14:バレたんなら仕方ない
これだけ大勢の人がいるのだ。
不審者がいれば誰かが身咎めるだろう。
まさか、こんな日に限って変質者があらわれる訳がない。
智哉は自分に都合のいい楽観的な予測を立て、それから家に帰ってからの母親の反応を考えて、だんだん居ても立ってもいられなくなってしまった。
ついに彼は財布から1万円札を取り出して亀山に手渡し、ボウリング場を走って出た。
さきほど絵里香を置いてきた場所に戻るが、彼女の姿はない。
心臓が停まるかと思った。
嫌な汗が背中を伝う。
もしかして善意の誰かが、迷子だと思って交番に届けてくれたりしていないだろうか?
最悪の予感と、根拠のない楽観がない交ぜになって、智哉は全速力でイベント会場近くの交番を探して駆け込んだ。
いた!!
絵里香の無事な姿を見て全身の力が抜けると同時に、彼女のすぐ傍にいた男性の姿を見て、また苦い気分が胸の中に広がった。
案の定厳しい眼で睨まれ、正論を並べられて、責められる。
智哉は絵里香を抱いて文字通りその場を逃げた。
「ごめんね、本当にごめん。もう2度とあんなことしないから……母さんには黙っててくれる?」
帰り道、智哉は何度も妹に言った。
初めは怒っているのか反応がなかったが、3度目ぐらいでようやく頷いてくれた。
家に戻ると母親はまだ帰宅していなかった。智哉は普段あまりしない夕食の支度にとりかかることにした。
とりあえずご飯を炊いておけば、あとは母親が何か惣菜でも買ってくるだろう。
父親がいた頃の母は料理の好きな専業主婦だったので、滅多にスーパーの惣菜など買って来なかった。何でも手作りにこだわり、スナック菓子や冷凍食品を嫌がった。
離婚して働きに出るようになってからは必然的に家事をする時間が減ってしまい、食卓に並ぶのは出来合いのおかずや冷凍食品になった。
家の中は雑然とするようになって、それでも智哉は仕方ないと思って、自分で何とかしようとは考えなかった。
しかし今日はご機嫌取りではないが、少し家の中の片付けもしようと、散らかった物を拾い集め、掃除機をかけた。
そうして午後7時を過ぎた頃、玄関のドアが開く音がした。
絵里香が走って玄関に出て行く。
母親の泰代は娘を抱きしめると、靴を脱いで中に上がり、テーブルの上にスーパーの袋を置いた。
「おかえり……」
智哉はなるべく目を合わせないようにして、買い物袋から中身を取り出す。
「……智哉、ちょっと」
怒っている。昼間のことがバレているのは明らかだった。
誰が母親に話したのだろう?
思い当たる人物は一人だけだ。
娘に居間でテレビを見ているよう言って、母は息子を彼の部屋に連れて行った。
パン! と弾ける音と、頬に強い衝撃。
「何やってんのよ、あんたは!!」
泰代は目に涙を浮かべて叫んだ。
「絵里香にもしものことがあったらどうするつもりだったの?!」
なんでそういう余計なことをするんだよ、あの刑事。
「……無事だったんだからいいじゃない」
「そういう問題じゃないでしょう?!」再び頬を叩かれる。「たまたま保護してくれたのが警察の人だったっていうだけで、もしこれが変質者だったら、今頃あの子がどうなってたか考えたことあるの?!」
「だから、すぐ迎えに行ったんだ……」
「ねぇ、智哉」
泰代は智哉の両肩を掴んで揺さぶった。
「あんた、いったいどういう友達と付き合ってるの? お母さん、この頃すっかり仕事が忙しくて、あんたのこと全然知らないままで、こんなことじゃいけないって……」
智哉は母親の手を振り払った。
「心配しなくていい。上手くやるから」
「上手くやるって……」
「放っておいてくれって言ってるんだ」
「智哉!!」
智哉は机の上に置いた財布と携帯電話を取り、部屋を出て行く。
追いかけてくる母親を振り切り、靴を履いて外に出た。
あの時と同じだ。
妹が生まれて間もなかったから4年前になる。
滅多に帰宅しない父親がたまに家に戻ってくると、途端に母親との言い争いが始まる。当時中学1年生だった智哉は、その遣り取りを耳にしたくなくて、ヘッドホンで大音量のロックを聞いたものだ。
智哉が幼かった頃はごく普通の家庭だったように思う。
いつから歯車が狂い始めたのか、妹が産まれた頃には、父と母の間には埋められないほど深い溝ができていた。
きっと別れるのだろう。それならそれで早く結論を出してくれ。
そんなある日のことだった。
学校からの帰り道、智哉はたまたま父親が運転する車とすれ違った。
助手席に女性が乗っていた。母親ではない知らない女性。
そういうことか……と納得すると共に、ひどく嫌悪感を覚えた。
ちょうどその日の夜、何を思ったか父親が早い時間に帰宅した。少なからず酔っていた父親は、何故かいきなり智哉の進路について語りだした。
お前も将来は医者になるんだろう? 医者はいいぞ、女に不自由しないからな。特にお前はお父さんそっくりで綺麗な顔をしてるから言うことなしだ。
そうだ、お前ももう中学生だろう? 流川にでも連れて行ってやろうか……。
母親が父親を平手で打ち、カッとなった父親も母親を殴り返した。
智哉は父親を殴りつけ、そうして口にしてしまった。
『お前なんか出て行け!』
今度は智哉が母親に叩かれた。そして彼は、そのまま家を飛び出した。
どこをどう走ったのか覚えていない。
気がつくと派手なネオンの灯る街中にいた。酔っぱらいが歌ったりわめいたりしながらフラフラ歩いていたり、派手な格好をした女性がティッシュを配っていたり。
怖くなって智哉は路地裏に隠れた。
ゴミ箱を漁っている野良猫達と一緒に、暗くてジメジメとした地面に座りこみ、膝を抱えた。
どれくらいそうしていただろうか。
『どうしたの、こんなところで何をしてるの?』
穏やかな優しい声。
頭上に人の気配を感じ、智哉はおそるおそる顔を上げた。
そして彼はしばらく驚愕に声が出なかった。
そこに立っていたのはよく知っている顔だったからだ。
何年も会っていなかったけれど、一目見てすぐにわかった。
智哉は黙っていた。と、いうより何を言っていいのかわからなかった。
すると。
『蓮……?!』
彼はいきなり、知らない名を呼んだ。
『生きていたんだね、死んだなんて嘘だったんだ……!!』
そして突然、抱きしめられる。
戸惑っていると、相手もおかしいと思ったようだ。
彼は手を離してゆっくりと、あらためてこちらの顔を見た。
『ああ、久しぶりだね……智哉君?』
覚えていてくれた。そのことが嬉しかった。
『こんなところに一人でいたら危ないよ、一緒においで』
差し出された手をつかんで、ふらふらと智哉は青年の後について行った。