道野辺ノ坂ノ小町/前篇
生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり
―道元
文目も分かぬ五月闇。今か出づらむ魑魅魍魎……
はるかな上空で、ざわりと風が吹いた。雲が流れ、おぼろに月の下端部がのぞく。
あまりにも微かな月光のもと、しんとした林間の道は、いっそうの幽暗に包まれていた。
……やがて、菅笠をかぶり、竹の杖をつく旅人の姿が、その道に現れたのだった……
*****
五月の半ばとあって、夜間ならではの涼しさの割に、湿度は高い。五月雨の頃に入った空気は重く、生暖かく、じっとりと濡れている。
慣れない夜道を行く一人の旅人は、杖で先を探りつつ、慎重に歩を進める。
時おり道端の草や小石に足を取られてふらつくが、その足取りは、明らかに青年ならではのものだ。
月を隠していた雲の波が、更に流れる。辺りの光景は、わずかながら仄明るさを増した。
旅人の青年はサッと面を上げ、行く手を確かめる。
奥の方で、林間の細道は幅を広げていた。
――大岩が鎮座している。
注連縄を張られた大岩だ。おぼろながら、その紙垂の白さが見て取れる。
そのかみの世より在りける、神さびたる磐座。
他の人の気配がする。青年は歩みをゆるめた。
不意に。
重く垂れこめていた雲の波が、フツと切れた。皓々たる満月が現れる。
灼けつくかのような白さが、辺りにあふれ……月の光は、林間の底まで鋭く差し込んで来た。
――磐座のもと、うずくまるように座り込んでいる人影。
青年は、ハッと息を呑み……そのまま、笠の縁に手を掛けて、慎重に窺う。
その人影は、微動だにしない。
よく見ると……老婆だ。元は何色だったのかすらも定かではない破れ果てた着物を、老いさらばえた枯れ木のような身にまとっている。
息をしている気配は、全く窺えない。
――行き倒れ。あるいは……姨捨。口減らしのための。
少しの間、杖を持つ手がこわばり、震えた。この身の行く末も、きっと――
月光に白く照らされた道野辺の上を、ゆっくりと歩み寄る。ほど近い場所に膝をつき、青年は、そっと手を合わせた。うろ覚えながら、お経を呟く。
――あまねく命こそ、かなしけれ……
*****
「……およし、まだ死んじゃ居ないよ」
誰の声だ? あやしく思って見直す。
老婆の目が薄く開いていた。老いてなお生々しい光を含む眼差しが、じっとこちらを見ている。
「お化け……!」
青年は飛びすさった。そのまま転げ、尻餅をつく。腰が抜けてしまって、足にも力が入らない。
「いずれにせよ死に時だけど」
枯れ木のような老婆の自嘲が続く。
……満月の光のもと、辺りは非現実的なほどに明るい……
老婆の顔面に落ちた陰影は、こけた頬やくぼんだ眼窩の目立つ面差しを、いっそう頭蓋骨のように見せている。
異様な雰囲気のある老婆だが。それでも、生きて会話を交わせる人間だ。ようやくにして青年は息を整え、疑問を言葉にして押し出した。
「……誰ですか? お名前は……?」
「名前なんか無いよ。ただのコマチさ……」
老婆は、物珍しそうな眼差しをして、青年を眺め始める。
……うら若い。元服したばかりと見える。襟足の辺りでは、まだ切れ端の落ち着かない短髪が跳ねている状態。
その辺りの人々よりも、よほど思慮深い性質だということは窺えるが……『少年』と『大人』の間を不安定に揺れ動いている年頃だ。
青年は、その背に、結構な大きさの行李を背負っている。
見るからに旅人だが。
物慣れぬ旅人といった風で、装備はきちんとしていない。
職人向けの頑丈な仕立ての藍染の着物をまとってはいるものの、長旅用の草鞋も脚絆もしておらず、草履をつっかけて『ポッ』と飛び出して来たという風の軽装。
……老婆の眼差しが、青年の目鼻立ちを幾度も往復する。
その薄く開いた眼差しは、やがて、妖怪めいた光を帯び始めた……
「帰化人かい?」
一瞬、青年は息を呑んだ。警戒の眼差しで、老婆を見つめる。
注連縄を張られた聖なる磐座のもと……老婆は更に呟く。
「西から何やら、新奇なる神を連れて来たそうな……」
「花洛の大尊教……大教主の……唯一絶対の天与ノ神の事ですか……」
青年の眉間に、ゆっくりと、年に似合わぬシワが出来る。そのシワは、内心の苦渋を映し出すものだ。
「――私は無関係です。私は……ただ……」
少し口ごもった後、戸惑い気味の溜息が洩れた。
「私は、人を探しているだけです……さるお方に頼まれて……」
何とも疑わしい説明ではあったが。老婆は拒む気配も無く、じっと耳を傾けていた。
「人……? この国に? ……どれが人だか、どれが神だか……」
*****
二人を照らす月光。恐ろしいばかり、冴えわたった光。
老婆の、しわがれてかすれた声が、静かに漂う。
「花洛を出て来たんだね、若いの……探し人の当ては?」
「それは分かりません。とにかく、その人を見つけて……連れて行きます。花洛に」
さすがに、これだけでは説明不足だ。青年は、しばし在らぬ方に視線を泳がせた後、再び口を開いた。
「私は、一介の見習いの鏡職人に過ぎません……」
青年の述懐が続く。
……何故そんな事になったのか、今でも良く分からない……
日にちをさかのぼる……五月の初めの頃。
花洛の都の一角。
青年は父親と共に、奉仕先の主の屋敷から荒々しく追い払われた。
――あの『事故死』は気の毒だったが。今後、近づけば、父子ともども命は無いぞ!
長物を構えた衛士の一団は、そう言って、青年と父親を追い払ったのだ。
都ならではの、何らかの陰謀や、事件と言った気配は感じられたものの――何も分からぬままに、振り回される。庶民とは所詮、そういう物でしかない。
そんな青年と父親に……何故か、見知らぬ涼やかな容姿をした一人の貴人が、手を差し伸べたのだ。
高位の身分にも関わらず妻は一人のみという、かの貴人は……落ち着き先を失った二人を憐み、自らの屋敷の住み込みの使用人として保護してくれた。くだんの貴人には青年と同年代の一人の嫡男も居て、その嫡男の方も、出自や身分にこだわらず、親しくしてくれた。
感謝はしたものの。話に聞く『亡命』とは、かくの如きものか――という複雑な思い。
父親は、訳の分からない『事故死』で連れ添いを失った。同郷でもあった主の屋敷から追い出され、行く当ても無くなった――父親は抜け殻のようになってしまった。
母の死には謎が多すぎる。本当に『事故死』だったのか……
青年には、どうしようも無い。偶然ながら母は、使用人仲間の関係で、かの貴人と縁があったと言う……このたび、かの貴人に保護されたのは、その不思議なツテのお蔭だった。
とはいえ……目下、将来が見えぬこともあり、悶々とするばかりだ。
そんな時。
高位の衣冠をまとう、かの貴人が、ふと頼みごとをしたのだ。『オウショウクンを探して欲しい』と。
『確かな筋から聞いている……そなたの母親は、オウショウクンを探していたのだ。そなたも、かの一族の血を受け継ぐ者。オウショウクンを見い出せるかどうかは、今や、そなたの身にかかっている訳だ……』
……オウショウクン……
その名は、『桜照る君』と書く、と言う。
余りにも不思議な名前だ。実在する人物なのか?
しかし。
静かな時間は余りにも短く、遂に今宵、運命の時が、やって来た。
時ならぬ大人数の気配。
屋敷の門の外で続く大音声。刃物の特有の金属音。
何やら、押し問答をしている様子だ。荒々しい大音声。
『逃亡した下手人が、此処に潜伏しているとの報告を受けている』
貴人の屋敷の片隅に与えられていた部屋で、うたた寝をしていた青年は、耳を澄まし……ハッとした。
あの『事故死』の発生した元・奉仕先の屋敷から、大勢の捕り手が派遣されている。
再び響いて来る、大音声。意外に近い。
『下手人を、速やかに引き渡されたし……!』
突如。
青年の脳裏に、閃くものがあった。
冤罪だ。何故なのかは分からないが、彼らが罪をかぶせて捕えようとしているのは……
……父ではなく、私だ!
決心はついた。
私は、桜照君を――オウショウクンを探す……!
旅立ちの時。
元服直前とあって長くなっていた髪を、バッサリと切り落とす。外出用の着物を羽織り、かねてから私物を保管していた行李を持ち出す。
……そして、騒動が続く門前とは反対側の、裏の垣根から……人知れず駆け出した。
気が付いてみれば、早や五月も半ば。
この日、この夜、この十五夜。
真夏の直前の、五月闇、しとどに濡れる夜の空気の匂い。いよいよ緑盛んな五月雨の季節、万緑の草木の匂い。
いつしか。
はるかに仰げば、闇きを渡る月の影。
いちめん墨を流したような夜、幾重にも行く手を阻むかのような雲の裂け目から洩れいずる……ひと筋の光の、そのさやけさ。
……清ら月は、道野辺に照り……
出奔した。
都落ちした。
行く末も分からず、ただ月を追って、飛び出したのだ。
何故そんな事になったのか……今も良く分からない。
――その人を探し出す。それだけが、今の目的だ。
そうしたら、きっと、母親の死の謎も……