118:胃薬をください
朝っぱらから和泉のおかげで胃が痛い。
会議室が何か騒がしいと思ったら、その中心にいたのはバカ息子だった。
おそるおそる近くにいた刑事に何があったのか訊ねると、案の定……和泉の方から玉島という所轄の刑事にケンカを売ったようだ。
始末書を書くのは和泉だが、上に事の経緯を説明したり、部下の管理能力がどうと文句を言われるのは自分である。
聡介は溜め息をつきながら、胃薬を飲み込んだ。
周が絡むとこれだから。
気持ちは痛いほどわかるが、少しはこっちの身にもなって欲しい。
と、いうことで。とりあえず拳骨で殴っておいた。
それから聡介が何度目かの溜め息をついた時に、背後を和泉が通りかかったのが、窓ガラスに映る姿で確認できた。
「おい、彰彦」
前を向いたまま聡介は呼びかけた。
ぎくり、と和泉は立ち止まったが
「聡さん、僕ちょっと出かけてきます」
などと言い出す。
「待てコラ」
聡介は和泉の襟首をつかんで引っ張った。
「そ、聡さん……ぐるじい……く、首がしま……」
毎度のこととはいえ、時々イラっとしてしまう。
何か目新しいことを掴んだのだろうか? 隠している訳ではなく、確信できるまでは口にしない、それが彼のポリシーだと知ってはいるが。
「昨日までの報告はどうした?」
「そ、そのうちに……」
「早くしろ、今すぐにだ」
「……それだったら、葵ちゃん達が戻ってきてから、班の皆を集めてディスカッションした方がいいと思うんですよ」
なるほど、確かに。
「それもそうだな。じゃあ、先に俺達が知った情報を教えてやるか。葵には先に話しておいたんだが……」
「なんで葵ちゃんにだけ?!」
「……誰かさんが、所轄の刑事とケンカしてる間にな?」
聡介はちらりとここ、宇品東署の刑事がいないことを確認してから、和泉の背中を押して外に出た。
昨夜、篠崎智哉が提供してくれた情報はかなり貴重であった。
所轄と共有したいところだが、そうなれば昨日みたいに、また例の刑事が勝手に暴走し始める危険性が高いと判断したのだ。
廊下の突き当たりに自動販売機があるのはどこの署でも同じのようで、近くに休憩できるスペースがある。
2人は眠気覚ましにコーヒーと紅茶を買って、小さな声で話し出した。
「……いとこ同士だったんですか、智哉君とあの樫原詩織は……」
「ああ、道理で似ているはずだ」
「それで、2人揃って猪又の金儲けのために利用されていたと」
そういうことだ、と答えると和泉は深い溜め息をついた。
「樫原詩織の方は『ママのためだから』……って、そう言っていたんですね?」
「ああ。お前が調べてくれって言っていた中原優香里の経歴に、自己破産したことが書いてあっただろう? 当時は借金で首が回らなくなっていたらしいな」
「まさか、智哉君にもモデルを強制したわけじゃないでしょうね?」
「そこはなんとも……わからない」
「もしそれが本当なら、とんでもないクズですね」
その口調には心底、侮蔑の感情が込められているように思えた。
和泉が自分の母親のことをとても大切に思っていることを、聡介はよく知っている。
彼が幼い頃に父親と死別してからずっと、苦労して女手一つで育ててくれたと、今も時々感謝を口にしているぐらいだ。
だから彼は知らないのだろう。
世の中にはおよそ『母親』を名乗る資格のない女が存在することを。
「……一口に母親と言っても……産んだだけで、育てない女もいるからな」
言ってから、しまった、と聡介は口を閉ざした。
何か問いたげな和泉の視線が、頬に突き刺さるように感じる。
話を逸らそう。
「それで角田って奴は、猪又の自宅でその写真を見つけた訳だ」
「例の、円城寺君とかいう子の妹に悪戯を仕掛けて欲しいと、依頼をしに行った時の話ですね……?」
「そうみたいだな。それにしても……」
理解できない。聡介は首を横に振りながら、
「樫原詩織の方はわかる。でも、なんで智哉君までが脅しの対象になるんだ?」
「両刀なのか、あるいはハーレムを作りたかったか」
和泉が欠伸をしながら答える。
時々、息子が何を言っているのか聡介にはわからないことがある。
「ま、無理に理解しなくたっていいと思いますよ?」
なんとなくムっとしたが、深く突っ込むと気分が悪くなりそうなので、それ以上追及するのはやめておこうと考えた。
再び、大きな欠伸。
和泉は眠そうに目を擦っている。
「周君はあの後……大丈夫だっただろうか?」
取調べの可視化が叫ばれ、人権が声高に主張されている今の時代であっても、古くからのやり方にこだわる刑事は一定数いる。
聡介はその時の様子を見てはいないが、相当、苛烈だったに違いない。
「……ちっとも大丈夫じゃありませんよ。あのロクでもないホシミズ刑事と、その上にあのクズ兄貴にひどく心を傷つけれられて……本当にかわいそうでした」
「え……?」
「だから僕、あの男にも文句を言いに行こうと思っていたところなんです」
「今、お前が話しているのは、賢司さんのことだな?」
「そうですよ」
「なぜだ? 何があったんだ。仮にも血を分けた弟だろう?」
すると和泉は冷たい目でこちらを見つめてきた。
「聡さんの常識は、藤江家では非常識なのかもしれません」
いずれにしろ、と彼は続ける。
「僕はあの男を許しません、絶対に」
そう言って和泉は空になった紙コップを握りつぶし、力いっぱい壁にそれを叩きつけた。すると微かに残っていた茶色の液体が、クリーム色の壁に小さなシミを作る。
「……掃除しておけよ?」