63:中学二年生の頃
その店は昔ながらの喫茶店と言う感じで、何もかもが古びていた。
壁のポスターなどすっかり色褪せ、文字が一部読めなくなっている。しかしそんな中、一枚だけ真新しいポスターが貼ってあった。
それは詩織が映っているjewelrybox3の宣伝ポスターである。もしかしてこの店は彼女の御用達なのだろうか。
他に客はいない。
マスターはいらっしゃいませ、も言わない。
座っていいんだろうか?
「あの……」
「どうぞお好きな席へ」
美咲と二人、並んで座った。焙煎コーヒーの芳しい香りが鼻をくすぐる。
「なぁ、義姉さん……なんていうかさ……」
「どうしたの?」
「智哉の様子、変じゃなかった?」
実は今日会った時からずっと、何か落ち着かない様子に見えた。
ちらちらと美咲の横顔を見つめては、溜め息をついていたり。
「そう言えば、義姉さんを一緒に連れてきたら? って、言いだしたの……智哉なんだよな」
「そうなの?」
「もしかして、何か義姉さんに話したいことがあったのかな……」
「智哉君が、私に? 何かしら」
そんな訳ないか、とも思い直す。彼と義姉にどんな接触があるというのだろう。
その時、
「周君、来てくれてありがとう!!」
カランカラン、とベルの音と共に樫原詩織が入ってきたのだった。
※※※※※※※※※
「これから仕事なんて、嘘でしょう?」
「……真実だよ」
車窓から流れる景色を見ていても、彼がどこに向かっているのか、智哉にはわからなかった。
「そう言えば、ご報告がまだでした」
「ずいぶん、他人行儀な言い方するんだね」
「……頼まれた件、一応僕なりに調査しましたけど、何も心配しなくていいと思います」
運転席の賢司がぴく、と反応する。
「和泉さんはとても優しい人です。確かにちょっと変わってるけど、賢司さんが思うような悪い人だとはとても思えません。周があれだけ懐くのも、当然だと思います」
「……」
「そんなに心配なら、自分の目で確かめてみたらいいじゃないですか。とにかく、僕はもう……妙な真似はしたくありません」
しばらく無言のまま、車は走る。
「今日……美咲さんに本当のことを話して、謝ろうと思っていました」
「どうして?」
「それが正しいことだと考えたからです」
沈黙が降りる。
「賢司さんには心から感謝しています。あの時、行き場を失くして、家の中に居場所もなくして……彷徨っていた僕を助けてくれて、何度もお世話になりました。だから、あなたに何か頼まれたらその通りにしてきました。でも、やっぱり……おかしいんじゃないかと思うことには協力できません」
今から4年前。
両親が離婚協議で揉めていた頃、家庭の中は滅茶苦茶だった。その当時、智哉は渋沢という姓だった。
夫婦喧嘩などと呼ぶにはあまりにも醜い、低俗な言い争いを目の前で繰り広げられて、とうとう我慢できなくなった智哉は家を飛び出した。
あてもなく流川の町を彷徨い、もしかしてこのまま妙な人に拾われて、いかがわしい店で働かされたとしても、それでいい。雨の降る夜だった。そんな時。
傘をさしかけ、声をかけてくれたのは藤江賢司だった。
その時のことは今でも覚えている。
彼は、嬉しそうに智哉を抱きしめてくれた。どうも誰かと人違いをしているような様子でもあったが、両親でさえ滅多に与えてくれなかった温もりに感動を覚え、そんなことはどうでもいいと思った。
それから彼はすぐに、自分のことを思い出してくれた。
幼かった頃、近所に住んでいた弟の友達だと。
その後、彼は自分のマンションに智哉を連れて行ってくれた。そこは彼が独身の頃から、職場に近いからという理由で借りていた仮住まいである。
智哉は彼に、家に帰りたくない事情を明かした。
すると賢司は、辛くなったらいつでも来ていいと言ってくれて、合い鍵までくれた。
それからというもの、両親が離婚に至るまで足しげくそこへ通った。
賢司は仕事で忙しい人なので、それほど顔を合わせることもなかったけれど。会えばいろいろな話を聞いてくれて、そんな時間がとても大切だった。
でもある日。賢司から結婚する、と聞かされた時、もうここに来ることもないだろうなと智哉は思った。寂しいけれど、いつまでも甘えていられない。
しかし驚いたことに、この仮住まいを引き払うつもりはないと彼は言った。
そもそも結婚は世間体を保つためのもの。うるさい祖父や親族を黙らせるための手段に過ぎない。
ここはこれからも僕の、君の部屋でもあるんだよ。
俄かには信じられなかったが、それは真実だった。




