52:シカに襲われる?!
それにしてもどこへ行くつもりだろう?
気がつけばかなり山口県寄りまで進んでいた。
友永は車をコインパーキングに停め、少し歩くぞ、と言った。彼の後ろを大人しくついていくと、フェリー乗り場に到着する。看板には『宮島口』の文字。
「宮島に……行くんですか?」
「いいだろ?」
宮島なんて小学校か中学校の遠足で行って以来だ。ちょうどフェリーが桟橋に到着しているところだった。
「ほら、足元気をつけろよ」
友永が手を差し出してくる。
「別に、平気ですから」智哉がそっぽを向くと、彼は苦笑した。
フェリーに乗ること約10分。海に浮かぶ朱色の大鳥居はよくテレビにも映るが、何度見ても美しい。
平日の午後4時過ぎと言う中途半端な時間のためか、それほど観光客の姿は見えない。どうして宮島なのだろう? 少し疑問だったが、口にはしなかった。
友永は迷いなくどこかへ歩いて行く。智哉は黙って後ろを付いていく。
フェリー乗り場から約25分。けっこうな距離を歩いて、ロープウエー乗り場に到着する。確か弥山だ。友永は二人分の切符を買って、一枚を智哉に手渡した。
ロープウエーに乗って終点の獅子岩駅に到着する。
やはり黙ったまま歩き進める友永の跡を追って歩くと、突然眼下に瀬戸の海と島々が広がる。
地平線の彼方に夕日が沈む瞬間。朱色に染まった海。
智哉は思わず息を呑んだ。
こんな素晴らしい景色を見たのはどれぐらい久しぶりだろう?涙が出そうになる。
この人は、わざわざこれを見せたくて、ここに連れて来てくれたのだろうか。
「……いいところだろ?」
不意に話しかけられ、智哉は慌てた。
「観光名所にもなるってもんだ。ほんとは、誰も来ない場所に行きたかったんだが……何しろ時間が時間だからな。あんまりのんびりしてらんねぇ。最終のロープウエーを逃したら徒歩で下山だ」
「僕は別にかまいません」
「俺がかまうんだよ。いくら上司が寛大だからって、限度がある」
この素晴らしい景色を見ることができる時間は僅かだろう。もう季節は秋だ。日暮れも早くなる。
「……帰りたくないな……」少しだけ智哉は悪戯心を起こした。友永がどんな反応をするか、見てみたいと思ったのだ。
「野宿か? やめとけ、お前みたいな細いのじゃすぐに風邪を引く。それとも、鹿に添い寝してもらいたいんなら止めないけどな」
ある程度は予想できた反応。智哉は友永の腕に縋りついてみた。
「家に……帰りたくないんです」
「わからなくもない」友永は言った。
「初めて会った時、お前のお袋さんに連絡したら……えらい剣幕で怒鳴られた。もっとも電話だったから、顔は見えなかったけどな。かなり口の立つ女だってことだけはよくわかった」
「……」
「つまり、それだけお前のこと心配してるってことだ。わかるな?」
「母は……僕を憎んでいると思います」
「なぜだ?」
「僕が、父に顔がよく似てるからです」
両親は憎み合って別れた。離婚の数か月前など家庭の中はひどい状況だった。まだ幼い絵里香など、両親が顔を合わせるとそれだけで怯えてしまい、智哉の部屋に逃げ込んできて、布団の中に潜り込んで出て来なかった。
「それでも、お前を引き取ってくれているだろう?」
「父が……嫌がったからです。他に女がいて、子供はごめんだと……」
「それで、家に帰りたくないのか?」
「当然でしょう?! 二言目にはお兄ちゃんなんだから妹の面倒を見て、あんたはお父さんそっくりでまともに家の手伝いもしない、そのくせ、まるで僕のことを自分の旦那みたいに思って、愚痴をこぼして……」
「とりあえず、続きは山を降りてからな」
なんとなくいいようにあしらわれているような気がして、智哉は不快感を覚えた。
「だったら僕、今夜はここにいます」
「お前な、広島太郎じゃねぇんだから。待合室のベンチでゴロ寝なんて、ロープウエー会社の従業員に迷惑だろうが」
広島太郎とは市内でも有名なホームレスである。
智哉は黙って友永に背を向け、黙ってロープウェイの駅とは反対方向に歩きだした。
街灯などはない。段々暗くなって足元が見えにくくなっている中で、無事に下りられるのか、少なからず不安だ。
数メートルほど進んだところで、茂みからガサガサと音が聞こえてきた。
心臓が高鳴りだす。鹿だろうか? 鹿なら草食動物だから襲われることはないだろう。
葉と葉の間から、暗闇に光る眼がこちらを睨んでいる。
野犬だったらどうしよう?
グルル……と喉の鳴る音が聞こえた……ような気がした。