一駅目:最寄駅
少しずつ受験生という肩書きが迫っている
中学二年生の終業式の日。
何もかもが嫌になって、
私は飛び出したのだ。
***
ガタンゴトン。
ガタンゴトン。
ぼんやりと外を眺めると、流れるように景色が変わる。
心の中のわだかまりも、少しずつ一緒に流してくれるようだった。
胸の中にあるのは、ささくれだった苛立ちと解放感。
(…もう、あんな人達なんて知らない。私は、新しい場所で独りで生きてやる。)
きっかけは、一昨日言われた言葉だった。
正確に言えば今まで積もっていた鬱憤が一昨日の言葉でついに爆発した。
山吹家の食卓ほとんど母とヨミの二人きりで、まるで餌を与えられているように淡々としていた。
父親は家にはあまり帰ってこない。
家庭より仕事を優先している冷徹人間だ、とヨミは評価している。
だからその日もいつもと変わらずただの静かな食卓になると思っていた。
思っていたのに。
「ヨミ、あなた今年の春休みは塾の強化合宿に行きなさい。もう申し込んであるから。」
「・・・え?」
母の冷たい声が身体に浸透し、内側からヒヤリと凍てつかせる。
「待ってよ、私、そんなの聞いてないよ?」
「お父さんと話し合ってもう決めたことだから。あなた新学期から受験生なのよ?
立派な大人になるために今が大事な時期なの。
もう中学生なんだから分かるわよね?」
「だからって、そんな勝手に・・・!」
この人は。
いや、この人達はいつもこうだった。
『私』と言う人間を、外側から好き勝手に組み立てていく。
知りもせず。
認めようともせず。
受け入れようともせず。
「まさかあなた、あんなくだらない物の為に人生を潰す気?」
その言葉が、ブツリと自分の良心の糸を切った。
その日から二日後の現在、私は『家出少女』として電車に乗っている。
***
(大人は誰も分かってくれない。親も、先生も。)
心の中で毒づきながら、膝に置いたリュックサックを握りしめる。
これだけが自分の唯一の同行者だ。
中には教科書や参考書は一切入っていない。
入っているのは全財産の入った財布、身支度用のポーチと簡単な衣類、食料品、その他諸々。
そして、1番大切な物。
非道な人間に『くだらない』と言われた私自身ともいえる物。
が。
「…あれ!?」
どこにも無かった。
***
背中にジットリと嫌な汗が流れるのが分かる。
(まさか鞄を開けっ放しにしていたなんて…!)
もしも駅の中で落としていたら。
しかし電車は走り出してからずいぶんと時間がたっており、景色も全く見慣れないものに変わっていた。万が一駅に忘れてきたとしたら、引き返している時間はヨミには無い。
どうか、この車両内に落ちていますように。
そう祈りながら、ヨミはひとつずつ車両間のドアをくぐっていった。
(どうしよう、ここにも無い…。何で、やだ、どうしたら…!)
車両を移るたびに焦りが生じる。なんだか泣きたくなってきた。
誰かに拾われた事も考え、通路を挟んでズラリと並んでいるボックス席にも視線をやる。
平日だからだろうか、乗客は少なく車内は閑散としている。
足腰の悪そうな老人やサラリーマンを思わせる中年男性、母親と思わしき若い女性など乗客は様々だ。
ヨミのように若い人はどちらかと言うと少ないように見える。
車両のひとつひとつを丁寧に見ていくが、何処にも目当ての物が姿を現さない。
車両は残りあとひとつ。
きっとここにある、大丈夫だ。
ヨミはそう自分を奮い立たせ、電車の最後尾に足を踏み入れた。
車両間を繋ぐ自動ドアをくぐると、何回も通ったボックス席が同じように並んでいる。
乗客は1人だけ。
それも、ヨミより少し歳上そうな若い男性だった。
何かを手にし、一心不乱に覗き込んでいる。
いや、手帳のようなものを読み耽っているようだ。
とても見覚えのある、男にはあまり似合わないファンシーな表紙。
それは、もしかして。
「―――ちょっと、お兄さん!!?それっ…!!」
声が裏返るのもお構いなしに、ヨミは男に詰め寄る。
男が読んでいたのは、どう見ても自分が探し求めていた、何よりも大切な物。
自作の小説が書かれている小さめのリングノートだった。
考えるまもなく、とっさに広げられたノートをすばやく両手で多い男が目を通すのを遮った。
(あったけど!外に落としてなくて良かったけどぉ…!!)
自分の稚拙な小説を全くの他人に読まれるなど恥ずかしすぎる。
こんな物、黒歴史もいいところだ。
急に自分の視界を遮られたことに驚いたのだろう、男がビクリと肩を揺らし、顔を上げた。
少しだけ目尻の垂れた、チョコレート色の瞳。
男の瞳が自分を捉えて離さない。
「…これ、君が書いたお話?」
「…まあ、一応は…?」
ボンヤリとまどろむ様な男の目が、だんだんと煌めきを纏っていく。
そしてノートを自分の方に差し出してきた。
(あ、ノート返してくれるんだ、よかった…。)
と、思ったのだが。
「ファンです。」
予想に反し、男はヨミの両手を固く握り締めてきた。
***
男、――若苗ハジメの言い分はこうだ。
「僕もさっきこの電車に乗ったんだけど、乗車口近くにこのノートが落ちていたんだ。
車掌さんに届けるつもりだったんだけど、運転席遠いから行くの面倒臭くて、どうせ切符見にくるだろうからその時でいいかなって。
大事な物だったらまずいし少しだけ中を見たんだけど、面白くて止まらなくなっちゃった。」
ゴメンね、勝手に見ちゃって。
ハジメは眉毛をへにょりと下げて、向かいに座るヨミを見る。
初対面の、それも歳上の異性に小説を読まれた。
羞恥心が自分の中にグルグルと渦巻き、顔のほてりがなかなか冷めない。
(すごく恥ずかしい。恥ずかしい、けど…。)
自分の小説を手放しに褒められることがこんなにも嬉しい事だとは知らなかった。
「私、そんな風に自分の話を褒めてもらうの初めて。人にお話を読んでもらうのも…。」
「じゃあ僕が読者第1号ってこと?」
「…そう、なりますね。」
「それはすっごく名誉な事だね!けれど、初対面の男が初読者なんて、このお話に申し訳ないことをした。」
ごめん、とションボリと頭を下げる。
「確かに恥ずかしかったけど、別に嫌では無かったですよ…?」
「本当!?」
はにかんで見せる男の顔が、言動とあいまって幼く見えた。
失せ物が見つかったことへの安心感とハプニングに思考力が下がっていたが、ふと我に返る。
もしやナンパや不埒な行為をする目的だったらどうしようか。
そんな心配も頭をよぎったが、目の前の男は瞳を輝かせたまま未だなおヨミの小説を絶賛している。
むしろ男の目には自分の作った作品しか映っていないレベルだ。
「あの、あんまり褒めないで。慣れないんです…。」
「でも、まだ言い足りない。それに話の意図とか、考察とかも色々聞きたいんだけど…。」
「せめてもう少し待って下さい!嬉しいけど、それ以上に恥ずかしい!」
そう言ってなかなか閉じないハジメの口を、半ば無理矢理閉じさせる。
閉じたのはいいが、まだ物足りない様子ではある。
それにしても。
初対面だというのに、こんなにも遠慮の知らない物言いが出来る自分に少し驚く。
親にろくに意見できない自分だとは思えなかった。
ハジメの年上らしさを感じさせない雰囲気がヨミをそうさせているのかもしれない。
「ところで、どうして君みたいな若い女の子が1人なの?お連れの人は居ないの?」
ハジメのもっともな質問がヨミをつく。
先ほどまでのぶっ飛んだ男からの至極常識的な言葉に、ヨミのノドが詰まる。
「…私家出したの。だから、私1人。」
「え…。」
男にとっては見当もつかない答えだったらしい。
先ほどまでの興奮冷めやらぬ顔から、みるみるうちに表情が抜け落ちていく。
初対面の人間にそんな表情をさせてしまったことが、少しだけヨミの心に罪悪感を募らせる。
「…あなたが凄く褒めてくれた小説を、親も先生も馬鹿にして取り合ってくれなかったから。」
それこそ、叩き潰す勢いで否定された。
(小説家なんかで飯が食えるわけないだろう。)
(夢みたいな事ばかり言わないで、そろそろ大人になって頂戴?)
(小説は趣味じゃ駄目なのか?今は大事な時期だし、もうワンランク上の学校を目指した方が…。)
無遠慮に自分を掻き乱す声が蘇る。
先ほどまで抱えていた憎悪に近い気持ちが思い起こされ、目元が熱くなっていく。
知りもせず。
認めようともせず。
受け入れようともせず。
どうして自分はそんな事ばかり言われなければならないのだろう。
「…そんなのおかしいよ。」
ポツリ、と真面目な声が響く。
「え…?」
「君の人生を、どうして君のご両親や先生はとやかく言えるんだろうね。僕は君の小説の為に、生まれて来ても良いかもしれないと思えたよ?」
真剣な顔でハジメは言う。
「こんな風に思えたのは、君の生んだ物語があったからだ。これは嘘じゃない。」
あの日の母の言葉のように、凍っていた自分の内側にハジメの言葉が浸透する。
ぬくもりのあるその言葉が自らを溶かしてくれた気持ちだ。
ヨミの生んだ物語は、ハジメという読者のお陰でようやく報われたのだ。
あのさ、とハジメは続ける。
「君の家出に付き合わせてもらえないかな?」
「へっ?本気ですか!?」
「言っただろ?僕は君の小説のファンになった!だから、どんな対価を支払ってでも君の話が読みたいんだ。」
熱弁しながら、ハジメは傍に置いたままのノートから目を逸らさない。
そういえば、読んでいる途中で遮ったままだったのを思い出した。
ヨミの心に羞恥心はもうほとんど残っていない。
「でもそんな大袈裟な…。それに、私と一緒だとハジメさん誤解されるんじゃないですか?誘拐とか…。」
「構わない!!
その時は是非君のご両親に、謝罪と共に君の小説の素晴らしさを説き伏せたいものだね。」
あまりの力強い返事に、ヨミは堪らず吹き出した。
「ふはっ…。あはは、ふ…!」
「…余計なお世話だけど、キミは笑った顔の方が素敵だからね。」
「うん、ありがとう、ございます…。」
糸が切れたように、ヨミは声を殺して泣き続けた。
次の駅は、もうすぐそこだ。
『次は、金木犀の駅。金木犀の駅です。』