12:SはスパイのS
秋の清々しい快晴の中、大通りには樫原詩織を一目見ようと集まっているギャラリーで埋め尽くされている。
誰も彼も皆、携帯電話を高く持ち上げている。
中には警備に当たっている制服警官まで映している人もいた。
たかがご当地アイドル、されど、といったところか。
思った以上の人気ぶりに驚きを禁じ得ない。
しかし和泉はそれらを横目で見ながら、喧騒を抜けて大通りから外れた路地裏を歩く。
和泉にとって大切な情報源である奈々子と会うのはいつも、県警本部ビルのすぐ近くにある古びた喫茶店と決めている。
奈々子は既に来ていた。
今年の春に御柳亭へ正社員として入社した若い仲居である。彼女は和泉の姿を確認すると腰を浮かせた。
「日曜日に休めることもあるんですね」
和泉が言うと奈々子は苦笑して、
「……最近、暇なんですよ」
「やはり、事件の影響ですか?」
「ええ、おそらく。今じゃインターネットで情報がすっかり筒抜けですからね。古くからの常連さんとかリピーターの方はわりと来てくださるんですけど、外国人観光客が減ったのは痛いですね……」
そうですか……と和泉はマスターにコーヒーを注文した。
「えっと、頼まれていた件ですけど……あくまで噂レベルですけどね、でも古参の仲居さん達が言うんだから間違いないと思いますが……」
長い前置きを遮ることなく、和泉はじっと次を待つ。
「例の横領と脱税疑惑、美咲さんのお父さんのお兄さん……つまり社長ですね、社長が怪しいんじゃないかって話ですよ。ウチの社長、こっちの方がお盛んでして」
奈々子は声を潜め、小指を立てた。
「その当時、流川のホステスに相当入れこんでいたらしくて、飲み代も相当だけど、あれやこれやプレゼントしてて、もしかしたらそのホステスが次の女将になるかもしれないなんて噂もあったぐらいだそうです」
「……当時、今の女将さんは?」
「まだウチには来ていないらしいですね。社長ってバツイチなんですよ。前の奥さんは、社長の女癖の悪さに愛想を尽かして出て行ったそうです」
「だから、そのホステスが……?」
「ええ、そうです。実はそのホステス、一応女将代理みたいな感じで一時期ウチで働いたことがあるそうです。でも、まるで経営のことも旅館のこともわかっていなくて、おまけに派手好きで我がままで、なのにケチで……一時期給料の支払いが遅れたこともあったそうですよ」
コーヒーが運ばれてくる。
「従業員全員がストライキを起こして、さすがにそのホステスは追い出されましたよ。こんなことなら社長の弟さん……美咲さんのお父さんの方がいくらかマシだったんじゃないかって皆で言っていたそうです。もっとも、その人もリーダシップっていう意味では頼りない人だったみたいですよ。優柔不断で、決断力に欠けるって言うか」
和泉はブラックのままコーヒーを一口飲んだ。
「あとそれから、これは一番肝心なのかと思うんですが……美咲さんのお父さんて、こう言ったらなんですけど、とても帳簿を操作できる頭脳なんて持ち合わせていない人だったそうです。だから不正経理が発覚して、横領犯は誰だって話になった時、最後まで疑われなかったそうです」
「……証拠がないから誰が犯人だと断罪できない。だったら、今はもうこの世にない人に罪をなすりつければ皆が納得する。そういうことでしょうね」
そうみたいです、と奈々子は俯いた。
「美咲さん、本当に可哀想でした。何を言っても信じてもらえない上に、お母さんのことまで悪く言われて」
「お母さん……?」
「美咲さんのお母さんがお父さんを、つまり旦那さんを唆して横領をやらせたんじゃないかって。美咲さんのお母さんて才女だったらしいんですよね。まぁ、美咲さんを見てるとわかりますけど」
奈々子は紅茶を飲み干して息をついた。
和泉は手元のメニュー表を彼女に渡し、
「ケーキでも食べませんか?」
彼女と会う時、つまり情報をもらう時は必ず飲食代は和泉が持つことになっている。
「いいんですか? どうしようかな……」
奈々子はモンブランと紅茶のお代りを注文した。
「はぁ。でもウチの旅館、これからどうなるんでしょうね? 風評被害なんて言うのは、時間が経てば下火になるでしょうけど」
和泉はそれには答えず、今彼女から聞いたばかりの情報を頭の中で整理した。
彼女もまた、頭の悪い女性ではない。そうでなければ『情報屋』として雇おうなどとは考えない。
和泉が黙ってしまうと、それ以上話すことはせず、黙々とケーキを口に運んでいる。
食べ終えると、
「今回の情報はこれぐらいです」奈々子は立ち上がった。
「いつもありがとうございます」
和泉が営業用の笑顔を浮かべると、奈々子は微かに頬を染める。
彼女が店を出て行ってしばらくして、彼もまた立ち上がった。