11:一日しょちょー
その日、捜査1課の部屋は白けた空気に包まれていた。
毎年恒例の一日署長イベント。今年は我が地元の大人気ご当地アイドルである、樫原詩織が広島北署の一日署長に任命されている。
今日は大通りを封鎖して交通安全パレードが行われる。
他に振り込め詐欺防止や交通事故防止の標語を表彰するイベントや、管内を回って署員との交流、訓辞がある予定だ。
「なぁ、ネクタイ曲がってないか? 息、大丈夫か?」
「さっきも聞いたじゃありませんか。心配ないですって」
9月から捜査1課高岡班に移動してきた稲葉結衣巡査、通称うさこは、ややうんざりした顔で、コンビを組んでいる日下部博実巡査長に答えた。
「強いて言うならフリスクの食べ過ぎで、ミントのにおいがきついです」
えっ?! 日下部は慌てて手で口元を抑えた。
バカバカしい、と和泉彰彦警部補は胸の内で呟いた。口に出しても良かったが、今は無駄だろう。
ミーハーな日下部以外は全員、こんなことに予算使いやがって……と多少ならずおもしろくない。
班長である高岡聡介警部はいつもと変わらず、書類に目を通しては不備を指摘し、もともと無表情な駿河葵巡査部長は、今日も能面のような顔でひたすらこつこつ働いている。
女は三十路からだ、と公言して憚らない友永修吾巡査部長は、禁煙パイプをくわえて、溜まった仕事を片付けている。
「こんな日に、何か大事件が起きないかな」和泉は言った。
「やめろ、縁起でもない」と、日下部。
「たとえば樫原詩織の狂信的なファンが、無理心中を持ちかけて、衆人環境の中で発砲事件を起こすとかね……」
「彰彦、いい加減にしろ」
父親にたしなめられて和泉は「はーい」と返事をしたが、見えないように舌を出した。
そこへ「失礼します」と、若い女性の声が聞こえた。
「樫原が皆さんにご挨拶をしたいと申しておりますが、よろしいでしょうか?」
彼女は樫原詩織のマネージャーだという。
いかにも仕事のできる女性のようで、ビシッとビジネススーツに身を固め、髪をきっちりと結えている。
日下部が背筋をピーンっと伸ばして敬礼する。聡介は少し面倒くさそうに、
「もうすぐパレードの時間でしょう?」
「ええ、ですから急いでいるのです」
こっちが譲歩してやっているのだと言わんばかりの言い草に、別にこっちはそんなこと望んでいません、と和泉は答えてやろうかと思ったが、
「こんにちは!」と、別の女性の声がした。樫原詩織だ。
婦人警官の制服を身にまとったご当地アイドルは、きょろきょろとめずらしそうに辺りを見回している。
「わぁ、これが本物の捜査1課の部屋なんですね? あ……」
詩織はうさこを見つけると、にっこり微笑みかけて、彼女の手を取った。
「女性の刑事さんですね? 実は今度、女性刑事の役のオーディションを受けに東京へ行く予定なんです。少しでもリアリティを出したいので、現役の方にいろいろお話聞かせていただきたいなって思っていたんです」
「はぁ……」
「じ、自分はこいつの相方です! 何でも聞いてください」
「詩織、時間よ」マネージャーが容赦なく会見を打ち切り、詩織の手を引いて部屋を出て行った。
「残念でしたね、日下部さん」と、結衣は笑った。
「……いい匂いがした……」
アホらしい。和泉は出来あがった書類を聡介の元に持って行く。
その時、和泉の携帯電話が鳴った。彼は刑事部屋を出て行き通話ボタンを押す。
『あ、奈々子です。今よろしいですか?』
奈々子とは御柳亭で働く仲居である。和泉は何度か捜査でその旅館を訪ねた際に、情報源になってくれそうな彼女に声をかけて、連絡先を交換した。
『今からどこかでお会いできませんか?』
「……わかりました、ではいつもの場所でいいですか?」
『はい、わかりました。5分後ぐらいには到着します』
和泉は電話を切った。
それから彼は刑事部屋に戻ると、
「聡さん、少し出かけてきていいですか?」
聡介は書類から顔を上げると、いかにも心外だというように、
「お前も見たいのか? パレード」
「……そんな訳ないでしょう? ちょっと野暮用でして」
「そうか、わかった」
和泉は背広を羽織って外に出た。