2:後悔するなら反省しろ
あの夫婦の間に愛なんて存在しない。
周がそのことに気付いたのは割と早い段階からだったが、自分が口出しすることでもないだろうし、何かいろいろ事情がありそうで、だったらなおのこと傍観者を決め込もう。
以前はそう思っていた。
だけど今は、美咲という人物を深く知るようになるにつれ、このままでいい訳がないと周は思い始めていた。彼女が賢司ではなく、他に想う相手がいるとわかってしまった今はなお、どうにかして幸せになって欲しいと、心からそう思うようになった。
それに、二人が結婚した本当の事情を知ってしまった今は……。
だからなんとかしてやりたいと考えた。でも、現実は思うようにならない。
家に帰りドアを開けると猫達が出迎えてくれる。
しかしその日に限って美咲は玄関に出て来なかった。いつもなら猫達と一緒に玄関まで出て迎えてくれるのに。怪訝に思いながら周がリビングへ入ると、彼女は固定電話で通話している最中だった。
周が帰ってきたのにまったく気付かない様子で立ち尽くしている。
「……」
「……義姉さん? ただいま」
返事はない。
「どうかしたの?」
その時、美咲は初めて周がそこにいることに気付いたようだ。
「あ、周君……」
真っ青な顔をしている。何か悪い報せでもあったのだろうか。
「何かあった?」
すると彼女はくしゃっと表情を崩し、周の両肩にすがりつく。
「どうしよう、お母さんが……お母さんが……!!」
「女将さんがどうしたんだ?!」
彼女が『お母さん』と呼ぶ女性が、美咲にとっては伯母に当たる女性であり、女将の寒河江里美であることを周も承知している。その彼女に何があったというのだろう。
「しっかりしろ!」
周が美咲の肩を掴んで揺さぶると、彼女は弾かれたように顔を上げた。
「さっきいきなり倒れて、病院に運ばれたって……」
「どこの病院だ?! 俺も一緒についていくから、すぐ行こう!!」
タクシーを呼ぼう。今の義姉に運転はさせられない。
周はタクシー会社の番号をダイヤルした。
女将の里美が運ばれた先は安芸総合病院という、市内でも一番大きな病院である。すっかり混乱して取り乱している美咲に代わり、周が受付で問い合わせをし、ともすれば足をもつれさせそうになる義姉を引っ張るようにして病室へ辿りついた。
点滴を受けてベッドに横たわっている里美の顔色は紙のように白く、生気がない。
いつもはきっちりと結い上げている黒い髪はほどかれ、ところどころ白いものが混じっていることに気付く。
「お母さん……お母さん!!」
美咲はよろよろと里美に近づいて手を握った。眠っているのか反応はない。
周は通りかかった看護師を呼びとめ、運び込まれた経緯について聞いた。
仕事中に突然倒れて意識を失い、仲居の一人が救急車を呼んでくれたとのことだ。検査結果がまだ出ていないので詳しいことはわからないが、医師の見立てでは恐らく過労とストレスだろうという。
実際にはほんの一時間程度だったかもしれないが、検査結果が出るまでの時間はひどく長く感じられた。周は一応、賢司に連絡を入れておくことにした。美咲の伯母、つまり御柳亭の女将である里美が入院することになった、と伝えると案に相違して、兄は『なるべく女将の傍にいてあげるといい』と言ったのだ。
周が病室に戻ると、里美が目を覚ましていた。
「周君……来てくれてありがとう……」
弱々しい微笑みを浮かべて彼女は言った。
「あの、俺……途中で勝手にバイト辞めたりして……すみませんでした」
咄嗟に周の口から出たのはそんな言葉だった。実際、夏休み期間中いっぱいは旅館で働く契約だったのに、誤解の末、義姉に腹を立ててやめてしまったからだ。
「いいのよ、気にしないで」
美咲は里美の手を握ったまま、それでも少し落ち着きを取り戻したようだった。
「義姉さん、賢兄に連絡しといたよ。なるべく女将の傍にいてあげろってさ」
美咲はうん、とだけ返事をして黙ってしまう。
「ごめんなさいね……迷惑かけちゃって……」
二人は首を横に振った。
美咲が黙っているので、周が代わりに言った。
「女将さん、働き過ぎなんですよ。少し休んだ方がいいんじゃないかな」
そこへ医師と看護師がやってきた。
「ご気分はいかがですか?」
まだ若い男性の医師は里美の脈を取ったり、眼を覗き込んだりしてから、
「検査の結果が出ました」
ごく、と思わず喉が上下する。
「脳の異常や、内臓の異常は見当たりません。ただ、かなりの疲労が溜まっているようですね。強いストレスも。旅館の女将さんをしておられると聞きましたが、夏休み中は相当忙しかったんでしょうね」
「ええ……おかげさまで」
「休暇も兼ねて、2、3日入院してください。念の為もう一度検査をして、何も問題がないようならお仕事に復帰しても問題ありません」
「入院……ですか?」
里美はすぐにでも仕事に戻りたいような様子で呟いた。
「お母さん、お願いだから少し休んで」美咲は懇願するように言った。
「そうだよ。少しぐらい休まないと……」周も援護する。
ふぅ、と息をついて里美は目を閉じた。彼女の頭の中は今も旅館のことでいっぱいなのだろう。
ただ。ふと周は気になることがあった。
あの事件はそれほど大きく報道されなかったとはいえ、昨今のネット社会、少なからず殺人事件に関わったあの旅館についての噂話、いわゆる風評被害が広がらなかった訳がないのだ。
実際のところ、以前も美咲が事件に巻き込まれた時、おもしろがって彼女をわざわざ見に、遠いところから来た物好きが居るぐらいだ。
まさか女将が倒れた原因は忙しさというよりも、心ない中傷や嫌がらせだったりするのではないだろうか?
周は思わずそのことを口にしかけてやめた。