一番奥に
パパには昔、ママじゃない好きな人がいて。ママのアクセサリーには、パパが知らないものがあり。お兄ちゃんの机には、渡せなかったラブレターが入ってる。
みんな、そうやって、一番奥に隠しているものがあり……。
それが何度も何度も心を揺らすのを、私はもう、知っている。
* * *
私の家は郊外にある。皆が大きな家だねと言う、お庭が広くて、白い家だ。庭には犬がいそうだけど、ママが苦手なので、飼っていない。小さな頃、犬に噛まれそうになったことがあったらしい。お兄ちゃんが猫アレルギーで、猫もいない。
その代わり、パパが乗る、白くて大きい車がある。タイヤも大きい。乗るのは一苦労だけど、中はクリーム色の革張りで、可愛い。パワフルですいすい進む。
パパとママ。中学一年生のお兄ちゃん。小学四年生の、私。
私たちは週末になると、その大きな車に乗って、買い物に出かける。ただ、春休み明けには中学二年生になるお兄ちゃんは、少し前から一緒に来なくなった。
部活、勉強、女の子。
お兄ちゃんはママに似て、運動が苦手だ。だけど頭はとても良い。パパと違って身長が低いけど、女の子のような顔をしている。小学生の頃から人気があった。眼鏡をかけていて、少し生意気そうな顔をしているけど、根は臆病だ。
今日もお兄ちゃんを抜きにして、私たちは車で、百貨店に出かけた。道中、ママとパパは私の知らないことを話す。仕事のことや、お友達のこと。
ママの左手首には今日、銀色のシルクで編まれたブレスレットは、着いてない。豪快なパパでは絶対に選ばないような、繊細なブレスレットだ。パパが休日、ゴルフに出かけるとき、ママは数時間、お友達とお茶に出かけるときがある。
そのとき、ママはそのブレスレットを着けていく。赤い車に乗って、出かけて行く。パパがお仕事や都合でお泊りのとき、夜遅く、リビングで一人でワインを呑みながら、そのブレスレットを着けて眺めたり、手でそっと触れたりしている。
色んな人が、ママのことを褒める。奇麗な人。しっかりしている人。優しい人。品のある人。でもお兄ちゃんは、最近、ママのことが嫌いみたいだ。
「退屈してない?」
そのママが振り返って、優しく微笑む。
「うん、大丈夫。何を買ってもらおうか、考えていたの」
私がきちんと返答をすると、パパが大笑いした。「いよぉし」とパパが車の速度を速め、ママは「もぉ」とパパの腕に触れた。
外の景色を眺めながら、私は仲直りできないでいる、あの子のことを考えた。とても仲良しだったのに、春休みに入る前、些細なことで喧嘩してしまった。同じ幼稚園だったけど、仲良くなったのは、小学生になってからだ。格好いい娘だった。
あっという間に、百貨店についた。パパもママもパパのお爺ちゃんもお婆ちゃんも、百貨店で沢山買い物をする。会員というものになっているらしい。専用の駐車場があって、そこは渋滞も混雑もない。ギラギラしている車が沢山ある。
エレベーターで昇ると、ホテルのラウンジのような場所に出る。百貨店のお兄さんもお姉さんも、私たちのことをよく知っている。ソファーに腰掛けると、直ぐにオレンジジュースを持ってきてくれる。お姉さんがママを褒める。お兄さんはパパに話しかける。パパにはコーヒー、ママには紅茶が少し遅れて、運ばれてくる。
私はオレンジジュースを飲みながら、周りをそっと伺った。あの子の家も、百貨店の会員だ。私たちの他に、もう二組の家族がいる。残念ながら、それは知らない家族だった。大好きなオレンジジュースなのに、なんだか、美味しくなかった。
それからいつものように、百貨店を回る。混雑していた。ママとパパはいつもの店で、服を買う。クリスタルのお店で、新作のグラスを四つ揃えた。昼食を挟み、パパはゴルフ用品を見て、ママは紅茶のお店で紅茶を買った。私はいつもの店でワンピースと白い靴と、あの子にも似合いそうな、お揃いの髪留めを買って貰った。
時間が経つのは早い。十一時頃に来て、あっという間に二時だ。私のものを買い揃えた後、ママがお兄ちゃんの服を買い忘れていて、「いけない」と言った。
パパは楽しそうに笑い、ママの荷物を預かる。お酒を見てくるから、七階のラウンジで待ち合わせようと言った。ママは頷き、私はどうするか尋ねてくる。私はパパについていくと言った。お酒のコーナーを見るのが、好きなのだ。
体の大きなパパは、人ごみの中でもへっちゃらみたいだ。沢山の荷物を抱えて、とても頼もしい。荷物を一つ持つと言ったけど、ありがとうと言って、ニッコリと断られてしまった。この重みが大事なんだと、冗談を言うように。瞳の奥で笑いながら、遠くのものを眺めるように、静かに笑っていた。
私とパパの方が、早かった。ラウンジのお姉さんとお兄さんが、荷物を直ぐに預かった。百貨店は、中心がぽっかりと空いている。下からでも、真ん中からでも、上からでも、ある程度は見渡せる。私はあの子を探そうと、手すりに近づく。
「なにか、探しものかな?」
お兄さんとの話を終えたパパが、私の隣に並んだ。目線の高さを合わせるように屈んで、大きな腕を手すりに乗せた。私はまた、前を向く。
「ねぇ、パパ」
「なんだい?」
「人って、こんなに沢山いるのねって言ったら、パパは笑う?」
返答は、直ぐになかった。やっぱりそれは変なことだったんだと思い、視線をパパに向ける。パパは眩しいものを見るように、目を細めていた。
「笑わないよ」
「本当に」
「僕も昔、まったく同じことを、思った時があったんだ」
「え……」
「ひょっとして、寂しいのかな?」
「なにが?」
「少し、様子がおかしかったから」
私は黙りこんだ。また、視線を百貨店の中央に戻した。
パパとママは、小学生の頃からの知り合いだったそうだ。ママはパパが昔からモテたことを、パパがいない場所で、可笑しそうに話すことがあった。パパもママがモテモテだったことを、ママのいない場所で、楽しそうに話すことがあった。
素敵ね。それで二人は、昔から相思相愛だったの?
だけど私がそう尋ねると、大人な二人は、それぞれに違った反応を見せた。パパは真面目な顔になって、あぁ、と。ママは苦笑して、そうね、と。
あの子のママが、昔、モデルをやっていたことを、私は知っている。
パパとあの子のママが知り合いなことも、ママとあの子のママが知り合いなことも。あの子とあの子のママがそっくりで、パパがあの子が家に遊びにくるたび、固まって、ぎこちなく笑い、お母さんは元気ですか、と尋ねることも、知っている。
「喧嘩を、してしまったの」
私は前を向いたまま、静かに言う。階下の騒々しさは、届かない。
「大切だったのに、喧嘩、してしまったの」
パパは一瞬、言葉を無くす。誰と喧嘩したのか、直ぐに分かったみたいだった。
「そうか」
「うん」
ポンと私の頭に、手を置く。私を顔を向ける。パパは微笑んで、手を動かした。
「じゃあ、謝らないとな」
「私が悪く、なくても?」
「向こうも自分が悪くないと、思っているかもしれないよ」
「そうじゃなかったら?」
「それでも、会いにいったり、電話したりすることは大切だよ」
「本当は、分かってるの。でもどうしてか、出来ないの。走って会いに行きたいのに。会って、謝りたいのに。それが、出来ないの」
パパはそれから手を離すと、少し、俯いた。
悲しそうに笑って、顔を上げる。
「分かるよ」
「分かるの?」
「僕は走りたかったときに、走れなかったから」
「足に、怪我をしていたの?」
「いいや、臆病だったんだ」
「パパが?」
「そうさ」
それは私にとって、意外な言葉だった。どんなことも、パパは笑ってこなせてしまえる人間だと、思ってた。昔も今も、変わらず、これからもそうだと。
「強そうにしている人ほど、本当は臆病なんだ」
「それでパパは、どうしたの? 歩いたの? 謝りにいったの?」
「なにも、出来なかった。その人が苦しんでいたのを知っていたのに、なにも、出来なかった。会えば決定的に、衝動的に、何かが動いてしまうことが、怖かった」
「それじゃ……」
「今もその人とは、仲直りというか、ちゃんと会って、話すことも出来ていない」
「それは……とても、悲しいことね」
「そうなんだ。だから、君には、そういう思いをして欲しくないから……ははっ、少し、話が大げさになってしまったね」
「ううん。そんなことない。とても、参考になったわ」
「そうか」
ふぅ、と、一息つくような、ゆったりとした時間がそれからやってきた。ママはまだ来ない。お兄ちゃんは家に、きっと、一人でいる。
「ねぇ、パパ?」
「なんだい?」
「ママのこと、大切にしてね。今よりもっと、もっともっとよ」
「……あぁ、頑張るよ」
「お兄ちゃん、格好つけてるけど、本当は、色んなことに敏感なの」
「知ってるよ」
「お仕事忙しいだろうけど、ママとお兄ちゃんのこと、見てあげてね」
「うん、忘れない」
「約束よ」
「約束だ」
それから二人で指切りをしていると、ママがやってきた。私とパパの様子を見て、微笑みをこぼす。あらあら、と。何があったの、と。
「何でもないわ」
「そうかしら? ふふ、それじゃ、何をパパと約束してたの?」
私はパパと顔を見合わせる。任せてと微笑み、ママに向き直った。
「お兄ちゃんの部屋には、ノックなしで入らないってこと」
それは、ママには明らかな嘘だって、分かってたと思う。だって、それからパパが大声で笑ってしまったんだもの。そしてママは「へ?」と声を漏らした後、「もう」と恥じらうように笑ってから、パパにつられて、楽しそうに笑っていた。
ラウンジのお姉さんとお兄さんにお礼を言って、百貨店から帰る。
結局、お兄ちゃんは一日中、部屋にいたみたいだ。ノックしないで部屋に入ると、何か書き物をしていたらしく、慌てて隠した。怒られたけど、気にしない。
私は自分の部屋に戻って着替える。買って貰ったお揃いの髪留めを手に取る。玄関で走りやすい靴を選び、大きな鏡で、服装や髪型をもう一度チェックした。
早く、夕方になる前に出かけなくちゃ。ママとパパには、車の中で外出のことは話していた。連絡してないけど、あの子の家に、行ってみよう。
「お送りしましょうか、お嬢さん?」
玄関から出ると、パパが車のキーを回しながら尋ねてくる。
「ううん、大丈夫。暗くなる前には戻るし、距離も遠くないから。なによりも、今、走りたい気分なの」
そう言うと、パパはキーを回すのを止めて、顔をほころばせた。
「そっか」
「うん、防犯グッズもあるし、平気よ」
「頼もしいお嬢さんだ」
「会えなかったり、また喧嘩しちゃったりしたら、慰めてくれる?」
「もちろん」
私は満面の笑みで微笑むと、家の敷地から出る。しばらくして、走り出した。
走っていると、胸がドキドキした。それは運動とは別に、私がドキドキしているからだ。あの子は家にいるだろうか。ちゃんと仲直りできるだろうか。この髪留め、気に入ってくれるかな。また、去年みたいに春休みも遊べるようになるかな。
仲直りしたら、あの子を家に呼ぼう。パパがいる時が良い。するとパパはまた、体を固くするから。そんなパパを、ママはこっそりと見ている。ねぇ、ママ、そんな複雑そうな顔、しないで。パパはママが、大好きだよ。もう、シルクのブレスレットなんて、しないで。お兄ちゃんは、ママに相談したいことがあるみたいだよ。
駆ける、駆ける。色んなことが、頭の中を駆け巡る。
パパには昔、ママじゃない好きな人がいて。ママのアクセサリーには、パパが知らないものがあり。お兄ちゃんの机には、渡せなかったラブレターが入ってる。
みんな、そうやって、一番奥に隠している物がある。
それが何度も何度も心を揺らすのを、私はもう、知っている。
走るのが得意なパパは、走れなかった時があって。ママだけが、パパを好きな時期があって。お兄ちゃんは好きな人を、嫌いと言って、傷つけたことがある。
パパとママ、お兄ちゃんの秘密を知っている私は、今、大切な友達のもとに、走っている。あなたのことが、大好きだよ、また仲良くしましょと言うために。
ごめんなさいと。全ていつか、伝えられなくなる前に。
どれだけ走ったのか。流石にもう、走れない。はぁはぁと息を吐く。苦しくて、下を向く。多分、半分までは来た。あと、もう半分。徐々に空は、夕日色に染まり始めていた。そんなとき、走ってくる音が。向こうからの、足音に気付く。
「あっ」
顔を上げると、あの子がいた。驚いていた。長い黒髪が綺麗な、涼しい顔をした、あの子が。大人みたいにいつも冷静なあの子が、息を、切らしている。
何も言えないで、二人で立ち尽くしていた。
どうして? どうしてあなたが、ここにいるの? あの子が何か言いかけたけど、引っ込めた。私を見ている。真剣な顔で。息を整えようとしながら。
おかしくて、笑ってしまったわ。
「あ……」
あの子が声をもらす。私は涙が出そうだった。そっか。辛いのは、一緒だったんだ。それで、なによ、そんなに必死になって。どうしたのよ? もう。
緊張が解けたみたいに、あの子が薄く笑った。もう、どうして笑うのよ、あなただって、必死に息を切らしてたじゃない。そう言いたげに、あの子は微笑した。
私たちは、揃って近づく。
私は髪留めが入った袋を、そっと掲げる。あの子は透明な袋にラッピングされた、クッキーみたいなものを持っている。私は笑い、あの子は微笑む。それは他の子には見せない、私だけが知る、特別な笑顔だ。眩しい程の……。そう……。
あの子の笑顔が、私の一番奥にあって。
それが心を何度も何度も揺らすのを、私はもう、知っている。