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新学期が始まって約一ヶ月が過ぎた。
周は欠伸をしながら校門をくぐった。教室に入るといつも通りにクラスメート達は雑談に花を咲かせている。あの事件はほんとうに起きたことなのか。
夢でも見ていたような気がしてならない。
生口島で起きた事件のことが報道されたのは、そう長い期間ではなかった。
ほとんど間を置かずに東京で大きな事件が起きたからだ。
地方新聞の一記者が殺害された事件に対する世間の関心は、あっという間に薄れてしまった。
幸いなことに新学期が始まった時、周に事件のことを聞いてくる者は誰もいなかった。
あれから和泉や彼の仲間達の刑事達とは、一切連絡を取っていない。
事件のことで話を聞きに来るのはもっぱら所轄の刑事達であり、捜査1課の彼らではない。
隣に住んでいるのだからその気になれば会えそうなものだが、うまくいかない。
和泉さんは元気だろうか……?
あの事件の時、なんか怪我してたけど……。
そうボンヤリと考えていた時。
「おはよう、周」智哉が声をかけてきた。
「おはよ」
10月に入ってもあまり気温が下がることはなく、まだ暑さが続いている。
もともと色の白い智哉だが、今年も日に焼けることなく、綺麗な肌をしている。
しかし、どういう理由か今朝は少し顔色が優れない。
「智哉、具合悪いのか?」
「え……?」
「なんか、顔色悪いぜ。保健室行くか?」
智哉は首を横に振る。
「なんでもないよ、心配してくれてありがとう」
じゃあ、とその場を離れようとする智哉に、
「シノ、今日は亀ん家だから遅れるなよ?」クラスメートの角田道久が声をかけた。
周は驚いて友人の顔を見た。
彼は気まずそうに向こうに顔を向け、うんとだけ答える。
角田と言えば父親が地方銀行の頭取で、自分はお坊っちゃまなのだと公言する少し頭の悪い子供だ。その傍らにはいつも、亀山と鶴岡という取り巻きがくっついている。
彼らはいつも、何をするにも一緒だ。
彼らはいつも夜遅くまでゲームセンターに入り浸り、誰かの家に集まっては、アルコールを飲んだり、アダルトビデオの鑑賞会をしているのを知っている。
そんな輩とあの智哉がどうして?
いつからそんなことに?
聞いてみたかったが、始業のチャイムが鳴り教師が入って来る。
一時的な気の迷いだろう。
今はもう少し様子を見るしかない。
智哉のことが心配ではあるが、周は他にも予定があったので、授業が終わると急いで学校を後にした。
路面電車に乗って駅前に出る。
彼が目指しているのは法律事務所だった。
どうにかして円満、かつ美咲にとって有利な方法で離婚できないだろうか。
いろいろ考えた末に周が出した結論だ。
そこで彼はネットで広島市内の法律事務所を探してみた。
善し悪しなどわかるはずもないので、とりあえず最初に検索に引っかかった『桃谷法律事務所』へ予約を入れた。
場所はすぐにわかった。一階はファストフード店、二階は学習塾、そして三階に目指す桃谷法律事務所はある。
狭い階段を登って三階に到着し、周はドアをノックした。
すぐに女性が出てきて開けてくれる。
「あの、予約した藤江ですけど……」
相手は一瞬戸惑ったようだ。
制服姿の学生がいったい何の用だろう? それでも作った笑顔でこちらへどうぞ、と中に案内される。
勧められたソファに腰掛けてから、優に30分は待たされた。
そしてやっとあらわれたのは、ネットで見た写真の弁護士ではなく、まだ司法試験に合格したばかりのように見える、若い男性だった。
「お待たせしました、ご用件を伺いましょう」
やってきたのがどう見ても……というか制服を着ているのだからすぐに学生とわかるのだが、思いがけない人物だったようで、相手も戸惑っている。
「離婚協議って、どれぐらい時間とお金がかかるんですか?」
周は単刀直入に切り出した。
「……まだ学生さんですよね?」若い男性は目を丸くした。
「俺じゃなくて、姉のことです」
「お姉さんに頼まれたんですか?」
「いや、そうじゃないけど、参考にしたくて」
すると男性は急に砕けた口調で話し出した。
「まぁ、ケースにもよるけど早くて2、3ヶ月かな。スムーズに行って20から30万ぐらい。必ずしも円満に解決できるわけじゃないし、長引くとそれだけ加算されるしね。着手金は戻って来ないよ。君、学生さんでしょ? そんなお金あるの?」
あるわけがない。周が黙っていると、
「じゃ、そういうことで。こっちも忙しいのでね」男性はさっさと行ってしまった。
ムカムカした気分で周も立ち上がり、カバンを手に事務所を出た。
それにしても弁護士費用がそんなにかかるとは知らなかった。
まだ学生で、養われている身分の自分では、たとえ死に物狂いでバイトをしても賄えないだろう。
夏休み中に少しだけ手伝った、旅館のバイト代ではとてもじゃないが間に合わない。
何か手っ取り早く、お金を稼ぐ方法はないだろうか……。
路面電車に揺られながら車窓の景色を眺めていると、ふと周の視線の先に中国地方最大の繁華街である、流川商店街の看板が見えた。
一瞬頭に浮かんだバカな考えを振り払うように、周は頭を振った。