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こことはちょっと違う現実世界

解放区

作者: 仁司方


    1


「奴隷労働心得。休まず、あわてず、確実に」

『休まず、あわてず、確実に』

「奴隷こそ真の平等階級、社会の前衛」

『奴隷こそ真の平等階級、社会の前衛』


 監督官が唱えるお題目に、五十人の奴隷どもが唱和する。

 いつもの、朝の光景だ。今日も、一日はおとずれてきた。

 残酷なものだ、と思う。

 奴隷として働くことが、ではない。


 こうして、毎日毎日が、ただすぎ去っていく――というのが、なににもまして残酷な現象だと、思うのだ。


 奴隷に対してであろうが、それ以外のだれかに対してだろうが、歳月の流れというのは、ひたすらに無慈悲なやつなのだ。奴隷になる前から、わかっていたことではあるけれど。

 自分が取り立てて不幸だとは、思っていない。取り立てて幸せな人間など、この世にはいないはずだ。奴隷としてなら、そこそこツイているほうだろう。


 ここを管轄している監督官どのは、決められたお題目以外に、余計なことはしゃべらない。老害じみたお説教や、ワケのわからない、昔の偉いヒトの著作からの引用文を聞かされる――最悪の場合は唱えなければならない――部署は多いだけに、ここは、かなりのアタリ現場といえる。


 監督官どの、若くてかわいいし。


「さあ、奴隷のみなさん、今日も一日しまっていきましょう!」


 鍛冶原絵里菜――略して〈カジエリ〉嬢の放った、とびきりの『奴隷賦活スマイル』を受け、オウ! と、野太い声がひときわ響く。


 まったく、男ってイキモノをコントロールするのは、楽なものだ。


 ……おれ自身を含めて。


 奴隷制度が正式に法整備されたのは、ついこの前のことだ。

 それまで奴隷制を規定していた法律は、俗にいうところの『人海戦術基本法』である。あらゆる産業が効率化する一方、人口は増えに増えてしまい、要するに、仕事をしようにも機械に取って代わられていた、その現実を是正するために、制定された連邦基本法だ。


 単純マンパワーでまかなえる部分の機械化を禁じ、経営規模に準じて、割り当てられた人数の雇用を義務化する、というのが、『人海法』の基本的な中味だった。少子高齢化からくる就労人口の激減に悩まされる日本には無縁の制度のはずだったが、世にいう機械労働革命の直前に、非熟練労働および介護需要のためとして移民制度を大々的に施行しており、もののみごとに時宜を外していた。

 けっきょく、日本も人があまりにあまっている状況にあったのだった。このくにのお偉がたというのは、発想そのものが最低とまではいわないが、なぜだか昔からタイミングを逸することはなはだしいのである。


 この『人海法』、口の悪いやつにいわせれば、


「無能モノ救済法、共産主義法案」


 だろうとのことだったが、実際は人間の大量消費・一発使い捨てからなる、真の資本主義経済時代の幕開けを告げる黙示録のラッパの音だった。


 雇う側は強制で雇わなければならない一方、雇われる側も、自主的に働かないかぎり選択の自由がないというわけで、そもそもそれまでは機械との競争に負けて仕事にあぶれていたのであり、多くの人々が、いままで機械がやっていた仕事を、代わりにやらされることになった。

 よほどの天才でもなければ、企業は人をわざわざ雇ったりしなかった、そういう時代だったのだ。そしていつの時代も天才は数少ないが、そもそも多くは必要ない。


 結果、ほんの数年間で労働者の置かれた状況は加速度的に悪化し、何世紀か歴史が巻き戻ったかのような、とんでもないタイムスリップ現象が生じるに到っていた。


 奴隷の扱いは酷烈をきわめた。機械の部品を取り替えるよりも簡単に補充がきくものだから、結果的に、たいていの企業が奴隷制度施行前よりも業績を伸ばした。労働者というのは同時に購買者でもあるわけだが、機械労働革命期にあっては生産効率があまりに高すぎた半面、多くの人間は失業者で購買力がなく、ラインはたいてい止まっていたことを考えれば、資本家にとって奴隷制度は渡りに舟だった。

「理想の人材とは人件費ゼロで働く者」とかつて揶揄まじりにいわれていたが、実現してみれば機械はそれ自体のメンテナンス以外に一切の消費を生まないので、夢の世界は到来していなかったのである。


 停滞していた世界経済の歯車が再度回り出し、官僚たちは政治家に「成果」を強調させ、資産家たちは金銀不動産の形で休眠させていた富をふたたび株券や債券に変換させはじめたが、強制労働に突き落とされた人々の不満はすぐにきな臭さを発するようになった。

 もちろん、あからさまに『奴隷』と呼ばれていたわけではないが、実質はまるっきりの奴隷だったわけで、さすがに、この前までは「人権! 人権!」と、ひとつ憶えに叫んでいたことを忘れたわけではなかったホモ・サピエンスさまがたは、事態の改善を意識するようになった。


 なにせ、奴隷が一斉蜂起でもしようものなら、社会はイチコロである。かつての一時代では、賃金高で先進国から途上国に逃げてきた生産拠点において賃上げ要求の労働争議が頻発し、さらに人件費の安い国へと企業が逃げ出す順送り現象が生じていたものだが、その後の機械労働革命期社会では、政治力のない衆愚など、たとえ十億人でなにかを喚いたとしても無視できた。

 しかし、いまの世界は文字どおり『人海』に浮かんでいる。奴隷化された『人海』は不明瞭なうめきを漏らすばかりで具体的な要求はなく、逆に不気味に思えたのだ。


 ついに、『改正人海戦術基本法』の施行によって晴れて奴隷制度は合法化され、奴隷は手厚く保護されることになった。


 一部の『奴隷頭』がその他大勢の同僚を虐げるような理不尽は消え、『奴隷』であれば完全な平等が実現した。『自由民』は、奴隷は『奴隷』だということがはっきりしたために、奴隷は、待遇が大幅に改善するということで、『奴隷保護法』こと『改正人海法』はさしたる抵抗なく受け入れられた。


 現在、奴隷は全人口の七割ほどを占めている。


 奴隷は気楽な身分だ。責任を負わされることは基本的にない。奴隷に必要な資質は、簡単な作業を就業時間中ひたすら続けるための、一定の根性だけ。資格を取ったりすれば奴隷でなくなることができ、それ自体はそんなに大変ではないが、おれはさほどがんばる気がない。

 奴隷でなくなれば、当然ながら仕事が増えるし、部下(というか奴隷)と諸々の責任もついてくる。額面上の給料こそ増えるが、衣食住の保証がなくなるし、病気や怪我をすれば自前だし、その上がっしりと税金やらを抜かれるようになるから、けっきょく生活は苦しくなる。そもそも、奴隷よりひとつかふたつ上のスキルがある程度では、『奴隷法』がなくなれば、やっぱり日雇い労働者以上にはなれない。

 社会体制がどうなろうと気にせずわが道を進める、なんて人間は、それこそ真の天才か、ロビンソン・クルーソーばりのサバイバルスキルの持ち主だけ、全体のひとつまみしかいないだろう。おれ自身は奴隷制施行前よりマシになっているから、いいのだ。


 それが奴隷根性だ、といわれれば、それまでのこと。


 そしておれは、今日もひたすらコンベア上へ荷物を載せていく。全長六キロに渡るコンベアの左右には、積み込み係の奴隷がいて、自分担当のトラックの荷台に放り込むべき荷物が流れてくるのを待っている。

 ひたすら無言で、あるいは口笛を吹きながら、コンベアの騒音に抗して大声でくだらないことをしゃべくりながら、奴隷どもは休憩時間まで働き、休憩時間が終わればまた働き、定時がくればさっさと現場をあとにする。

 休憩時間にお茶やら菓子パンを取るのはセルフサービスだがタダだし、メシはいちおう食えるものが支給される。オフ時のメシは、宿舎の中にも街角にも支給食券が使える店があるし、そうでない店で多少の贅沢をしてもいいし、自炊するのも勝手だ。


 いわゆる『自由民』の中にも、『奴隷食堂』で済ますことで食費を節約しているやつがいて、『奴隷』の中にも、極まった自炊スキルで限界まで食費を切り詰め、支給された食券は全部金券ショップに売ってしまうというやつもいる。要するに、どの店で食っているからあいつは奴隷だとか、そうじゃないだとか、そういう区別はぱっと見ではつかないのだ。


 昔の社会と、なんら変わるところはない。むしろ、『最低限の生活』が確実に保証された、かつてよりまともな世界になったのだ。


 ……と、おれは信じていた。いや、おれならずとも、そう思っていたやつは多いはずだ。


    2


 午後五時きっかりに、終業を告げるベルが鳴る。

 コンベアは即座に停止。まだ荷物がベルト上に残っているが、トラックは定刻どおりに発進していく。今年に入ってから、ようやく構内の衝突事故は減ってきた。

 長いこと自動運転装置におんぶでだっこだったため、人類の運転技術は大きく退化していたのだ。自分の目で見て、状況を判断してハンドルを切りエンジンの回転数を調整する、そんな、かつてならあたり前だったことを取り戻すのに、運転手を労務として選んだ、つまり並よりは車の運転に嗜好を持っている人たちですらけっこうな時間を要した。

 中にはそうしたことを一から学んだ運転手もいるだろう。偉そうなことをいっておきながら、おれも基本的には真っすぐで、広さに余裕のあるコーナーで構成された、かつ歩行者分離が徹底された道でないとクルマの運転はあやうい。


 一日の務めを終えた奴隷たちは大きく息をついて、伸びをしたり腰をひねったりする。おれも肩を回し、働き続けた上腕二頭筋と背筋をねぎらう。このポジションが務まるのももう長くはない。そろそろ配置転換の申請をしなければ。


 勤務時間中はモニタルームで監視していたのだろう、監督官どのが現場を一望できる、荷わけブースを覆う屋根をささえている鉄骨ビームの上に出てきた。


「奴隷のみなさん、おつかれさまでしたー。体調管理は万全に、また明日の朝お会いしましょう!」


 〆のあいさつも手短なので、ありがたい。


『おつかれさまっしたぁ!』


 にこっと笑って手を振りながら監督官カジエリが引っ込み、奴隷どもは三々五々にロッカールームへ引き揚げていく。定時きっかりで終わる奴隷生活の夜は長いので、呑みにいこうか、と話をしている連中もいる。まあ、店で呑むのはそんなに安くないが。

 自販機でワンカップを買って公園のベンチで一杯、なんて、はた目にはさもしいが当人らとしては気楽な光景は『人海法』によってすっかり追放されてしまった。生産もサービスも、過度な自動化は厳禁だ。


 ダラダラと居残るやつはいない。午後七時開始の夜間シフトの奴隷が入ってくるから、それまでに現場とロッカールームを空けなければならないという理由もある。


 ……はずなのだが。


「井上さん」


 さっさと帰ろうとロッカールームを出かかったところで、横合いから声をかけられた。

 振り向いてみると、顔しかわからない同僚が立っている。作業着はおたがい脱いでしまっているので、それとなく名札を確認して知っているふりをすることもできない。こいつはなんでおれの名字を知っているんだろうか。


「なにか?」

「もしお時間がありましたら、私たちの勉強会をのぞいてみていただけませんか? いえ、勉強会といっても堅苦しいものではありません。いっしょにお茶を飲んだり、軽い食事をしながら、肩肘の張らない、ゆるいディスカッションをする程度のものです。あちこちの現場から、男性も女性も、年齢も様々なかたが参加しています」

「申しわけないが今日は早く帰らなきゃならない。現場や性別を越えた交流はけっこうなことだろうが、自分みたいなオッサンは誘わず、きみのような若い人同士でやったほうがいいと思うな」


 はて、投資詐欺やらネズミ講が幅を利かせる世の中ではなくなったはずなのだが、と内心小首をかしげながらも、おそらく『改正人海法』以降に社会へ出たのであろう青年へ、おれはあたりさわりのないよう回避の科白を告げていた。おれは旧世代の人間として「勉強会」だの「講演会」だのには警戒感を持っている。


 断られることは想定内だったのだろう。青年は人当たりのよさそうな笑みを浮かべ、A4サイズのプリントを差し出してきた。


「井上さんのような、ここ二十年来の社会の激動をくぐり抜けてきたかたからも、ぜひご経験を語っていただきたいのです。私は須田と申します。もしお時間に空きができましたら、お声をかけてください。それでは、また明日。おつかれさまでした」

「おつかれさま」


 須田と名乗った青年は、続々と帰り支度をすませてロッカールームを出て行くほかの奴隷には目もくれずに立ち去っていく。無差別に声をかけて回っているというわけではないようだ。どうしておれが選ばれたのか、若干引っかかるものを感じる。が、それを問いただすのは向こうの思うつぼだろう。


 受け取ったプリントはくしゃくしゃにせず、そのままリサイクルボックスの「紙」の投入口へと放った。資源を無駄にしちゃいけない。


 リサイクルボックスに吸い込まれていくプリントの、大見出しらしき文字列だけがちらっと見えた。


『人類総奴隷化時代の生き方〜天藤肇氏を招い――』


 テンドウハジメとやらの名を聞いた憶えはないが、やはり胡散くさい講演会の一種ではあるようだ。それだけ、世の中が平和になったということなのか。


 物流センターの巨大な建物をあとに家路につく。まあ、宿舎もすぐそこだ。送迎の無料バスはあるが、歩いても十分とそこら。急いでいる朝はともかく、帰りは歩くことにしていた。

 気分転換にちょうどいいし、ときどき必要なものを思い出して買物に寄ることもできる。スーパーもホームセンターも近所にあるが、宿舎直行のバスの中で気がついても、降りたらあと一分で玄関という状況に負け、惰性に流れてしまうことが多い。


 とくに買わなければならないものも思い浮かばないまま、自分の部屋の前までたどり着いた。ドアを開けてみると、息子のタクミのスニーカーが三和土たたきに脱いであるのが目にとまった。当人がおれの帰宅に気づいてリビングから顔を出す。


「あ、おかえり」

「今日は母さんのところにいってるんじゃなかったのか?」

「ちょっと仕事の進みが予定より遅いんだって。来週の保護者説明会には確実に出たいから、いまのうちにキリのいいところまで終わらせておきたいとかいってた」

「ふむ。忙しいんだな」


 タクミは来年に中学受験を控えている。息子が父親のような情けない男にならないよう、母親は一流校へ入学させようと必死なのだ。

 おれとしては、お勉強のできる人間になったところで、もはや生身の頭脳ではコンピュータに勝ちようがないのだから、なにか芸術の才能でもあってくれればいいと期待していた。だが残念なことに、タクミが何度か受けている適性検査の結果は常時「オールE」だ。カエルの子はカエル、ということなのだろう。


 別れた妻と出会い、結ばれることになったのは、世界が『無能』に対してもっとも厳しかったかつての時代のさなかだ。

 結婚して子をもうけている世帯であれば、控除のおかげでどうにか生活していけるだけの金銭が手元に残ったからである。手当や補助などの優遇があったわけではない。非人間的な搾取がわずかに緩められていただけだ。ようするにルームシェアの延長であって、ひとつ屋根の下で暮らすのに耐えられるという程度の相性はあったが、絶対欠きがたいというほどのパートナーではなかった。


 ……それから十年近くがすぎて『改正人海法』が発布され、おたがいの存在を「最低限文化的生活」のためのつっかえ棒としなくてもよくなったおれと彼女は、それぞれの道を歩むことで合意して離婚にいたっていた。

 タクミのこともあり、実際に別々に暮らすようになってからはまだ一年ちょっとしかたっていないが。


 いま、彼女は『自由民』として自分の人生を送っている。とはいえ彼女も、おれよりは勤勉で努力家であるが、天才というにはいまいくつか足りない。『旧人海法』のもとでは、彼女もその他大勢、実質奴隷のひとりだった。

 タクミの親権が基本的にはおれの手にあるのも、自由民である自分より、奴隷のもと夫のほうが各種社会保障が手厚く、ひとり息子により充実した教育を施すことができるから、という、彼女一流の戦略的打算によるものだ。


 おれとしても、扶養家族がいれば、宿舎の専有面積が広くなるところからはじまって、ひとまわりずつ待遇がよくなるので、タクミが手元にいてくれることは歓迎だった。

 現行法に『奴隷』と『自由民』の婚姻を禁じた事項があるわけではないが、彼女は何通りかのプランを考えていて、そのうちのひとつが、おれが奴隷のままでい続けるならタクミを預かっておいてもらいたい、というものだった。――いや、もしかすると、おれが根性を見せてくれると信じて彼女は話を切り出したのかもしれない。ともに自由民となって、苦しくとも夫婦で力を合わせ、ひとり息子を立派に育て上げると。

 だとしたら、おれは彼女の期待に応えなかったということになる。


 特別な才能こそないようだが、わが子ながらタクミはよくできた息子だった。なにせ、いい歳したオトナとしては確実に失格レベルのおれでも手におえる子だ。こっちには似なかったおかげだろう。


 わが子が平凡で善良な人間になってくれれば、べつに身分が奴隷でもかまわないだろうとおれは思わなくもないのだが、しかしかつての一時代、特別ではない人間が十把一絡げにゴミ扱いされたことがあるのはたしかな事実だ。

 おれは能天気なので、実体験した世代でありながら喉元すぎたこととして忘れているが、彼女は油断ならないと思っているのだろう。ハゲてきそうなのでそういう心配はしないようにしているものの、わが子の将来を案じる母の気持ちを否定するつもりはおれとて毛頭ない。ハゲたくないだけに。

 あいや、毛頭ない、だとハゲてるのか……?


 自分で勝手に阿呆なことを連想し、頭を両手でわしわしとしはじめた父親の様子に、タクミが怪訝げな目を向けてきた。


「頭かゆいの? お風呂入ったら」

「……ん、そうするか。一緒に入るか?」

「もう入った。まだ追い炊きしないでもいけるくらいあったかいと思う」

「いやはや、優秀だなマイサン。今日は外になんか食い行くか。料理するの面倒くさくなってきた」


 風呂を洗って入れるようにしておいてくれたごほうびのつもりだったのだが、タクミは首を左右に振る。


「いいよ、父さんがお風呂入ってるあいだに作っとくから。冷蔵庫の卵と豚肉、賞味期限きのうで切れてるから早く食べちゃわなきゃ。キャベツもしおれてるし」

「……母さんより家事レベル高くなったなおまえ」

「母さんにもいわれた。部屋ぐちゃぐちゃだから片づけといただけなのに、わたしよりエラーい、って……えらいじゃないよ、やるのがあたり前なの」


 ……だれに似たんだろうか。青は藍より出でて藍より青し、であっているんだろうか?

 たしかに、米のひと粒まで粗末にしないよう、湯の一滴まで無駄にしないよう、かつて毎日のように注意したのはおれと彼女なのだが。

 とはいえそれは、道徳的な意味というわけではなく、情けないが経済的動機に根ざしていた。食費を、水道料金を、光熱費を、切り詰めに切り詰めなければならなかったのだ。いまとなっては、ひとりが風呂を使うたびに浴槽の栓を抜いて湯を張り直しても一向問題ない。

 おれも彼女もすっかり生活の余裕を取り戻してゆるんでしまっているが、三つ子の魂に刻み込まれたタクミは質素倹約整理整頓がしっかり板についている。まちがってはいないからいいのかもしれないが、しかし結果として正しかったというだけで狙って施した躾というわけではなく、これはどうなのだろう、と自分たちでやったことながら考えてしまう。


 おそらくは裕福な『自由民』家庭の子ばかりが通ってくるだろう一流校で、「ビンボくさい」などといじめられなければいいのだが。

 わが子が良い子すぎることで悩まなければならないとは想定外だった。一度、彼女とタクミの情操教育についてしっかり話したほうがいいかもしれない。といっても、「おまえは良い子すぎるから、もうすこしぞんざいに振る舞いなさい」なんて、意味がわかるだろうか?


 ……そんなことを考えながら風呂からあがってきてみると、回鍋肉ができていた。

 冷えたビールまで準備万端、感動して涙が出そうになってしまった。タクミよ、きみは本当におれの子なのか? なにかのはずみで取りちがえられた、よその子だったりはしないだろうか。あるいは彼女が……もうすぎたことだし、このさいそれでもいいや。


 あのときはとにかく、被保護者が、被扶養者が、それも次を担う世代の子が必要だったのだ。実子でも養子でも、極端な話さらった子であろうが。

 実際にあのひどい時代にはそういう事件がときたまあったのだから。同じ保護を必要とする世代でも、老人は、とくに資産を持っておらず簡単な仕事もできなくなった老人の扱いは本当に無惨なものだった。自分がよれよれに老いる前に社会が多少なりとまともになってくれたことに、真実感謝しなければならない。


 よく冷えたビールで頭がキーンときたふりをして、目頭を抑える。すばらしい良い子に育ってくれたタクミと、そして浅ましい両親であったおれたち夫婦、そしていまだに浅ましいままのおれ……さまざまな感情が頭の中で渦巻く。

 しかし老化が進行してきているおれの脳は、処理が面倒くさいとばかりに涙腺を刺激するだけですまそうとしている。もう少し若いころなら、ちゃんと理論立ててこのぐるぐるした気持ちを分析できたはずだろうに。


 涙もろくなるのは脳機能の低下が原因、と、当時流行っていた脳科学を取りあげたテレビ番組で紹介されたとき、いまはとっくに亡くなった母親が憤慨していたことを思い出す。「他人の痛みがわかるようになった証拠よ」とかいっていたっけ。だがやっぱり、自分がその歳になってみると、こりゃ老化が原因だわ、と納得できる。

 まあ、あんな大昔の番組で取りあげられていた脳科学の通説なんて、現在では覆っているのかもしれないのだが。


 ……料理した本人にも関わらずタクミがまだ箸をつけていないことに、おれはようやく気づいた。父親が風呂あがりの駆けつけ一杯をすませ、食卓につくのを待っているのだ。なんて良い子なんだ、それ以上追い討ちしないでくれ。本当に落涙してしまうかもしれないじゃないか。


「――ぷはぁ、いやよく冷えてた。うまそうな回鍋肉だな。待ってないでさっさと食っててよかったのに」

「父さんがあと三分遅かったらそうしてたよ。ありもので作っただけだから、冷めたらおいしくないだろうし」

「ナイスタイミングだったわけか。それでは、いただきます、タクミシェフ」

「どうぞ、めしあがれ」


 手を合わせるおれに、タクミは微苦笑して応じる。これは井上家中でだけつうじる冗談だ。「ドクターキリエ」とか、「プロフェッサーカズマ」とか、そんな他愛ない会話を三人で交わす時期もあった。ごく短かったが。


 ――それにしても、うまい。

 元々安物の上に見切り品半額シールが貼られていた豚肉と、しおれたキャベツとそのほか端切れ野菜で、どうやってこんな完璧な回鍋肉を作ったのだろうか。「♪具材といっしょに混ぜるだけ」の回鍋肉の素は買っていない。

 豆板醤とオイスターソースはいつのものかわからないくらい古いのなら残っていた気がするが。賞味期限が切れていた卵も、中華風スープとして見事に処理されていた。なんの問題もなく、街の中華料理屋のB定だ。

 いや、こんなうまい回鍋肉定食を出す中華屋なんて、学生時代まで遡らなければ記憶になかった。いまはもうない。


 ぱっと見の街並こそまだ当時の面影を残している場所があるものの、あのころとはなにもかもが変わった。自己責任、自由意志の社会なんて、過去の遺物だ。

 だいたいあの時代の()()はニセモノだった。

 ルールを決める側が好き勝手、恣意的にやっておきながら「この結果はあなたたち自身が選んだものです」ときたもんだ。あいつらはだれひとりとして責任を取らなかった。現在の世界だってルールは恣意的なものだが、しかし施行側はごまかしていない。真の自由なるものは存在しない、ルールはインチキなものだけれど、ほかに良い方法が見つかるまではこれでいきます、というアナウンスがある。

 急速にあらゆる分野で進んだ自動化・機械化と、反動のような極端な脱機械化、そして現行の奴隷制――本来なら何世紀かかかったはずのことが、テンポよく十年弱ずつで切り替わった。そしていまは、現に『かつて』よりはややマシだ。ここに至る道中がキツかったのは事実で、骨身にしみているが。


 ……ああ、せっかくのタクミの回鍋肉、味を感じなくなってしまう。やめたやめた、こんなことを回顧するのは。


「なあタクミ、将来料理人になるってのはどうだ?」


 身びいきでもなんでもなく回鍋肉がうまいので、おれは真顔でタクミに訊ねていた。現在子供たちが受けさせられている適性検査に、料理人の資質を発見する精度はあるのだろうか。数学的理論思考に向いているとか、ストレス耐性が高いだとか、色彩感覚、あるいは音感リズム感がずば抜けているだとか、そんな、機械ではいまだ立ち入れていない、基礎理論や芸術に適性がある、あるいは指導的立場の人間になれる将来性の持ち主ばかりさがしているんじゃなかろうか。


「大げさだなあ」


 タクミはまったく真に受けていない風で、オイスターソースのからんだキャベツと白飯をいっしょに箸で口へと運んでいた。ご飯が進むおいしい食べかたを、作った本人だけあってわかっている。


「いや、そんなことない。ロボコックに回鍋肉を作れって命令したら、そりゃレシピどおりに材料そろえて料理してくるだろうが、豚肉とキャベツを渡してこれでなにか作れっていっても回鍋肉は出てこない。単なる野菜炒めか、場合によっちゃ餃子の餡でも作りはじめるか。基本的に、いまの世の中は機械の手がおよんでないことをやれればいいんだ。もう単なる優秀な人間は必要ない。『特別』でなきゃお呼びじゃないが、そんなに都合がよく特別な人間ばかり生まれてくるわけがないんだ。だが『普通』でいるのが犯罪の従兄弟分だったのは、父さんや母さんの時代までで充分だよ。おまえは立派に、機械に対してアドバンテージを主張できる」


 おれは息子に伝えなければならないことがあると口を開いたはずだったのだが、途中からわれながらなにをいっているのか意味不明になっていた。

 タクミのほうは泰然と卵スープをすすりながら父親の妄言を聞き流している。そしてひと言。


「冷めるよ」

「……すまん、意味のわからんことをぐぢぐぢと。べつにおまえの将来を指定しようってつもりじゃない」

「そんなこといっても、適性がなかったらだいたい奴隷になるしかないんだし。母さんは連邦職員になりなさいっていってるけど」


 タクミは小学生らしからぬ達観を具えていることを発言によってしめしていた。おれも、ついつい相手が息子だということを忘れて話を続けてしまう。


「公務員か。奴隷労働もようするに公共事業にすぎないんだから、大して変わらんのだがな」


 お勉強して、実はコンピュータだけで手が足りている連邦職員になるくらいなら、やっぱりコックや板前のほうが仕事として建設的な気がする。

 潜在的には失業者、という意味ではもはや奴隷と公務員にちがいはない。そして『自由民』にせよ、真の天才である上位一パーセント以外はやっぱり本当の意味では必要がない。だが機械は冗長消費をしないから、人間を働かせて可処分所得を持たせなければならないのだ。それを欲しているのは富の九十五パーセントをにぎっている上位一パーセントの金持ちで、そして同じ一パーセントでも金持ち=真の天才、ではない。

 もちろん無能では最初に財を得ることもできないが、カネがカネを生むようになってしまえばべつに富の所有者に能力はいらない。


 だれが所持して使用しても同じ価値を保証する、それこそが貨幣の存在意義だ。人間は社会的ソーシャル動物アニマルなのではなく、経済的エコノミック動物アニマルなのである。

 とはいえ口には出さなかった。そこまで息子に冷めた人間になってほしいわけではない。


 タクミが食べ終えた自分の食器を重ねながら、


「母さんが、父さんも本当は母さんと同じくらいは仕事ができるのに、面倒くさがってやらないっていってたけど」


 といった。おれは肩をすくめて応じる。


「面倒だからってほど大層なことじゃないさ。おれの能力じゃ意味のあることができないんだ。宇宙開発とか、新エネルギー源の発見とか、現行のシステムの効率を上げて燃費を良くするとか、そういう最先端の仕事以外、社会を維持するだけのことなら、もう機械に全部任せておいても問題はないんだ。現に一度はそうなりかかったわけだし。いまの世の中はちょっと時計の針を戻して、人間を機械の歯車代わりに使ってる状態なんだ。ま、なにもしないでただボーッとしてるよりは、無意味な仕事だろうと働いてるほうがマシだと思うが」


 ……うーむ、これでは彼女を、タクミにとっては母親を否定してしまっている。まあいまさらか。才能・適性がある人は伸ばしなさい、そうでない人は分を弁えてつましく生きなさい、というのがいまの社会だ。可能性探しをしている余裕はない。

 夢はでっかく地球スケールというのは過去の話。もう地球上にはそんな夢を収められる場所がないのだ。宇宙へ自由に乗り出せるようになれば、またフロンティア精神が生きる時代になるかもしれないが。


 タクミは小首をかしげていた。


「変なの。働かなくていいなら遊んでればいいのに」

「おれもそう思ったんだがな。ヒマ人はなぜか群れるとロクなことをせんのだ。働かないやつに遊ぶ権利を認めるななんていう輩もいて、当時の状況は怠けて働かないんじゃなく、凡人でもできる仕事は全部機械が占領してて働きようがないだけだったんだが、まあなんだかんだで人間どうしの仲は険悪になるばっかりだった。いまは仲違いするヒマができないように働かせてるって状態さ」


 おれは怠惰な無能なので、機械労働革命期のまま、人間が勤労の義務から解放されればいいと思っていたのだが、そんなに都合よくはいかなかった。活動的な無能が多数派のうちは、ユートピアは訪れないんだろう。


 飯を食い終わり、さすがに食器洗いはおれがやった。たぶん放っておいたらタクミが片づけまでやろうとしただろう。己が怠け者であることは自認しているが、いくらなんでもそこまで自堕落ではない。

 こんな世の中でなければ、タクミは平凡ながらもだれからも後ろ指さされることのない立派なオトナに、おれとは大ちがいの人間になれるだろうに。とはいえ、こんな世の中につながることになった、あのひどい時代がなければおれと彼女に接点はなく、タクミは生まれもしなかったのか。


 世の人々がもう少し遠慮深く慎重な選択をしていれば、いまごろは機械に働くのは任せ、一部の天才が人類と地球のために最先端の研究に従事し、大多数の『無能』は、ぶらぶらごろごろしたり、あるいは同好の志を集めて趣味に没頭していたわけだ。

 そんな世界だったらおれは確実になにもしないまま無為に毎日をすごし、能天気なまま、気づいたときには死ぬなりボケるなりの――ようするになんにも気づかずじまいの人生を送っていたんだろう。

 いまこうしてタクミがいるということを考えれば、おれにとってはこの世界こそがオプティミズムの産物ってわけなのか。どうも釈然としないが。


「おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」


 ……だがこうして寝床に就くわが子を見れば、やはりほかの可能性は考慮から消える。

 人間もしょせんは生物の一種、血をわけた子のほかになにかを生み出せるというのは錯覚で、思いあがりでしかない。


    3


 二週間くらいたったろうか。

 いつものように定時のベルとともに心身を奴隷モードから一市民モードに切り替えたおれだったが、監督官カジエリがいつものあいさつについで思わぬ科白を口にしていた。


「井上カズマさん、十七時三十分までに監督官室までお越しください」


 名指しされたおどろきに顔をあげると、たしかにカジエリのアイドル然としたスマイルがこっちを見ている。


「イノさん、そろそろ部署変わるいってたけど、もう届け出してたの」


 隣のラインの担当者である野村アルベルト・トシキが話しかけてきた。おれはかぶりを振る。


「いや、出すつもりで、そろそろ申請書をもらいにいこうかって思ってたんだが」


 呼び出されるような憶えはない。

 よっぽどへまばかりで、もっと簡単な仕事をあてがってやるからそっちに移れ、というような場合でなければ、とくになにかの区切りでもないこの中途半端な時期に呼び出しはないはずなのだが。逆に優秀だからといって、奴隷に昇進のお誘いがくることはない。こっちから給料の良い部署に転属を願い出て、能力的に務まると判定されれば受理されるだけだ。


 面倒くさい話でなければいいが、とひとりごちながらロッカールームで帰り支度をすませて、普段とは反対の方向へ通路を進んでいたら、休憩所のわきに差しかかったところで視線を感じた。

 そっちを向いてみると、いつぞやにあやしげな勧誘をしてきた須田とやらと目が合う。遠慮なく真っすぐこちらを見ており、おれが振り返っても悪びれたり視線をそらそうとする気振りもなく、会釈してきた。


 休憩所にはほかにも人がいた。勤務時間が終わってもすぐに帰らないやつが最近増えているようだ。彼のいっていた「勉強会」が輪を広げているんだろうか。


 日常業務では用事のないフロアへと入り込んだ。用事がないのみならず、現場作業員である奴隷がこっちへきても普段は物理的に通してもらえない。おれが近寄っていくと、スライドドアが勝手に開いた。カメラは見あたらないが、どこからかこちらの動きを把握しているのだ。


 だれともすれちがわないまま、奴隷輸送には使われないので少定員のエレベータに乗って上階へ。監督官室のドアをノックしようとしたところで内側から声がした。


「どうぞ、そのまま入ってください」

「失礼します」


 室内は殺風景だった。壁面にはモニタが並んでいる。

 監督官どのは奥のデスクから立ちあがったところだった。


「おかけになって」


 と監督官が示したほうには長机とパイプ椅子がある。応接卓はないらしい。

 どちらのがわもパイプ椅子。おれが腰かけるとカジエリはポットでお茶を入れて出してくれた。湯のみはひとつ、おれのほうにだけ。


「粗茶ですが」

「どうも、すみません」


 若干のすわりの悪さが否めないまま、とりあえず湯呑茶碗を手に取った。茶をすすりつつ、それとなく監督官の表情をうかがう。

 間近であらためて見ると、カジエリはほんとに若い。制服を着せれば高校生でもとおりかねないのではなかろうか。

 いや、おれがただ単に、若い娘とオバさん、そのふたとおり以外に区別がつかなくなっただけかもしれない。コンビニのレジにバイトの女子高生がいたのもけっこう昔の話なのだ。

 いまはレジ打ちも割り当て労働をしているオトナの奴隷ばかりで、学生、生徒は本分である学業に専念できるようになっている。


 べつの見方をすれば束縛されているということで、バイトをして貯めたなけなしのカネでちょっと背伸びした買物をしたり、旅行をしたりといった、おれ自身の学生時代からすれば窮屈そうな部分でもある。


 カジエリはおれが茶碗を置くのを待っていると気づいて、茶托へ戻す。監督官どのは時計を確認するでもなくこういった。


「まだ十七時十二分ですが、急かしてしまいましたか? それとも、今日はご予定があって、早く帰る必要があるのでしょうか?」

「いやべつに、普通に着替えてからきただけですが」

「それならよかった。そんなに長い話にはならないはずですが」

「ところで、ご用件は?」


 おれは慎重になっていることを露骨に表さないようにしたつもりだったが、あまりうまくいかなかった。カジエリは気づいていないのか気にしていないのか、書類を机の上に出しつつ口を開く。


「井上さん、管理官昇任試験を受けるおつもりはありませんか? 推薦状はすでに準備ができているのですが」

「……ずいぶん唐突な話ですね」


 これぞまさに青天の霹靂というやつだろう。だいたいなんでおれにそんな声がかかるのか。

 まあ給料分くらいは働いていると思うが、しかしそれ以上でもないはずだ。そもそもこの仕事はよほど身体が弱かったりしないかぎり、だれがやろうと目立った優劣は出ようもない。


 こいつは裏がある――そう直感したおれは、書類を開いてなにかの説明をはじめようとするカジエリよりさきに語を接いだ。


「強制ですか?」

「もちろんちがいます。……なにか余計な責任を負わされるんじゃないかと、不安になっていらっしゃるようですね」


 カジエリは雷鳴に怯えて吠える犬をなだめるような顔でそういった。はっきりいって図星だったが、身も蓋もなく肯定するのもなんなので、婉曲した表現で答える。


「ものぐさな気分でいるのはたしかですよ。べつに現状で不足はありませんし」


 奴隷が『奴隷』といわれるのにはもちろん応分の理由があってのことで、おれたちには居住移転の自由がなく、職業選択の自由も限定的だ。

 といっても、以前の世の中であっても文字どおりの『自由』ではなかったと思うが。貧乏人に高級住宅地に住む自由はなかったし、身体能力が伴っていなければプロスポーツ選手になる自由もなかった。一部の仕事に就くには学歴のほかにコネも必要だった。たとえば「ケツで椅子を磨きつつ(公安調査庁)エロ画像を見る仕事(サイバー監視課)」とか。


 自由と好き勝手は別物といってしまえばそれまでだが、おれみたいな怠け者の能天気には、割り当て労働をお仕着せにしてくれるいまの仕組みのほうが面倒がない。


「もしお時間がよろしければ、そもそものはじめからお話ししましょうか? ちょっと長くなりますが」


 おれはいつものように阿呆なことを考えていただけだったが、カジエリの目にはなにやら深慮を巡らせているように見えたらしい。だが「そもそものはじめ」というフレーズに好奇心をそそられたので、おれはうなずいていた。


「そうですね、もしかするとなにかの判断材料になるかもしれませんし、おうかがいしてもよろしいですか」


 奴隷のくせになんか偉そうな口ぶりになってしまったが、まあ木っ端の態度など気にならないのか、カジエリはうなずくのみで話に入っていた。


「いわゆる連邦――(Pan)太平洋(Pacific)および(and)ユーラシ(Eurasian)ア連邦(Federation)――によって、ほぼ人類社会すべてが統治されるようになるまでに、世界をいかなるかたちにするべきなのか、さまざまな勢力の綱引きがありました。井上さんは実体験なさった世代ですから、そのころにはまだ影も形もなかったわたしなどから聞かされるまでもないかもしれませんが――」


    ******


 二十一世紀が初頭をすぎても世界には軍政、独裁、政教一致の国家が多数あり、諸国の政治的判断基準が統一されることはありませんでしたが、経済面においてはグローバル化が進行し、おおむね市場主義を基調とする価値観が浸透しつつありました。世界が単一の経済圏で覆われようとする中で、ある一定の傾向を示す未来予測モデルがじょじょに注目を集めていきます。


 その類型の、もっとも初期かつ最初の段階の提起は、二〇一四年に公表された、Human and Nature Dynamics(HANDY)モデルを援用して書かれた、サファ・モテシャリらの論文です。

 当初はハイライト部分だけが一部でセンセーショナルに報じられ、取り合う価値のない終末論者のたわ言としてすぐに忘れ去られました。

 現状のままでは人類は文明を維持できなくなり滅亡する――というのがHANDY論文の骨子だとされましたが、内容としては、ある文明が利用可能な資源の総量と、実際に消費される資源量の割合は、その文明がどの程度の技術力を持っているのかとは関係なく、常に一定の範囲内に収まる、という、かなり単純な数式を述べているにすぎません。

 結論も、パラメータの値によっては人口が再生不能なまでに減る場合もあり得る、というだけで、その崩壊モデルが現実世界にあてはまると明示されてはいませんでした。


 HANDY論文の基本は、原始的な農業と漁業や狩猟で食料を獲得し、薪で煮炊きをする素朴な文明でも、高度に機械化され、原子力でエネルギーを得ている現代文明でも、全体で利用できる資源総量と現に消費される資源量の比率は一定だ、と説明します。

 前者の場合は利用可能な資源は少ないですが消費も慎ましく、後者の場合は莫大な資源を利用できますが消費量もまた多い。つまりパイの絶対量が大きくなっても分割可能回数に変化はない、ゆえにどんな時代の文明にも技術的背景を考慮せず同じように適応できるモデルである――そういう考えです。


 文明維持に必要なリソースは資源量ではなくその配分割合で決まるのなら、分配比率が偏り、貧富の格差が閾値を越えると文明は破綻するということになります。

 HANDYモデルに先行して文明持続可能性を研究した理論の多くは、資源の総量と新規開発の余地、利用効率をパラメータとして、資源の枯渇が文明の終焉をもたらすと説明してきました。よく例に挙げられるのが、モアイで有名なイースター島ですね。それまでの説に従えば、海洋に囲まれた孤島という閉鎖環境で濫開発をしたために滅びたとされます。一方HANDYモデルによると、リソース分配に責任を持つべき支配階層が率先して資源を浪費したことが崩壊の要因であり、適切な資源管理が行われるか、あるいはそもそも支配階層が存在しなければその権威づけのための不要な開発事業に使われた資源が無駄にならずにすみ、文明は持続可能だったと説きます。


 ――そうですね(ここでおれがちょっと割り込んだ)わたしもイースター島のみで恒久的に文明を支えるのはそもそも無理があったと思います。モアイ製造に代表される資源の濫費は、滅びるのをやや早めただけで、いずれ島の人口は維持できなくなっていたでしょう。

 狭い島ひとつで恒久的に文明を持続させるには、永久機関並みの効率化が必要になりますが、それほど高度な技術を養うにはそもそも資源の絶対量が足りません。外界との交流なしでは不可能でしょう。ですが視点のスケールを変えれば地球全体もひとつの閉鎖環境です。

 わたし個人の感覚になりますけど、地球に存在する総資源量は、半永久的に利用可能な高効率の技術が開発されるまで文明を支えるのに必要な分はたぶんあるでしょう。しかしリソースの管理と集中運用をせずに、それぞれの個人や団体が各々の必要性で消費するのに任せたままにしていては、枯渇が先に訪れると思います。


 話を本筋に戻しましょう。PPEF(連邦)が成立したことで、いまのところはリソース管理体制が敷かれていますが、全体的なコンセンサスが得られているわけではなく、強権発動で過度な利潤追及活動を抑え込んでいるのが現状です。

 そこにいたるまでには、極端から極端に流れる幾度かの反動を経験する必要がありました。実体験された井上さんも、背後の具体的な状況はご存じない部分があるでしょう。


 マルクス・エンゲルス主義が崩壊して以降一強状態にあった新自由主義に対する批判は、二十一世紀に入ってから目立つようになっていましたが、HANDY論文を嚆矢とする複数の予測モデルが新自由主義の破綻を示唆し、それを裏づける社会的傾向が見られるようになっていたものの、かといってあらたな経済構造を打ち建てようとする運動も盛りあがりに欠けていました。

 もっとも、新自由主義に対する信任が背景にあったわけではなく、それに取って代わろうとする勢力がよりあやしげだったために支持が広がらなかったのですが。

 新自由主義批判にはニューエイジ運動や先鋭的エコロジストが前面に出ることが珍しくなく、遠慮のない言いかたをしてしまえば「とても胡散くさい」ために、多くの人々は消極的な現状維持を選択していたのです。


 ――はいはい(ここでおれは再度割り込んだ。極端な拝金主義はともかく、自由競争そのものを否定する人間はそんなにいないんじゃないか、と。ま、おれ自身の本心とは異なるんだが)、努力や成功が報われない社会は活力を失う、よくいわれる理屈ですね。

 たしかにそのとおりなのですが、当時は既得権益者が再分配に抵抗するための隠れ蓑にしていた綺麗事にすぎませんでした。……って、いま井上さんわかってていいましたね? まあいいです、続けますよ。


 自由主義者を称し、政治的関与のすべてを非難する人々は、競争が成り立たなくなるよう、構造的な障害を設けていきました。教育と福祉のコストが増大する方向へ誘導し、彼ら富裕層以外はその恩恵にあずかれないように、社会を変質させていったのです。

 それを是正するために、政府が費用捻出しようと徴税策を講じかけると、彼らはマルクス主義の発想だといって再分配を激しく非難し、妨害しました。自由競争のみが唯一の正義だと唱え、その実、彼らは競争をこの世から消そうとしていた。彼らが守りたかったのは自由主義ではなく、最初の『競争』の結果として彼ら自身の手元に残った財産だったのです。


 重要なことは次世代の人材を幅広く発掘するための機会の平等であって、結果の平等ではありません。ですが既得権益層は故意に論点を取りちがえました。

 いわく「無能は成功者にたかることしか考えていない。われわれは自ら助く努力をしない者に奉仕するために働いているのではない」と。これは典型的な詭弁です。二度目以降の競争を彼らは嫌い、拒否しようとした。


 富裕層と貧困層の両極化・固定化は、まさにHANDYモデルの滅亡シミュレーションが前提としていた破綻の兆候です。

 分裂しがちで一致結束した潮流にはならないとはいえ、自由主義、市場主義経済に反対する運動は絶えることがなく、次第に激しくなっていき、どうやら忌々しい予測は正しいらしい、と認識した既得権益階層の人々は、打開方法として、あらたな壁の創出を選択しました。

 富裕層の多くは物理的に防壁を築いたゲーテッドコミュニティの内部に居住しており、発想としてはべつに斬新でもありません。ただ、その壁は目に見えるものではなかったのです。人類社会における働きアリである貧困層の造反、逃走、あるいは死滅によって生産力が不足し文明が破綻するなら、経済構造そのものから不穏要素を取り除けばいい、という、ドラスティックで大胆な方策ではありました。


 そうです。いわゆる機械労働革命は、世界的スーパーリッチ十数名が主導して進めた、計画的な世界経済乗っ取り工作だったのです。安っぽい陰謀論だなんて笑っちゃ駄目ですよ。事実というのは大概の場合面白味がないんですから。


 機械労働革命は計画した人々の目論みどおり、うまくいきました。それゆえにPPEFが成立する下地が調ったことになります。

 ごく単純に説明すれば、稼いでいる利潤のわりにわずかな税金しか収めていないくせに、貧困層を完全な失業者に追い落とした上でその世話を行政へ押しつけてきた超富裕者のやり口に、各国政府の堪忍袋の緒が切れたのです。

 連邦国家として団結した各地の当局はグローバル企業が課税逃れをする余地をつぶし、『人海法』によって機械労働革命時代に終止符を打たせました。租税回避地と贈賄を駆使して不正に蓄財された個人資産が取り締まられたことで、最上位富裕者の握っていた莫大な資本が開放され、その次に位置していた上位一〇パーセントの富裕層による競争がはじまることになります。


 ……いい迷惑だって顔ですね。たしかに『人海法』改正までの九年間は無益な痛みだった、もっと短縮できたはずだ、という議論はあるんです。ですがその反省があることで、問題が表面化してから対症療法で弥縫策を講じるのではなく、フレキシブルな運用をしようという機運があり、わたしのような現場の者にもそれなりの権限が与えられるようになっているのです。


 はい、ようやく今日の本題に戻ってこられました。ここまでの経緯を踏まえて、井上さんに管理官昇任試験を受けていただきたいのです。


    ******


 ……おれが体感していたよりここ二十数年間の世の中の流れというのは夢がなく世知辛いモノだったようだが、目の前でにっこり笑うカジエリの誘いに乗るかどうかというのはまたべつの話だ。


「表面化しつつある問題、というのはなんでしょうか? その対応をさせるために私を昇任させたい、ということですか」

「そんなに構えなくてもだいじょうぶですよ。ですが正直にお話しします。たしかに状況はたやすくはありません、はっきりいえば深刻です。反連邦活動が水面下で広がっている可能性が高いのです。背景には奴隷のみなさんの現状に対する不満があるのかもしれない。須田直也さんはご存知ですね?」

「須田……ああ、この前いきなり話しかけられたので、顔と名前だけは一致します。彼が革命分子なんですか」

「須田さんは学生時代とても優秀なコンピュータ技術者だったそうです。本来ならここで割り当て労働をしているような人材ではない。彼と似たり寄ったりの経歴の持ち主が、日本地区内だけでも複数の現場で確認されています。日本でのまとめ役は天藤てんどうはじめ氏だと推測されています。天藤氏の背後にさらに広範なネットワークがあるかもしれない」


 須田に渡されたチラシに載っていた名前も出てきた。おれは首をひねる。


「そこまでわかっているなら、須田くんと天藤氏をしょっぴいて取り調べればいいんじゃないですか?」

「須田さんに関してはそんな必要はありません。彼の言動は把握しています。連邦法に触れているわけではないのです。天藤氏のほうは自由民ですから、その言論活動は保証されていますし、プライバシーも厳重に保護されています。なにを考えているのかはまったくわかりません。物理的な破壊活動の準備をしているわけではないようなので、調べることもできないのです」

「私にその捜査をしろとかいうわけではないでしょうね?」


 若干語気が強くなってしまった。そんな仕事はお断りだ。カジエリはすぐにかぶりを振って否定する。


「いえいえ、まさか。井上さんにはみんなの『可能性』になっていただきたいのです。須田さんたちのグループはかなり活動を広げていますが、参加者のほとんどはただの無害なセミナーだと思っていますし、いまのところ須田さんたちも現状の社会や連邦に対する不満や憎悪を煽っているわけではありません。『改正人海法』によって以前よりも状況は改善した、今後も少しずつだけれどみなさんの待遇は向上していく――そのことが伝われば、いざ実際に天藤グループが反連邦主義を掲げても、乗せられる人は最少限に抑えられるでしょう」

「……お話は理解できたと思います。ですが即答はできかねますね。考える時間をいただけますか? いますぐ決めろというならお断りします。降格でも左遷でも逮捕でも、お好きにどうぞ」


 おれはタクミのために、曲がりなりにも安定しているいまの世の中を守りたいと思ってはいる。少なくともかつてのような状況にするわけにはいかない。それを見透かして皆の矢面に立たせようと仕向けてくる監督官のやりかたに内心くちびるを噛みながらも、ふてぶてしく応じた。

 昇任を受ければ須田には完全に敵だと見なされるだろうし、ほかの同僚たちからだってどう思われるかはわからない。祝ってくれるのもいるかもしれないが、嫉妬の目だって向けられるだろう。


 ところがカジエリは、拗ねたような表情で弱々しい笑みを浮かべた。なんで?


「わりと意地が悪いんですね井上さん。『改正人海法』がどれほど奴隷のみなさんの保護を強く掲げているか、承知の上でそんなことをおっしゃる。奴隷に対する割り当て労働の変更はその事由を公示する義務があります。井上さんの仕事ぶりは現場のだれもが認めるところですから、降格させようものならみなさんの不安、不信につながる。須田さんたちにとっては願ったり叶ったりの展開ですね」

「いえ、そこまで考えていったわけじゃないですが……」


 精神的なたじろぎを自覚しながら、おれは中途半端なことを口走っていた。困り顔のカジエリかわいい! と一瞬思った己をひっぱたきたい。


「そうでしたか。今日のところはこれでおしまいにしましょう。今回の件、前向きにご検討くださいね。よいお返事をお待ちしています」


 今度は曇りのない笑顔でそういいつつ、監督官どのは椅子を引いた。おれもつられて立ちあがる。しかし……狙ってやってるならあざといなこの娘!



 ♪男ってバカよねえ、めっちゃ単純よねえ――と、作詞作曲いま飛んできた電波による謎の脳内ソングを垂れ流しながら、すっかり暗くなっている空の下、家へ帰ろうとしたおれだったが、頭の悪い気分はすぐに吹き飛んだ。

 流通センターの敷地から出てすぐ、あきらかにこっちのことを待ち構えていた人影が、黄昏の残光に浮かびあがったからだ。まさに「誰そ彼」の時間帯だったが、問いただすまでもない。


「須田くんだね。わざわざ待っていたのか?」

「おつかれさまです井上さん。今日の勉強会がさきほど終わったばかりでしてね。監督官とはどんなお話を?」


 須田の態度は「単刀直入」の生きた見本だった。おれが治安担当官なら、迷わず逮捕して炭坑労働に送り込んでいるところだ。

 まあ、実際には鉱山のような危険な現場の自動機械化は放棄されていないのだが。だからこそ捨て鉢になった奴隷がダイナマイトを持ち出すなんて懸念もなく、破壊的テロの危険性がかつてに比べて大幅に下がっているから、治安当局は鷹揚に構えていられるのかもしれない。


「ようはおれを弾よけにしようってことらしい。おれが監督官になったとして、きみらの不満を逸らすことができるのかな」


 おれは極限まではしょって答えたが、須田はおれとカジエリの会話を全部聞いていたかのように、平然とついてきた。


「お引き受けにならないようにお願いします。われわれは個人的な不満や憤りで動こうというわけではない」

「なにをしようというんだ。革命か?」

「そんなに大仰なことではありませんよ」

「この前、おれからも話を聞きたいといってたよな。ここ二十年来の世界を体感した人間として、おれにいえるのは、現状は暴力に訴えずとも変えられるってことだ。主張は堂々と声をあげていうといい。なぜ無用の騒ぎを引き起こそうとするんだ」

「井上さんはご存じないでしょうね。ここでお話しすることはできません。監督官があなたに目をつけてしまったのでは、なおさらだ。いいですか、連中の話には乗らないことです」


 ここまでは歩きながら話していたが、おれは立ち止まって須田の顔を正面から見すえた。


「警告か? それとも脅迫かな」

「ご注意申しあげているだけです。あなたにも協力してもらいたかったというのはぼくの本心ですよ。こうなってしまった以上、巻き添えにならないよう気をつけていただくしかない。それではまた明日、おつかれさまでした」


 須田は無表情で淡々とした口調のまま、折り目正しく礼をすると単身者用宿舎が建ち並んでいるほうへと去っていく。どうやら本当になにかをしでかすつもりでいるようだ。須田は、そしてその背後にいる天藤とやらは、いったいどんなことを知っているというんだろうか。


 なんだかいやな予感がする。須田たちに与しようとは思わないしいまさら仲間に入れてくれといっても断られるだろうが、かといって明日すぐに監督官どのに「イエス」と答える気にもなれない。しかし、決断を先延ばしにして状況がよくなることはないということも、なぜだかわかる。


 選択を迫られるような羽目になるのは久しぶりだな、とすっかり錆ついている脳回路を動かそうと試みながら帰宅したのだが、風呂に入って夕飯を食って、タクミとゲームで対戦しているうちに、考えるのが面倒になってきてしまった。

 なにか悪いことが起きるのはたしかにせよ、具体的にどうなるのかはわからないのだ。迷ったときは現状維持、という安易で怠惰な発想に流れてしまう。


 カジエリがもうひと押ししてきたら素直に陥ちるか――と、やらしい根性で判断を保留することにした。

 ……まあ、結果的にはやっぱりというか、おれがどう転んでもその後の世界に影響なんかなかったわけだが。



 表面上だけは平穏な日々がすぎていった。

 タクミは一学年進級し、おれはこれまでよりやや身体的負荷の低い部署に移った。現場は同じ物流センターの中ではあるが。おれの身分は奴隷のままだ。先方からあのあとキャンセルの旨を伝えてきたのである。おおっぴらな呼び出しはなく、人目を避けるようにカジエリがこっそり耳打ちしにきた。


「……すみません、状況が悪くなりました。ご協力をいただきたいことに変わりはないのですが、井上さんにかかるリスクが高くなりすぎるようです。この前の話は忘れてください――それでは」


 立ち去ろうとするカジエリの腕を取って、


「状況が悪いのならなおさらだ、おれで力になれるなら手伝わせてくれ」


 というのが正しい主人公としての姿だったんだろうが、おれはあいにくとしがない奴隷で社会の歯車、その上本来はなくてもかまわない余りモンなパーツである。主人公ごっこをするにはちょいと歳を食いすぎてもいた。


 なのでおれはそのままカジエリを見送り、そしてその日がやってきた――


    4


 新しい部署はちょろい反面、時間の経過が遅いのが難点だった。

 流れてくる荷物のタグをリーダで読み取り、行き先ちがいが紛れ込んでいないかチェックするだけの簡単なお仕事だ。こんなこと人間がやる必要もなさそうなものだが、実際、機械労働革命期にはここの物流センターに人間は十数人しかいなかった。いまはその百倍以上の奴隷が働いている。機械に遠慮してもらって確保された人工的な雇用だ。


 五分ほど前に止まったコンベアがなかなか動き出さず、渋滞でなく故障ならこのまま昼休みにしてくれないかなと思ったところで、いつもは閉まっている大型隔壁が開きはじめた。

 なんだ、本格的にどっかいかれたのかと、おれはラインからちょうどいい大きさの箱を椅子代わりに引きずり降ろして腰かけたが、やってきたのは修理工を乗せた構内作業車ではなかった。


 足並みそろえて、とまではいかないものの、普段よりはずっと統制のとれた動きで奴隷の群れが歩いてくる。手にしているのは大型スパナやバール、スレッジハンマーだったが、故障したコンベアを直そうというわけでないのはひとわかりだ。

 須田が奴隷たちの先頭に立っているのが見えた。そのかたわらに、五十がらみの眼鏡をかけた男がいる。記憶にない顔だが、あれが天藤だろうか。


 周囲の奴隷たちが、リーダを放り出し、ラインから離れて群れへと合流していく。どうやら、すっかり蜂起の準備は整っていたようだ。おれだけ置いてけぼりのようだけど、まあ、混ざりたいものでもないから端から見ていることにする。


 須田と天藤(とおぼしき男)は工具を持っておらず、ほかにも手ぶらのが何人かいたが、奴隷を率いているという感じではなかった。小突かれたり、複数の奴隷に左右から挟まれていたりする。各部署の監督官だろうか。


「みなさん、まだ就業時間中です。持ち場に戻って」


 引き立てられているうちのひとりがそういったのが、おれの耳にまで聞こえてきた。カジエリだ。彼女を囲んでいた奴隷たちが嗤い出した。


「おいおい、いまだに状況が理解できてないのか?」

「こんな女ひとりに、俺たちはいままでどうしていいように使われてたんだか、よく考えたら意味わかんないぜ」


 ついこの前まで肩を並べて汗を流していた顔なじみの仲間たちが、下卑た面でにたりにたりとしている。なんだか、まるで現実感がなかった。

 カジエリもそうなのか、その顔には怒りも恐怖もない。ただ戸惑っているように見える。


「いやしかし、なかなかお近づきになる機会がなかったが、こうして間近で見るとホントかわゆいなカジエリちゃんってば」


 ひときわ品のない声があがり、監督官の周囲の連中のニタニタ顔がより厭なものに変わる。カジエリの表情に変化はない。奴隷どもの発想に気づいてないのか。


 が、成算ゼロのまま駆け寄ろうとしたおれの動きより、須田のほうが早かった。


「これはそういうお楽しみができる相手じゃないぞ」


 相変わらず淡々とした、感情を読み取れない声。反応したのは「これ」呼ばわりされたカジエリではなく、彼女の身に指をかけようとしていた奴隷のほうだった。


「ハハハ、面白いジョークだ。こいつが女じゃないとでもいうのか?」

「それどころか――」


 須田が上着の前を払った。ベルトから下がっているものを見て、奴隷どもの威勢が吹き飛ぶ。

 慌てて須田とカジエリの周囲から飛び離れた。須田が手にしたのは銃だ、しかも化学式の熱線を射ち出す物騒なシロモノ。なんでそんなのを持ってる?


 銃口を向けられてもカジエリの顔に恐怖はない。困惑したような表情のままだ。


「人間でもないし、そもそも生きてすらいない」


 言葉とともに須田はトリガーを引いた。瞬間的に高エネルギーを生成し、ハロゲン化合物の残滓を吸着したカートリッジが床へと落ちる。


 赤外線化学レーザーは目に見えないが、カジエリの左肩口に命中していたようだ。監督官の白いスーツが焼き切れている。しかし彼女は倒れていないし傷口を押さえようともしていなかった。ただ立ち尽くしたままでいる。そもそも人体くらいあっさり貫通する熱量のレーザーで、腕が落ちてしまうはずなのだが。


 須田のいっていたことの意味が、遅ればせながらおれにもわかった。レーザーの照射点を中心に、布地とその下の組織がわずかな炭化片を残して消え失せ、鈍色のフレームが露出していた。

 カジエリの胴体と左手を、骨ではなく金属が接いでいる。


「ロボット……」


 とつぶやいたのは、おれではなく奴隷のうちのだれかだった。

 須田が銃をホルスターに戻しつつ、うなずく。


「そう、これがやつらの正体だ。われわれ人間を奴隷にしていたのは、機械だったのさ」


 その言葉の効果は絶大だった。急な事態の変遷に唖然としていた奴隷どもの顔が変わる。さっきまでのへらへらとした猥褻さはなかった。憤激と、憎悪。


「クッソ、ロボットの分際で人間を舐めやがって!」


 振りおろされる凶器に対し、カジエリは腕をあげて身を守ろうとすることもなかった。人体を叩くより硬い音だったが、それでも鈍い、いやな響きが生じた。

 見た目はまったく人間と区別がつかないのだ、内部フレームはともかく、表層は有機物で構成されているにちがいない。赤くはないが、飛沫が舞う。カジエリは無抵抗のまま衝撃でひざをつき、寄ってたかって工具を打ちおろす奴隷の人垣が、おれの視線からカジエリの姿を隠す。見えなくなったのは幸いだったかもしれない。


 荷わけ部門以外の奴隷たちも、自分らの監督官に襲いかかっていた。ほとんどが無抵抗のまま打ち倒されたが、何人かが、やめてくれといって泣き叫ぶ。須田が声を張りあげた。


「ロボットに恐怖の感情はない。外見じゃどっちかわからんが、命乞いをしてくる相手には手を出すなよ、人間だからな」


 人間の監督官はさすがに工具で殴られはしなかったものの、奴隷たちに取り囲まれ、罵倒されるのは免れなかった。


「機械の手先になって俺たちを奴隷扱いしてたのかこの野郎」

「ちがう! 私は知らなかったんだ」

「ほう。ならロボットの犬になって同胞を虐げていた気分はどうだった? さぞや愉快だったんだろうなあ、ええ」


 奴隷と監督官の比率はおおよそ五〇から一〇〇:一なので、鬱憤をぶつける相手のいない奴隷たちが獲物を求めて管理棟のほうへ、あるいは物流センターの敷地の外へと向かっていく。

 須田と天藤は蜂起の指揮官として振る舞っているわけではないようだった。だがこれだけの騒ぎが、はっきりいえば暴動が起きているというのに、催涙ガスが噴き出てくることもなければ速硬性対人トリモチも射出されない。路地裏で酔っぱらいが喧嘩をはじめた程度のことでも、すぐに無人ヘリユニットが飛んできて鎮圧し、それから警官がのんびりやってくるというのに。須田たちが警備・治安システムを攪乱しているのはあきらかだろう。


 奴隷たちが勝手に動き回るのに任せてどこかへ向かおうとしている須田と天藤のあとを、おれは尾けていった。



 ふたりが入っていった部屋は、この前おれが呼びだされた監督官室より広く、モニタの数も多かった。

 センターの中央監視室だろう。須田と天藤が見ている画面では地図上に赤い部分が拡散していく様子が映し出されていて、蜂起の広がり具合だなと予想がつく。おれが室に入るとドアが閉まり、電子ロックのかかる音がした。おれが引っついてきていることはわかっていたようだ。


 こっちに背を向けているふたりへ、おれは語を投げかけた。


「あんたたちは、コンピュータが管理してる連邦の統治システムを乗っ取るつもりなんだな」

「いいえ、そうではありません。現行のシステムから、人間が介在しうる余地を完全になくそうとしているのです。うまくいけば、今度こそシステムが人間を正しく管理し続けることができるようになる。……彼らの狂躁を見たでしょう? 感情だなんて、不確かであやふやなものに社会が惑わされてはいけないのです」


 そこまでいって須田がこちらへ振り向き、天藤のことを身振りで示した。


「天藤先生はこのシステムの設計者のおひとりです。そしてぼくは、学生のころに、システムの保守や新機能の実装を、知らず知らずのうちに担わされていました」

「私がこのシステムを設計したというのは語弊がある。須田くんが自分でも知らぬうちにこの――ソフィリアシステムに関わっていたように、私も気づいたときには一部の構築に携わっていた。この種の巨大で社会的に重要なシステムを組む際には、バックドアを仕込まれないよう、巧妙に工程を分割し、それぞれのエンジニアが、自分がいまミッションクリティカルなセッションをいじっているのだとわからないように仕事を進めさせることがままあるのだ」


 天藤はおれに背を向けたままでそういった。それきり先を続けようとしないので、須田が会話を接ぐ。


「ぼくは大学を出るとき、コンピュータシステム関連の仕事を希望しなかったんです。ちょっと疲れてしまって。ほかに能はなかったので『奴隷』としていまの作業に配属されました。おかげで時間に余裕ができたので、学生時代に自分がやっていたことを再検討していたら、いまの世界を動かしている、巨大なシステムの一部に触れていたということに気づいたんです」

「それがこうやってテロリストごっこをやっていることになんの関係があるんだ」


 おれがそういってやると、モニタを見たままで天藤が応じる。


「ソフィリアシステムは巧妙にできている。しかしまだ完璧ではない。裏にだれかがいる。このシステムで社会を支配し、最大限の利益を得ている何者かが。さすがに個人ではあるまい。少数のグループ、あるいは連邦を構成するどこかの旧国家の組織だ」

「そいつらに成り代わって、自分が支配者になりたいってことじゃないのか」


 ようやく、天藤はこっちへ振り返った。おれの目には、技術者というよりは学者に、もっといえば宗教家や哲学者のように見えた。


「私がそんなに俗っぽい人間に見えるかね。私は連邦の成立は人類史の奇跡だと信じていたんだ。須田くんが訪ねてくるまで、私は自分の作ったものがなんに使われているのかわかっていなかったのだよ。須田くんの示したデータ、そのパターンがたしかに私の構築したものだと気づいたときの、私の衝撃と感動が想像できるだろうか? 神の御業に等しきことに、自分自身が関わっていたんだ。そして同時に、まだ仕事が完全ではないこともわかった。世界でもっとも巨大で複雑なシステムを、各々がなにを作っているのかも自覚していない状態で分業させて張り合わせたのだ、バグがあるに決まっている。現在ソフィリアに取りついて利権を貪っているのは、人知れず製作を指揮した何者かではない、それが私の直感だ。支配と利得が動機では、ここまで無私に近いシステムは作れない。システムの存在に気づいただれかが、構築時に生じていたギャップをついて侵入したのだ」

「それならこんなまどろっこしいことせずに、そいつを直接たたきに行けばいいだろう」


 これには須田が答えた。


「敵だってそんなに迂闊ではありませんよ。少なくともソフィリアを作った天藤先生たちと同レベルの技術と知識の持ち主だ。もしかすると、初期設計者のうちのだれかなのかもしれません。われわれはシステムに対する叛乱を演出してみせました。暴動はこれから連邦各地に広がり、あるいは抑え込む動きが生じます。そのパターンの中から、システムを防衛し、なおかつフィードバックでシステムが改善されることを拒否しようとする動きがあるはずです。その反応の源こそが敵の巣だ」

「あぶり出してどうする」

「不当に得ている利権を手放してもらうだけですよ。ソフィリアの私物化は犯罪とされるべきですが、われわれは彼らを捕まえたり懲罰を与えるつもりはないし、その権限もない。システムに食い込んでいるであろう彼らに利権誘導をしているコードを除去し、再度書き込めないようにシステムを改修するだけです」

「システムの保守に終わりはないよ。どこかにまだエラーは残っているだろう。ひとつの穴を繕うことでべつの部分がほつれることもある」


 といって、天藤は再びモニタのほうへ向き直った。なにかの操作もはじめている。須田もそのかたわらで、別の表示を呼び出して流れる数値や文字列とにらめっこにかかった。おれの存在など最初からなかったかのようだ。


 天藤と須田のいっていることが真実なのか、おれには判断ができなかった。なにせ、なんの判断材料もない。少なくともこのふたりには自分たちがやっていることは正しいという確信があるようだ。そして、おれよりは格段に頭が切れる。


 神のごときシステムとやらが本当に存在するのか。いや、たしかにうまくできたシステムがあるのはまちがいない。おれをはじめとする『無能』にちゃんと使い道を与え、こうして今日まで食わせてきただけでも普通じゃない。並の手腕ではこんなコルホーズじみたやりかた、たちまち破綻するはずなのだ。


 しかし、世界システムのデバッグのためにわざわざ騒動を起こす必要はあったんだろうか。機械に『奴隷』としてこき使われていた、と知ったときの皆の顔は、尋常でなかった。そこまで赦しがたいことだったのか。


 ……たぶんだが、天藤たちにソフィリアシステムを作らせたのは、機械労働革命で爆発的に全世界に広がったマシン・ネットワークそのものだろう。

 コンピュータに自我が生じたとはいいきれない。それだと人類は滅ぼされてしまったような気がする。あえていえば、機械の目的は人間の保護だったのだろう。どちらにせよ、自分たちより上位の存在を、人間は許容しないということかもしれない。


 カジエリの最後の顔が不意に思い浮かんだ。ロボットとはとても思えない、哀しそうな表情をしていた。


    5


 結論からいえば天藤と須田は失敗した。『演出』されたはずの叛乱はすぐに制御できなくなり、そして天藤たちと同じようなことを、ちがう動機ではじめていたやつらが、連邦のあちこちにいたのだ。


 人類史上最大の版図を有していた国家、環太平洋およびユーラシア連邦は、それまで存在していたのが冗談だったかのようにあっさりと分裂し、崩壊した。

 PPEFを成り立たせていたのがソフィリアシステムだったのは明白だ。メンテナンスのための小休止すら不可能なほど脆弱だった。ようするにコンピュータでなければ運営不能な組織、人間では絶対に維持できない体制だったということだろう。


 そういう意味でなら『解放』運動は完璧に成功したことになる。天藤たちの思惑を超え、人間は自らの運命を決定する権利をコンピュータから見事に奪還したわけだ。

 そして盛大に自爆した。

 ま、意外というほどのオチじゃあるまい。


 その後は絵に描いたような最終戦争が勃発した。いまこうしておれが生きているのは、完全にただの運だ。強いていえば、タクミを守るためならどんなことでもやれたからか。

 独りだったらさっさと生きることをあきらめていただろう。とはいえ、守る者がいれば生き抜ける、というほど麗しい話が通用したわけではない。実際こうして、ほとんどの人間はいなくなったのだから。そのうちの大半が、死ぬわけにはいかないと強い意志を持っていたにちがいないのに。


 世界がひっくり返っても、一命さえあれば人生は続く。


 おれのいまの日課は、使える物資を集めてくることだ。外の空気は健康に良いとはいいがたいので、地上への縦穴のわきで待機して、ロボットが帰ってくるのを待つだけの簡単なお仕事。

 もちろんカジエリたちのような、人間と見わけのつかない高級機ではない。四脚の荷役ロボと、マニピュレータを備えたキャタピラ履きロボのコンビだ。


 もと妻のキリエが選んでいた仕事が、ロボットのメンテナンスで本当に助かった。おれの自力じゃアリモノを動かすことはできても、修理したりニコイチしたりはできなかっただろう。

 こんなことになるならおれも奴隷身分で満足せず、ちゃんと技能を身につけておけば良かったかと思ったが、キリエにはこう突っ込まれた。


「もしロボットの修理技術なんて持ってたら、カジエリちゃん直そうとして盛大な無駄をしたでしょうね、あなたなら」


 ……ひと言もございません。


 まあ、べつによりを戻したとか、元鞘とか、そういうことではない。以前の共同生活と同じようなものだ。もちろんタクミあってのことである。子はかすがい。


 戻ってきたロボの収集してきたデータに目を通して、周辺の環境と、生き残りの人間がいないかを確認する。ここ最近生き残りの痕跡はなかった。物理的に接触可能な範囲にはもう生きた人間はいないのかもしれない。

 都市型農業プラントと淡水魚養殖プラントを掘り当てたのでしばらくは食っていけるが、一生保つものではないだろう。タクミや、その次の世代まで地下で引きこもり続けるのは確実に無理だ。外部環境がもう少し落ち着いたら、いま住み着いている残骸都市の区域から出て自給自足でやっていける土地を探しにいかなければ。


 アジトか、コロニーか、ネストか、なんと呼ぶかも決めていないが、ロボを連れて、帰る。タクミは子供たちに勉強を教えているところだった。現在の住民はおれを含めて九名。おれとキリエ以外は未成年ばかりで、しかもタクミが最年長だ。未来こそあるが不安な構成でもある。なにせ唯一の成人男手がどうにも情けない。


 とはいえ、わが子を頼むと最期に言い残して息絶えた親御さんたちのことを思えば、下手は打てなかった。


 事実上のボス、リーダー、最高指導者であるキリエ先生に集めた資材を届け、ロボコンビを引き渡す。

 プラント維持のための作業について指示をあおぎ、メモに書いた。明日は太陽発電パネルを補修しに、短時間だが外へ出なければならない。


「明日に備えて、今夜はよく休んでおいてね。外部の危険はまだ未知数だから」


 キャタピラロボの履帯を剥ぎながらそういうキリエへ、おれはくだらないことをいってみた。


「細かい作業もできるロボット作れませんかね、ドクターキリエ」

「無理に決まってるでしょ。作れるならとっくに作ってるわ、イケメン執事ロボでも。そしたら無駄飯食いの中年のオッサンは不要よね」

「……おれなら仮にメイドロボがあっても、人間の女性をお払い箱にしようとは思いませんが」

「あーらそう。アイドル風上司ロボだったらどうなのかしらねえ」


 この阿呆きわまりないやりとりをしているのが、ことの次第によっては現在の地球上に生存しているただ二匹の成体ホモ・サピエンスだとは、まったくこの世は奇なるものである。


 そこへ、両親とは似ても似つかぬ優秀な息子のもとから使いがやってきた。


「ごはんですよー」


 それだけいって、すぐに身をひるがえし駈け戻っていく。オトナ二匹も痴話喧嘩にすらなっていない益体ない会話を切り上げて食堂へ。


 タクミの料理の腕はますます上がっている。プラント頼りなので決まった種類の食材しか手に入らない上、調味料の慢性的不足に見舞われているが、定番料理と変化球で飽きないだけのパターンを構築していた。

 食卓では子供たちがきちんと椅子に座って、遅参のオトナがやってくるのをしんぼうづよく待っていた。さっき声をかけにきた子もすでに席についている。おれが食堂に入った時点でタクミは奥の調理場にいたが、ふざけている子はいないしつまみ食いしようとする子もいない。

 若くしてタクミの教育者としての資質は完璧だ。まあ、子供を手なずけるには胃袋をつかむにかぎる。


 料理のもられた皿を持ってタクミが奥から出てきた。香ばしい匂いがする。

 今日のメインは小エビのかき揚げのようだ。本来は養殖プラントの改良ナマズ用の餌なのだが、殖やしやすいのでエビのほうを直接食うことが多い。かき揚げの衣は小麦粉の入手が絶望的なのでイモの粉だ。

 水耕栽培のイモはなんというか根性が足りないので、そのまま蒸かして食うより粉にしてから料理するほうがいい。手間はかかる。おれもたまに手伝うが、かなりの大仕事だ。子供たちはイモをすりつぶし、水分を絞って干すという作業をけっこう遊び感覚でやっている。


 卓上に皿をおいたタクミに、おれは本日一番の戦利品を差し出した。ラベルは剥げてしまっているのでメーカーは不明だが、未開封のカレー粉のビンだ。


「ありがとう。大事に使うね」


 にっこり笑ってビンを受け取り、タクミはエプロンのポケットにしまいこんだ。

 これまでに何度か食料品店の残骸や備蓄倉庫を見つけているので、この少人数の所帯なら口をまかなうことができている。だが長期的なことを考えれば、DIYショップなりホームセンターなりの跡地を見つけ出して、家庭菜園レベルからでも土で栽培することをはじめたほうがいいだろう。プラントのサイクルにいまのところ問題はないが、人工環境に合わせて改良されている種苗は外部では育たない。


 タクミが椅子に座るのを待って、おれは両手を合わせた。今日もうまそうだ。いや、食う前からわかる、絶対うまいと。


「それでは、いただきます、タクミシェフ」

『いただきます』


 キリエと子供たちも唱和し、微笑してタクミが応じる。


「どうぞ、めしあがれ」


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