107:パンドラの箱?
『藤江家の籍に入っている』
兄のその台詞は周にとって、ただ反発を覚えさせるだけのものだった。
それがどうした?
「……俺は、父さんの子だ……」
「それが何だって言うんだい?」
「戸籍のことなんて、俺の知ったことじゃない!!」
さすがの兄も運転中は手を出してこなかった。
「……君は何か勘違いをしているようだけど」
「何がだよ?!」
「友達の為に、イジメを受けていた生徒を庇って相手を殴ったなんて、一見すれば英雄みたいに思えるかもしれないけどね……そういうのは先に手を出した方が負けなんだよ?」
「……」
「それに、問題は当事者同士だけじゃ済まない。向こうにだって親がいる。下手をすれば訴訟沙汰だ。君が後先をよく考えないで、感情だけで行動した結果がこれだろう。それとも何か、自分には無限の力があるとでも思っているの? それとも、警察に仲のいい人がいるから、そこに安心感を持っていたとでも?」
「そんな、こと……」
まったくなかったとは言い切れない。
「君の考える【正義】が、必ずしも真実に正しいことではないんだよ?」
そんなことはわかっている。
周は膝の上で拳をぎゅっと握った。
「父が生きていたら……なんて言っただろうね? よくやったって、そんなふうに言うと思う?」
わからない。
でも決して、そんなことは言わないはずだ。
そして兄のような言い方は絶対にしない。
「君は父の子供かもしれないが、君を産んだ母親の血を引いてもいるんだよね」
周は視線だけで兄の横顔を見上げた。
「……何が言いたいんだよ?」
「君のお母さんはいったいどういう血筋なんだろう。案外、知性がなくて野蛮な家系なのかもしれない
ね。何しろ、他人のものを盗るような女だから」
自宅マンションの駐車場に到着すると、周は急いでシートベルトを外し、慌てて車を降りた。エントランスに人影が見える。
「周君!!」
薄暗い中だったが、こちらに気づいた美咲が真っ青な顔でこちらに駆け寄ってくる。
「大丈夫? ひどいことされてない?!」
「……先に戻っていてくれないか、周に話があるんだ」
追いかけてきた兄に対し、
「嫌よ!!」
姉は即座に返答した。
周は驚いた。彼女が夫に逆らうなんて。
そうして彼女はぎゅっ、と義弟の肩を両腕で抱き寄せる。
「私の大切な弟なのよ?! 誰にも傷付けさせるもんですか!!」
再び、驚いてしまう。義理なのにそこまで言ってくれるなんて。
「美咲……」
「……殴りたいなら、私を殴ればいいじゃない。何もかも全部、自分の思い通りになると思ったら間違いよ!!」
何か言いかけた賢司を遮るように、携帯電話の着信音が鳴り響く。
「もしもし、ああ、わかった……」
応答した兄は車の方へと引き返す。
「周君、中に戻りましょう?」
背中を押され、周も頷く。
5階までのエレベーターの中は2人とも無言だった。
玄関を開けて靴を脱ぐと、一気に脱力してしまい、床の上に座りこんでしまう。
「ねぇ、いったい何があったの……? コンビニに行くって、随分時間が経過したからすごく心配してたのよ。携帯はつながらないし。そうしたら、高岡さんから連絡があって……」
床の上に座りこむ周の向かいで、自身はまだサンダルを履いたままの美咲がしゃがみこんで問いかけてくる。
「……俺、もうわかんないよ……」
「え?」
「どうしたらいいのか、どうすれば良かったのか……もぅ、わからないんだ……」
今の周が感じているのはただただ強い不安と、向けられた怒りと憎しみ。
先ほど賢司(兄)が自分を見る目は幼い頃、自分を激しく憎み、手でも口でも攻撃してきた賢司の母親にそっくりだった。
まるでゴミでも見るかのような、蔑んだようなあの目。
そして円城寺から聞いた話。
兄は自分を警察に売るような真似をした。
もしかして彼は自分のことを……?
ぐるぐる。
突然、目が回りだした。
『お前がやったんだろう?! そうに違いない!! 早く認めろ!!』
初めからこちらを犯人扱いしたあの刑事の顔が脳裏にちらつく。
それから頭の中で次々と、幼い頃、継母に言われた数々の暴言が甦って来る。
『お前なんか死ねばいい』
『生きている価値もない』
『汚らしい、醜い泥棒の子供』
日頃は記憶の奥底にしまい込んでいた暗い思い出。
それらが一斉に溢れだし、襲いかかってきた。
そう、まるで開けてはいけないパンドラの箱を開けてしまい、中から魔物達が一斉に飛びだしてきたかのように……。