私と後悔と黒ホテル
ふと頭に浮かんだ物語の供養です。
よろしければご一読お願い致します。
肌を刺すような寒さも随分やわらいだ、三月末。
連日のニュース番組や天気予報によると、今年は暖冬で随分過ごしやすかったらしいが、とてもそうは思えない。
むしろ例年以上に凍えるような冬だった気すらする私から言わせれば、一体何を根拠にそのような報道をしているのか甚だ疑問だ。
そんな愚痴を胸の奥でぼそりと呟きながら、私――白河雪乃は仕事の出張で訪れたとある街でビジネスホテルを探していた。
「えぇ……全然ないじゃない……」
スマートフォンを指でスライドしながら、近くにあるホテルを片っ端から検索する。
しかし、私がいくら調べても調べても、近辺にはホテルのホの字も見当たらない。
もうじき日が暮れる。早いうちに寝床の手配をしなければならないというのに、焦りは募る一方だ。
「一泊だけだからって甘く見てた……。ちゃんと下調べしてくればよかったよ……」
悔やんだところでもう遅い。
どうしたらいいだろうかと途方に暮れながら歩いていた、その時だった。
「……ん?」
ふと私は、視界の端に映った真っ黒な看板の文字が気になって足を止めた。
"Hotel Bedauern"
英語ではなさそうだが、何語だろうか。後半の単語は私には読めなかった。
しかしそこには紛れもなく、私がずっと探し求めていた、宿泊施設を表す文字が刻まれていた。
これはなんという幸運だろうか、とほっと胸を撫で下ろす。
しかしそれと同時に、すぐ目の前にあったホテルがネット検索にまるで引っかからなかったことに、私は少しだけ苛立ったのだった。
私のようなビジネスウーマンのためにも、Webサイトの管理くらいはきちんとしておいて欲しいものだ。
そんなことを考えながら自動ドアをくぐった私は、まっすぐホテルのフロントへと向かう。
するとそこには、黒のタキシードに黒のシルクハットを被った一人の男が立っていた。
「ようこそ、Hotel Bedauernへ」
「あー、どうも」
へえ、そんなふうに読むんだ、と心の中で感心しながら、私は黒づくめの男を見据えた。
目深に被ったハットのせいで相手の顔が見えず、少し不気味なようにも感じて少し怖くなる。
しかし、ようやく見つけたホテルなのだからと、私は深く深呼吸をして彼の前に立った。
「一泊、お願いできますか? 一番安い部屋でいいので」
「はい、かしこまりました。当ホテルで最も安価なお部屋ですと、一泊40,000円となりますけれども」
「はぁッ!? ちょっと待ってください、40,000円!?」
驚き過ぎて声が裏返った。
ビジネスホテルなんて普通は4,000から5,000円くらいだと思っていた。
ところがこの男、あろうことかその10倍も要求してくるなんて正気の沙汰とは思えない。
「何か、ご不満でしょうか?」
「いやいや、いくらなんでも高すぎませんか? 一泊40,000円のビジネスホテルなんて聞いたことありませんけど!」
「そうでしょうか。当ホテルのサービスを考慮すれば妥当――いえ、むしろお安いくらいの料金設定だと思いますが」
開き直るとは、信じられない。
この男、何が何でもこの値段で押し通すつもりらしい。
ハットのせいで顔は見えないが、きっと涼しい顔でほくそ笑んでいるに違いない。
「……はぁ、わかりました。じゃあそれでお願いします」
財布を開くと、ギリギリ宿泊費を支払えるだけの手持ちがあった。
私は半ば不貞腐れながらも、黒づくめの男に部屋の準備を頼むことにした。
近くに他のホテルがない以上、そうしなければ今夜泊まる場所がないのだ。
今回は運が悪かったと思って、40,000円相当のサービスとやらに期待するしかない。
次の出張からは入念にホテルの下調べをしようと、私は固く固く決心したのだった。
◇◇◇◇◇
部屋はレトロな西洋風で、思っていたよりもおしゃれだ、なんて印象を抱いた。
しかし、部屋を念入りに観察してみてもベッドは普通、シャワーも普通。
サービスに自信があるようだった受付の男の言葉が拍子抜けなほどに、どこまでも"普通"としか言いようのない部屋だった。
そう言えば、ホテルのフロントでも廊下でも、他の宿泊客を一人も見ていない。
まあ、一泊40,000円という馬鹿げたホテルに泊まろうと思う物好きなんて、そうそういないのだろう。とことん災難だ。
シャワーを浴び、濡れた髪をドライヤーで乾かした私は、大きな溜め息と共にベッドに座り込んだ。
そのとき、部屋のドアが二回、ノックされる音が聞こえた。
「はーい? どちら様ですか?」
「私でございます」
ドア越しに聞こえたその声は、フロントにいた黒づくめの男のものだった。
一体何の用事だろうかと、私はチェーンをかけたままのドアをそっと開けた。
「お客様、お飲み物などはいかがでしょう。紅茶、緑茶、コーヒーからお選びいただけますが」
半開きのドアの先には大きなハット。その下には綺麗な装飾が施された白い陶器類が盆にのせられているのが見える。
言われてみれば何か飲みたい気分だと思った私は、チェーンを外しながら「じゃあ、紅茶で」と答えた。
「失礼致します」
軽く頭を下げた男は、部屋に入ってきて小さな円卓に盆を置く。
そして慣れた手つきで茶器に葉を入れ、熱湯を注いだ。
「……どうされました? あまり顔色がよろしくないようですが」
「えっ……?」
男の不意な呼びかけに、私は何と答えたらよいか迷ってしまった。
特に体調が悪い自覚があるわけではないのだが、この男にはそのように見えたのだろうか。
「お客様、ひょっとして、何か後悔されていることがおありですか?」
「……ッ!」
男のさらなる呼びかけに息をのむ。
まるで私の心を見透かしているかのような彼の言葉は、無感情なようでどこか力強い。
「もしよろしければ、話していただけませんか? 紅茶が美味しく出来上がるまで、まだ数分かかりますので」
「……聞いて、どうするんですか?」
「何も致しません。聞くだけです。悩んでいるときは、それを誰かに話すだけでも随分楽になるものですから。もちろん口外は一切致しませんし」
この男、もしかして、ここ最近私が重大な悩みを抱えていることに気づいているのだろうか。
今年の冬がいつもよりも寒く感じてしまうほどの、私の悩みに……。
今まで必死に押し殺してきた、胸の中に詰まる凍てついた感情。
それを今すぐ吐き出して楽になりたい気持ちと、こんな見ず知らずの男に話していいのだろうかという葛藤が、私の中で渦巻いた。
深く被ったハットの下にある男の表情は相変わらず見えない。
しかし、落ち着きのある彼の声色に耳を傾けていると、私は自然と唇が緩んで言葉を紡ぎ始めていた。
「……三ヶ月前の話です。私には当時、付き合っている彼がいたんですけど……」
そこまで声にして、私は続きを話すことを躊躇ってしまいそうになる。
俯いた私を見下ろすように、男は無言のまま立ち尽くしている。
私はゆっくりと深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、ちくりと痛む胸から小さな声を吐き出した――
「――彼は、死んでしまいました。私のせいで」
男は私の話を聞いても微動だにせず、何の相槌も打たず、ただ黙ってそこに立ち尽くしていた。
その様子が話の続きを促しているような気がして、私はさらに言葉を続けたのだった――
◇◇◇◇◇
色鮮やかな光が点滅する街路樹。
一年に一度、今の時期だけに見られるそれは、過ぎ行く人々の心を少しだけ華やかに色づかせてくれる。
時期はちょうどクリスマス。
すっかり浮かれムードが最高潮となったこの街で、私は今夜、付き合いたての彼と念願の初デートをする予定なのだ。
待ち合わせは夜だというのに、張り切り過ぎていた私は、午前中から自室でファッションショーを開始して服を真剣に選んでいた。
さらにそれだけでは飽き足らず、私は約束の一時間も前に待ち合わせ場所に到着してしまったのだった。
寒い中待っているのも大変だと思い、私は適当なカフェに入って時間を潰すことにした。
時期が時期だけに、店内は若いカップルが多いような気がする。
非常に混雑した中で最後の空席を確保することができた私は、窓の外から見える街路樹のイルミネーションを見つめながらカップを傾けていた。
そうしてぼんやりしているうちに約束の時間が迫り、私はそっと席を立つと待ち合わせ場所へと向かったのだった。
「ごめんよ雪乃、待たせちゃったかな」
「ううん、私も今来たところだよ、匠くん」
少しありきたりな気もしたが、なんだか恋人っぽいそんなやり取りが少しだけ嬉しく思えた。
白い息を吐きながら小走りでやって来た彼は、細身で私よりもちょっぴり背が高い。
ヒールを履くと目線がほぼ同じになるのだが、これは私の身長が平均よりも高いからであって、彼が小さいわけではない。決してない。
「それじゃあ、行こうか。僕のオススメのお店を予約してあるんだ」
「本当? 楽しみ!」
先に歩き出した彼の隣につき、並んで歩く。
イルミネーションがライトアップされたクリスマスの街を彼と一緒に歩けるなんて、本当に幸せだ。
しかしこれはあくまで初デート。これから彼との素敵な思い出がもっともっと増えていくのだろうと思うと、表情筋がみるみる緩んでいくのがわかった。
「ほら、あのお店だよ」
横断歩道を渡りながら、彼が前方を指差した。
そこには緑色の看板の、いかにも若者らしいフレンチのレストランがあった。
「すっごいおしゃれ! 早く行こ!」
そう言いながら私は、ちょっとだけ勇気を振り絞り――彼の手を引いて足を速めた。
付き合い始めたばかりでまだ手も繋いだことのない私たちにとって、これは大きな一歩になるに違いない。
彼は一瞬驚いていたが、すぐにぎゅっと手を握り返してくれたのはとても嬉しかった。
しかし、彼の歩みは突然止まった。
何事だろうかと私が首を傾げると、彼はたった今追い越した老婆をじっと見ていた。
「……ねえ、あのお婆さん、手を貸した方がよくないかな?」
横断歩道の真ん中で立ち止まった彼が私に囁く。
老婆は足腰が悪いのか、杖をついていて非常に歩みが遅い。
優しい性格の彼のことだ、つい気になってしまう気持ちもわからなくはないのだが――
「――大丈夫だよきっと。ちゃんと歩けてるし。余計なお世話だって怒られたら嫌じゃない?」
「えっ? 怒る人なんているの?」
「いるよー! 私なんてこの前、電車でお婆ちゃんに席譲ろうとしたら、『年寄り扱いするな!』って逆ギレされちゃったし」
「それはなんか嫌だな……よかれと思ってしてることなのに……」
「でしょー!」
愚痴っぽい言い方になってしまったかな、と少し反省。
しかし彼は、私のそんなちっぽけな心配なんてまるで気にしていないようで、少し安心したのはここだけの話だ。
「あのペースなら信号変わる前に渡り切れそうだし、心配いらないよ」
「そうだね。行こうか」
そして私たちは再び前方へ向き直り、二人並んで横断歩道を渡り切った――
――刹那、激しく響き渡るクラクションの音。
驚いて振り向くと、そこには赤信号を無視して交差点に突っ込んできた一台の乗用車が見えた。
速度が緩まる気配はなく、その車の進む先には――
「――危ない……ッ!!」
私が思わずそう叫んだ瞬間、彼は繋いでいた私の手を振りほどいて駆け出した。
力の限り伸ばされた彼の手は、驚いて腰を抜かしそうになっている老婆の肩に届き――
そして、私の目の前を銀色の鉄塊が通り過ぎた。
すぐそこにあったはずの彼と老婆の姿は、まるで神隠しにでもあったかのように一瞬にして視界から消え去ったのだった。
◇◇◇◇◇
「それは、災難でしたね。心中お察し致します」
私が話し終えると、男はそう言って小さく頭を下げた。
本当に、後悔してもしきれない。
私があのとき余計なことを言わなければ――素直に老婆に手を差し伸べていれば、二人とも助かったかもしれないというのに。
どうして私はあんなことを……。
顔を伏せる私のすぐ隣で、こぽこぽと紅茶を注ぐ音が聞こえる。
そして溢れ出す前の涙を拭った私に、彼はそっとティーカップを手渡してきたのだった。
「どうぞ」
「……どうも」
赤茶色の小さな波が円形に広がっていくのを見つめながら、私はそっとそれを口元へ運ぶ。
初めて飲む味だが、何というお茶だろうか。少し甘くて、遅れて強い苦みがやってくる。
まるで、彼が死んだあの時みたいだ。
「では、こちらをお部屋に置いていきましょう」
男の声に視線を向けると、彼は小さな蝋燭にマッチの火を灯していた。
細く漂う煙からは、花の蜜のような甘い香りがする。ただの蝋燭というわけではなさそうだ。
「リラックス効果のあるアロマキャンドルです。落ち着くでしょう?」
「……そう、ですね」
これも嗅いだことのない香りで、なんだかとても新鮮だ。
そんなことを考えながら、私が飲み終えたティーカップを円卓に置くと、男はそれを再び盆にのせて部屋の出口に立った。
「では、私はこれで。ごゆっくりどうぞ」
私が軽く頭を下げて答えると、男はそっとドアを閉めて部屋を去って行った。
ギリギリで泣かずに済んだが、なんだかすっかり泣き疲れたような気分だ。
明日も仕事で早起きしなければならない。
泣きそうになったせいなのかアロマが眠気を誘っているせいなのかはわからないが、私は倒れ込むようにベッドに横になると、重い瞼を重力に任せて下ろしたのだった。
◇◇◇◇◇
色鮮やかな光が点滅する街路樹。
一年に一度、今の時期だけに見られるそれは、過ぎ行く人々の心を少しだけ華やかに色づかせてくれる。
時期はちょうどクリスマス。
すっかり浮かれムードが最高潮となったこの街で、私は今夜、付き合いたての彼と念願の初デートをする予定なのだ。
待ち合わせは夜だというのに、張り切り過ぎていた私は、午前中から自室でファッションショーを開始して服を真剣に選んでいた。
さらにそれだけでは飽き足らず、私は約束の一時間も前に待ち合わせ場所に到着してしまったのだった。
寒い中待っているのも大変だと思い、私は適当なカフェに入って時間を潰すことにした。
時期が時期だけに、店内は若いカップルが多いような気がする。
非常に混雑した中で最後の空席を確保することができた私は、窓の外から見える街路樹のイルミネーションを見つめながらカップを傾けていた。
「すみません。相席よろしいですか?」
不意に男性の声が私に呼びかけてきた。
窓から声のした方へ視線を向けると、長い黒コートを着た一人の男がコーヒーカップを持って立ち往生していた。
顔だちも目つきも細めだが、鼻筋はまっすぐ通っていてそこそこの美形だ。
「大丈夫ですよ。どうぞ」
「ありがとうございます」
これだけ店内が混雑している中、空席を待っていたら彼のコーヒーが冷めてしまう。
あまり長居するつもりもなかった私は、優しく微笑みかけてくるその男の頼みを快諾したのだった。
「今日は、随分とお客さんが多いですねえ。いつもは席がないなんてこと、ありえないんですけど」
「へえ、そうなんですか……」
相席を許したはいいものの、ナンパだったらどうしよう、なんて心配が今更込み上げてくる。
もしそうだったときはこれから待ち合わせている彼に助けてもらえばいいかな、なんてことを考えながら、私は再びカップを口元へ運んだ。
「おい! いつまで待たせるんだよ!」
「申し訳ございません! 順番にご準備しておりますので、もう少々お待ちください……ッ!」
不意に、店内に大きな声が響き渡った。
どうやら中年の男性客が若いアルバイト店員にクレームをつけているようだ。
店内の視線を一心に集めていても、その男性客はお構いなしに罵声を発し続ける。
そしてしばらく怒鳴り散らしたあと、その男性客は「もういい!二度と来るか!」と捨て台詞を吐いて店から去って行った。
「なんだか、感じが悪いですねえ。これだけ混んでいるんですから、注文を取るのに時間がかかっても仕方がないでしょうに」
そう言って相席の男は、男性客が開け放っていったドアを閉めようとするアルバイト店員を見つめていた。
「見たところ、あの若い店員さんのせいではなさそうですよねえ。大人気ないったらありゃしない」
「でも、そういう理不尽な人、少なくないですよ。私も、電車で席を譲ろうとしたお婆ちゃんに、年寄り扱いするなって怒られたことありますし」
男の話に共感した私は、ふとそんな愚痴を漏らしてしまっていた。
「それは、災難でしたねえ。あなたはよかれと思ってしたことなのに」
視線を私の方へ向け直した男も、私の話に共感してくれた。
それを少し心地よく思っていると、男は元々細い目を更に細めて穏やかに微笑んだ。
「でも、どうかそのことに腹を立てたり根に持ったりはしないでください。それは誰が悪いわけでもありません。あなたがよかれと思ってしたことと、その人にとって喜ばしいことが、たまたま噛み合わなかっただけなのですから。あなたの行いは、行動に移しただけで十分に誉れ高いことなのです」
なんだか不意を突かれたように感じて、私は黙り込んでしまった。
なぜ私は見ず知らずの男にこうして愚痴を零し、さらには褒められているのだろうか。
今まで気づかなかったのが不思議なくらいの異様な状況に、私はきっと間抜けな顔を晒していたに違いない。
「だからあなたは、もっと自分の行いを誇っていいのですよ。あなたのその優しい気遣いを喜んでくれる人は必ずどこかにいると、私は思いますけどねえ」
「はぁ、どうも……」
なんだか釈然としないが、褒められたのだからとりあえず礼を述べておいた。
どうにも極まりの悪い雰囲気を誤魔化そうとして、私はちらりと腕時計に視線を落とす。
すると時計の針は、間もなく彼との約束の時間を指そうとしていた。
「あっ、時間! それじゃあ、失礼します!」
相席の男に軽く頭を下げて席を立つ。
遅れそうだと小走りになる私は、男の穏やかな視線を背中に感じながら店を出たのだった。
◇◇◇◇◇
「ごめんね匠くん! 待った?」
「いいや、僕も今来たところだから大丈夫だよ、雪乃。それじゃあ、早速行こうか。僕のオススメのお店を予約してあるんだ」
「本当? 楽しみ!」
先に歩き出した彼の隣につき、並んで歩く。
イルミネーションに彩られた街の中を、彼は慣れた様子で迷いなく進んでいった。
「ほら、あのお店だよ」
横断歩道を渡りながら、彼が前方を指差した。
そこには緑色の看板の、いかにも若者らしいフレンチのレストランがあった。
「すっごいおしゃれ! 早く行こ!」
そう言いながら私は、ちょっとだけ勇気を振り絞り――彼の手を引いて足を速めた。
彼は一瞬驚いていたが、すぐにぎゅっと手を握り返してくれたのはとても嬉しかった。
しかし、彼の歩みは突然止まった。
何事だろうかと私が首を傾げると、彼はたった今追い越した老婆をじっと見ていた。
「……ねえ、あのお婆さん、手を貸した方がよくないかな?」
横断歩道の真ん中で立ち止まった彼が私に囁く。
老婆は足腰が悪いのか、杖をついていて非常に歩みが遅い。
「……大丈夫だよきっと。ちゃんと歩けてるし。年寄り扱いするなーって怒られたら、嫌じゃない?」
「えっ? 怒る人なんているの? それは確かに嫌だな……」
「でしょー! あのペースなら信号変わる前に渡り切れそうだし、心配いらないよ」
「そうだね。行こうか」
そんな言葉を彼と交わし、私は前方へ向き直ろうとした。
そのときだった――
『あなたのその優しい気遣いを喜んでくれる人は必ずどこかにいると、私は思いますけどねえ』
何故だろう。先程カフェで相席していた男の言葉がふと脳裏に浮かんだ。
穏やかに励まそうとしてくれるようなその響きが、耳の中で木霊すように繰り返される。
一瞬立ち尽くしてしまっていたのか、私は彼が「雪乃?」と呼びかけてきた声で我に返った。
「……やっぱ、気が変わった」
「えっ?」
困惑する彼の手をそっと解くと、私は杖をついて歩く老婆に歩み寄り、声をかけた。
「手、どうぞ」
できるだけ優しく笑顔を作りながら、私は老婆に手を差し出した。
それを見て老婆は「あら」と目を丸くしていたが、すぐにニッコリ笑って私の手を取った。
「ありがとねえ、助かるよ。最近足腰が言うこと聞かなくって」
私が手を引いてあげると、老婆は少しだけ足取りが軽くなったように見えた。
すると老婆を挟んだ向かいに彼もやってきて、「じゃあ、反対側は僕が」と肩を支えていた。
しわくちゃな顔をさらにしわだらけにして「まあまあ」と嬉しそうな声を出す老婆を見ていると、なんだか自分の方まで心が温まるような気がした。
「本当にありがとねえ。長生きしてるといいこともあるもんだ」
三人で横断歩道を渡り終えると、老婆はまた改まって礼を述べた。
そのとき、お気をつけて、と言いかけた私の声が、耳を劈くような甲高い音でかき消された。
驚いて視線を向けると、周囲の車がクラクションを鳴らす中を突っ切ってくる一台の乗用車が。
銀色のボディの暴走車は、まったくスピードを緩めることなく横断歩道を――老婆の真後ろを通過し、その先の電柱に衝突して止まった。
悲鳴が飛び交った交差点が静まり返る。
やがて通行人たちがざわめき始めると、暴走車の運転席からドライバーが降りてきた。
覚束ない足元とほんのり赤らんだ顔を見る限り、飲酒運転だろうかとこの場にいる全員が思ったに違いない。
多少怪我はしているようだが、ドライバーの命に別状はなさそうで、運悪く巻き込まれた通行人もいないようだった。
「おおお、本当にありがとねえ……」
ただ呆然と立ち尽くしていた私の手を、老婆が強く握って再び礼を述べてきた。
「あなたたちが手を引いてくれなかったら、あたしは今の車に轢かれてたかもしれないねえ。老い先は短いけども、命拾いしたよ。本当にありがとねえ」
突然のことに気持ちの整理もついていなかった私は、老婆の言葉にまともな返事もできず、あははと不器用な笑いを溢していた。
どうやら近くに交番があったようで、事故現場に走って向かってくる警官の姿が見える。
飲酒運転のドライバーは地面に座りこんで、フロント部分がひしゃげてしまった愛車の姿を嘆いていた。
信じられない。
私、人の命を救ったんだ。
ただ何気なく、気まぐれに差し伸べただけの手。
この老婆の命を救おうなんて大それたことは、もちろん考えていなかった。
それでも、目の前の老婆が握り締めて離さない自分の手が、今だけはとても誇らしいように思えた。
「ラッキーでしたね。怪我もなくてよかったです。それじゃあ、お気をつけて!」
どこかからか救急車のサイレンが聞こえてくる。
現場には警官もいるし、凡人の私たちは退場しても問題ないだろう。
赤べこのように何度も頭を下げる老婆に微笑んだ私は、再び彼の手を握って、予約時間を少し過ぎてしまったレストランのドアを引いた。
◇◇◇◇◇
ちくり、と目が痛む。
その感覚を拭い去ろうとして目をこすり、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
すると、僅かに開いたカーテンの隙間から差し込んだ朝日が、ちょうど目元に当たっていることに気がついた。
充電コードに繋がったスマートフォンを手に取り、時刻を確認する。
目覚ましが鳴る10分前。なかなかにいいタイミングだ。
ベッドの上で思い切り身体を伸ばし、上半身を持ち上げる。
部屋の小さな円卓の上には、役目を終えたアロマキャンドルの燭台がちょこんと乗ったままになっていた。
そういえば、何か夢をみていたような気もするが、どんな夢だったかまるで覚えていない。
「ま、どうでもいいか」
私は独り言を呟いてベッドから立ち上がると、髪を整えるために洗面台へと足を運んだ。
◇◇◇◇◇
「ご利用ありがとうございました」
フロントに鍵を返しに行くと、昨日と同じ黒ハットの男が丁寧に挨拶をしてきた。
何がありがとうございました、なんだか。
妥当な料金だとか言って、紅茶とアロマくらいしかサービスされてないんだけど。
やっぱりぼったくりだったか、と胸の内でクレームをつけていると、ほんの少しだけ男のハットの下の顔が見えたような気がして、私は妙な違和感を覚えた。
「……あのう、私たち、以前どこかで会いました?」
恐る恐る私が尋ねると、男は黒いハットを深々と被り直し、首を傾げた。
「さて、どうでしょうか。お客様は、当ホテルのご利用は初めてであったと、私は記憶しておりますが」
「ですよね……何言ってんだろ、私。ごめんなさい、変なこと聞いてしまって」
「いいえ。それでは、お気をつけて」
相変わらず何を考えているのかわからない黒の男に背を向け、私はホテルの出口へ向かう。
するとそのとき、ポケットの中のスマートフォンが小刻みに震え始めた。
何だろうかと画面を確認すると、そこに表示された名前に胸が高鳴り、頬が熱を持つのを感じた。
「……もしもし、匠くん?」
『おはよう、雪乃。ごめんね、こんな朝早くに電話して』
「ううん、全然平気!」
電話をかけてきた相手は、私の恋人。
とても優しくて気遣いができる、私の大好きな人だ。
「今日はどうしたの?」
『うん、雪乃さ、来週には出張から帰ってくるんでしょ? またお店予約しておくから、二人で美味しいもの食べに行こうよ。ほら、今日は三ヶ月記念日だからさ!』
「本当!? やったー! 匠くんが選ぶお店って、絶対ハズレがないから信用できるんだよねー!」
私の彼は、二人の記念日をちゃんと覚えていてくれている。
更に言うなら、こうしてお祝いの電話までかけてきてくれる。
とても律儀で、まめで、私は彼のこういうところも大好きなのだ。
「――うん。それじゃあ来週ね。ばいばい!」
電話を切ると、私は小さくガッツポーズをした。
運悪くぼったくりホテルに泊まることになってしまったけれど、こうして朝から彼の声を聞くことができた私はもはや無敵だ。
「ようし、頑張るぞッ!」
両手をピシャリと叩いて気合を入れた私は、上がり過ぎなくらいに上がったモチベーションと共に、今日の取引先へと向かったのだった。
◇◇◇◇◇
電話で誰かと話したあと、意気揚々とホテルを後にする女性客が一人。
私はフロントに立ち尽くしたまま、彼女の背中を見つめて微笑んでおりました。
すると、彼女と入れ替わりで別の女性客が当ホテルへと足を踏み入れてきたではありませんか。
しかし、私のすることは何一つ変わりません。
やってきたお客様には、いつものようにお声掛けをするだけでございますから。
「ようこそ、Hotel Bedauernへ。貴方も何か、後悔していることがおありですか?」
お付き合いいただき、ありがとうございました!
これを読んで私の文章が気になっていただけましたら、「翡翠と琥珀」というメイン連載の方もぜひよろしくお願い致します!