130:そしてアイドルはうたう
その時だ。
ぱんっ、と襖の滑る音。
「そこまでだっ!!」
聞き覚えのある男性の声。
ドタドタ、複数の足音も聞こえた。
詩織は手を離し、智哉から離れる。
そして彼女は急ぎ智哉のカバンに近づいた。
止める間もなく彼女はそこからスマホを取り出すと、壁に向かってガンガンと叩きつける。止めようと手を伸ばしたのは先ほどの、目つきの悪い仲居さんだ。
「やめなさい!!」
小柄な仲居さんは、激しく暴れる詩織に振り回されている。
しかし、
「きゃあっ!!」
短い悲鳴が聞こえて、2人同時に畳の上へ倒れ込んだ。
智哉は畳の上に倒れたまま、しばらく咳き込んだ。
「午後19時48分、中原詩織、殺人未遂及び暴行の現行犯で逮捕する」
カチっ。
手錠がかかる音が少し離れた場所から聞こえた。
ほっとしたら力が抜けた。
※※※
「智哉、智哉っ?! しっかりしろ!!」
抱き起こしてくれる逞しい腕が誰かなんて、考えるまでもない。
「ごめんなさい……友永さん。スマホ……証拠になったはずなのに、あれじゃ……」
「バカ野郎っ!!」
耳元で怒鳴らないで欲しい。痛いから……。
「そんなもん、お前の命に比べたらなんぼのもんだって言うんだ?!」
「大人気ご当地アイドル、殺人未遂の容疑で逮捕……って、明日のスポーツ新聞の一面は決まりだね」
おかしそうに言ってこちらを見下ろしているのは、やはりというかなんというか……。
気がつけば見覚えのある顔が揃っていた。
「やだ、今のは……演技ですよ? 私、アイドルを卒業したら女優になりたくて」
仲居さんの格好をした……おそらく女性の刑事だろう……に肩をつかまれた状態で、それでも詩織はほつれた髪と乱れた服を手で直しながら、平静を装う。
すると和泉が笑って、
「いやぁ、やめておいた方がいいと思うよ? 素人の僕から見ても、下手な演技だったから……」
「あんたに何がわかるのよっ?!」
「ねぇ、智哉君。今の、本当に演技だった? それとも……本当に殺されると思った?」
彼は笑いを引っ込め、真剣な表情で訊ねてきた。
智哉は深く息を吸い込み、
「……本気で死ぬかと思いました。彼女、はっきり言いました。『死ね』って ……」
「嘘よ!!」
詩織はものすごい形相でこちらを睨みつける。
「適当なこと言うんじゃないわよ!! 許さない、あんた絶対に許さないんだから!!」
再び暴れ出す彼女を、女性刑事ともう一人、大柄な男性が抑え込む。
「やれやれ」和泉が肩を竦める。「『詳しいことは署の方で聞かせてもらおうか』なんていう、刑事ドラマあるある的な台詞を言うことになろうとはね……」
「下手な三文芝居だな」
「……聡さん、表現が古すぎますよ」
「でも、どうして……? 上手くまいたと思ったのに」
智哉は不思議に思って友永を見た。
すると彼はジロリ、とこちらを睨む。
「ダメだって言ったよな? 勝手なことをするなって……」
そうだった。今夜のことは彼に話してはあったものの、ダメだと言われていたのだ。
それでもじっとしていられなかった。
「……ごめんなさい……」
ぎゅっ、と圧迫感を覚えた。智哉の視界の端に、友永の耳と髪が見えた。
「……お前に、万が一のことがあったら……もう、ごめんだぞ。息子に先立たれるなんて二度と……」
抱きしめられた温もりを感じるなんて、何年ぶりだろう。
いや、実の父親だってこうしてくれたことがあっただろうか。
「……はい……」
「こんなこともあろうかと、こっちもそれなりに手を打っていたって言うだけの話だよ。……ね?」
「ジャマしてやるな」
「これで、周の無実は証明されますか?」
智哉は顔を上げた。
「ああ、何一つ曇りなく、な」
良かった。
たぶん今は、久しぶりに心から笑えている。