二駅目:金木犀の駅
『とある作曲家の話。』
著:山吹 ヨミ
彼の職業は、知る人ぞ知る有名な作曲家だった。
さほど広くは無い街だったが、彼―――石竹の生み出す曲は多くの人間に愛されていたのだ。
彼の作曲、それは非常に繊細かつ独自のものだ。
「私の鼻は、少し変わっているんだ。
匂いを嗅ぐと、その匂いはそのまま曲として聞こえるのさ。」
まだ売れ始めたばかりの頃、石竹はそう新聞記者に語った。
けれども、それは決して良い事ばかりではなかった。
早朝のゴミ捨て場を横切った時には、それはもう悲惨な曲が脳内をよぎる。
吐き気と共に雑音が入り乱れてめまいがし、さわやかな朝は吹っ飛んでいくばかりだ。
またある時には風邪をひいて鼻が詰まってしまい、作曲どころではなかった。
花粉症でなくてつくづく良かった、と風邪が治る度に胸を撫で下ろす。
それでも彼の力は偉大だ。
愛する人から貰った花束の匂い。
夕暮れの中で出迎えてくれる夕食の匂い。
昼下がりに漂う淹れたてのコーヒーの匂い。
雨上がりの木々や大地の匂い。
日常のささやかな幸せや忘れかけていた思い出を、彼を通して思い出させてくれる、と皆が口を揃えて評価していた。
そんな彼にとある事件が起こってしまった。
彼と彼の曲を愛する誰もが手に汗を握り、行く末を見届けようとしていた。
「聞いてくれるかい。
今日町を歩いていたら、とても素敵なメロディが聞こえてきたんだ。
恐らくそれは、私とすれ違った人物の香りだったのだろう。
しかし、私はもうその曲の事しか考えられなくなってしまった。
この人を探し出すまでは、他の曲など到底作れはしない。」
そう新聞記者に断言する。
その宣言は嘘ではなかった。
彼は本当に作曲の手をピタリと止めてしまった。
名のある作曲家の突然のスランプ。
事件など起きない小さな街で、その話は風のように広まっていったのだった。
"石竹氏の鼻にとまるチョウを探しています"
などと面白おかしく取り上げられたそのニュースを聞き、彼の元を訪れる人々が列をなすようになった。
これはすぐに意中の人物が見つけられるかもしれない、と石竹の心は高らかに鼓動を鳴らす。
しかし、現実は決して笑えない。
石竹にとっては恋とも呼べる感情であり、もちろん目当ての人物も女性だろうと決め付けていた。
しかし、それは大きな間違いだった。
自宅付近に列を成す老若男女様々な人々を見て、そう確信した。
自分の目当ての人物は、男である可能性があった。
それだけではない。老婆も、年端も行かぬ少年も、下手をすると散歩中の犬だってありえるのだ。
何故そんなことに今まで気がつかなかったのだろう。
「考えてもいなかった。こんなにも焦がれているあの香りの持ち主が、もしも男性だとしたら…。」
だが、周りの人物達はお構いなく話を進める。
石竹に目隠し(性別による先入観を無くすことと、嗅覚に集中させる為だろう)をさせ、1人ずつ匂いを嗅がせていった。
まだ希望は捨てきれない。
彼も彼とて、必死になってあの時の曲を探す。
全てはあの一目惚れ、もとい一鼻惚れの為に。
石竹があの日のメロディと再会出来たのは、夕日が西に逃げ始めた頃だった。
「あなただ!あなたの持つ香りこそ、私が探し求めていた曲の正体だ…!!」
期待と不安が入り混じり、震える手で目隠しを外す。
目の前に立っていたのは、自分の父親とあまり年の変わらない男性であった。
希望から絶望、石竹の顔がだんだんと青ざめていった。
しかし、男は可笑しそうに石竹を見つめていた。それどころか今にも腹を抱えて笑い出しそうだ。
「いや、実に済まなかった。ただ、騙されたと思って一度我が家に来てくれないか?」
そう言って、引きずるようにして石竹を家へと招待する。
男の家は街外れにある森の近くにあった。
「ただいま。ところで、練はどこだい?あの子に会いたそうな男を連れて来たよ。」
「まあ、それなら庭じゃないかしら?」
「おお、それは丁度いい!」
そのまま手を引き、男は石竹を自らの家の裏へと連れて行った。
するとどうだろうか。
裏庭へと案内されていくうちに、男から漂うメロディがより一層色めいていくようだった。
「石竹、君の聞いた曲の正体はコレじゃないかね?」
そう言って男が指差したのは、見事に満開になっている金木犀の木だった。
その木の下には、石竹よりも2、3歳ばかり下と思われる愛らしい少女の寝顔があった。
―――後に石竹は自分の子どもにこう語る。
「父さんは、危うく君のお爺ちゃんと一生を共にするところだったよ。君のママがあの木の下に居なかったら、君もこの世には居なかっただろうね。」
***
「…こんな感じのお話、どうですか?」
先ほど通過した駅から香る金木犀の匂いに、ヨミの筆がのる。
満開の金木犀からあふれる香りが、今も車内に満ちている気がした。
「こんな作曲家が居たら楽しそうだ。ぜひ彼の曲を聴いてみたいよ。」
「ハジメさんはどんな音楽を聞くんですか?」
「んー…クラシックとかが多いかも。あんまり好きじゃないけどね。ヨミちゃんは?」
「私は、あんまり聞かないほうです。家が厳しくてTVもCDもあまり許してもらえなかったから…。」
いつも勉強のことしか言われてなかったのを思い出し、気分が滅入る。
その空気がハジメにも伝わってしまったらしく、あわててまくし立てた。
「あっあまり人の家族を悪く言いたくないけど、その…。いい家とは、少し言いにくいね。
いやっ、君のご家族だもの、良い人だよ!?でも僕とはすこし価値観が違うというか…。」
まるで悪さをした幼子のように、拙く弁解しようとするのが、ヨミには少し可愛く見えてしまう。
「気にしてないです。ハジメさんやっぱり優しいですね、あんな人たちのこと庇わなくて良いんですよ。」
「…上手く言えなくて、ごめんよ。」
あの最寄り駅の後、ハジメは色々な事をヨミに話してくれた。
彼が電車に乗っていたのは、遠くにいる両親に会いに行くため。
母親が読書好きだった事が影響し、話を見るのが好きになったという。
「クラシックも母さんの趣味なんだ。インドアな人だから部屋で出来ることばっかりしてる。」
そういう彼の眼差しは非常に優しい。
(うらやましいな…。)
彼を見つめる両親の瞳もこうなのだろうと考えると、胸が締め付けられるようだ。
「そういえば、母さんの趣味が影響して僕も絵を描くんだ。あまり上手いとはいえないけど、いつか君のお話に挿絵を描かせてくれないか?」
「えっ、見たいです。ぜひお願いします!」
思いがけない提案にヨミの心が躍る。
「あまり期待はしないでくれよ。素人の腕なんてたかが知れている。」
「私だって素人だもん。それでもハジメさんは喜んでくれたでしょ?」
ポカン、とハジメが顔を緩めた。
そして、少しずつ楽しそうに頬が上がっていく。
「…物書きっていうのは、こんなにも説得力があるんだね。
そうだね。僕は、世界を見て表現するために旅をしてみようかな。」
うんうん、とハジメはひとりで頷く。
何やら置いていかれているようで、ヨミは頭がついて来ない。
ニコニコと出来上がったばかりの小説に齧り付くように読むハジメを見て、ふと思う。
「その小説がこの家出の第一作目なんだけど、もし良かったら挿絵を描いてもらえませんか?」
差し出がましいかも、とヨミはおそるおそる聞く。
予想に反してハジメの顔はイキイキと誇らしげだった。
「光栄だよ!君の第一作目に、僕自身の第一作目を載せてもらえるなんて!」
早速描くから!!と頭上の棚から小柄なキャリーケースを降ろす。
中から取り出したのはスケッチブックと色鉛筆だった。
「これからも、どんどん描くから。ヨミちゃんもたくさんお話を作ってほしいな。」
そう、やさしくヨミに微笑みかける。
どうしようもなく、ヨミはハジメの為だけの物語が書きたくなった。
「ハジメさんは、どんな小説が好きなんですか?」
うつむきながら問いかける。
降ってくるハジメの声は、どこか堅かった。
「…笑わない?」
「笑いませんよ、私も何でも読みますし。」
「…怒らない?」
「えっ、怒りそうな本なんですか?」
少し考えた後、ハジメは重い口を開いた。
「…絵本とか、童話が1番好き。」
「…。」
「…。」
「…どうせ、私の書く小説は子どもっぽいですよ。」
「怒らないって言ったじゃん!!ゴメンってばー!!!」
「怒らないとは言いませんでしたし、別に怒ってもないですー!」
「ヨミちゃん顔が怖いよー!!」
初対面とは感じられないほど、お互いが良い距離感でふざけ合った。
そのやりとりで、自分の紅をさした頬はきっと誤魔化せていたと思う。
***
ふと、ヨミに小さな違和感が生じる。
「あれ…?」
今は確か3月のはずだ。
なぜ、金木犀が満開なのだろう。
『次は、野原のみえる駅。野原の見える駅です。』