数:5
アーティファクト:{黒き世界樹}
登録潜具:{ノアズアーク}
『大丈夫。プーカたちが、ついてる。』
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血盟主:{プーカ・ユーヴサテラ}
―――旧題「アウターラインズ」より