一.初めての友
一対の龍が、碧空を翔けていた。
白と黒の龍は二つで一つ。親と子のように、或いは兄と弟のように。
薄雲の間を縫いつつ天海を泳ぎ、時に絡み合い時に離れて、結局はまた一つに戻る。天地を貫く螺旋を描き、無窮の時を共に生きる――はずであった。あの日、黒の龍が遠くへ去ってしまうまでは。
一人の少女が、森に佇んでいた。
一目で分かる。彼女は何かに破れ、冷たい孤独な世界を彷徨してきたのだ。されど、深い地底に漂う闇の如き双眸を覗けば、未だ諦めていないのは瞭然である。
そよ吹く風に黒髪を靡かせた少女の手には、赤く焼けた鋭尖なる鏃の一矢が握られていた。
弓と矢を構えると、此方に向け躊躇いも無く射る。射抜かれた胸は血を流し、開いた穴からは黒々とした絶望が零れ落ちる。
矢を射た少女の目からは、何時の間にか涙が流れ出ていた。其の涙は澄んだ暗黒を湛え、少女の頬を伝って燃やし焦がす。
灼熱の涕泣は、恋する男を想ってのものか、白と黒の龍の別離を嘆いてのものか。射られた者には分からない。
焔矢を受けた者――麗蘭は、冷やりとした草叢の褥に仰臥して、静かに夢境を後にした。
◇ ◇ ◇
午睡から目覚めた麗蘭は、何時もと何も変わらぬ様相の自室に居た。
手習いをしていたはずだが、途中で転寝したようだ。半紙を広げたまま卓上に伏していたため、端の方に皺が出来ていた。
孤校の生活では、毎日起床も就寝も早い。其れでも日中、講義中に眠く為ることは無いが、自習の際などはつい気が緩んでしまう。
窓の外を見やると、未だ蒼い。黄昏までは時が有る頃だろう。少しでも時間を浪費してしまったことを悔やんだが、春の睡魔は中々に手強い。
影覆いし森における黒の神との邂逅から、五年。麗蘭は十二歳に為っていた。阿宋山の外では世の中が大きく移り変わっていたが、外界と隔絶された孤校で、麗蘭は立ち止まること無く自身を高めようとしていた。
皆が集まっているらしく、何やら外が騒がしい。今日は孤校に「新しい子」が来る日だったのを俄かに思い出し、両瞼を手の甲で擦る。
十数年の間に、一年に二、三度は新たに門下と為る子を迎えてきた。新入りが来ても仲良く為れた試しは無く、今回も期待はしていなかったが、皆で出迎えるのが昔からの約束事と為っている。
――行かなければ。
立ち上がって室を出ようとすると、突然視界が揺れてよろけてしまう。片方の膝を立て、床に手を付け身体を支えるが、只の立ち眩みではないらしく様子がおかしい。
「此の気は」
体感したことの無い奇異な力の存在に触れ、麗蘭は無意識に肩を竦ませていた。全身を悪寒が襲い、顔からは血の気が引いて手足が震え出す。
――直ぐ近くから?
妖気ではない――其れだけは断言出来る。妖よりも手強く悪質で、純度の高い黒色の気。麗蘭の聖なる神気が全力で拒絶する、天地を害する者の放つ気だ。
嫌悪感に耐え、卓の上に置かれた短刀を手にして懐へ忍ばせる。室から出て廊下を壁伝いに歩いてゆくと、子供たちの話し声も大きく為ってゆく。
黒の気にも慣れてきて、覚束ない足取りながらも歩いて行く。狭い廊下は子供たちで溢れ、玄関の方まで続いていた。
「麗蘭、麗蘭は居るか?」
「はい、此処に!」
人集りの向こうから、風友の呼ぶ声がする。声を張り上げて返事をすると、麗蘭は子供たちの訝しげな視線を浴びつつ、彼らを掻き分けて戸口へと向かった。
漸く辿り着くと、風友と傍らに立つ見知らぬ少女を見付ける。子供たちの注目を集めていた「新しい子」は、心の臓が止まりそうに為る程美しかった。
濡羽色の髪を首の後ろで束ね、肌は雪白で唇は血の如く赤い。一目で人の心を奪い、抗えぬ力で魅惑する鮮烈な美が、子供たちの目をも釘付けにしている。
麗蘭と目が合うと、少女は貴やかなる笑みを浮かべた。天女のように優しい微笑には、少しの邪念も含まれてはいない。そして知らぬ間に、あの嫌な感覚は跡形も無く消え失せていた。
「此の子は瑠璃という。歳はおまえよりも上だが、此処でのことを色々と教えてやりなさい。今日からおまえと同室にする」
「承知しました」
師に声を掛けられ我に返ると、麗蘭はしっかりと頷いた。
「宜しくね、麗蘭」
瑠璃に名を呼ばれ、親しげに手を差し出されて、一瞬戸惑ってしまう。突如現れて消えた得体の知れぬ気の不可解さも有るが、同じ歳頃の子に斯様な接し方をされたのが実に久しかったのだ。
「ああ、宜しく」
手を繋いでみても、瑠璃からは先程の力を感じない。一先ず安心すると、麗蘭の顔が思わず綻んでいた。
瑠璃の案内役を任された麗蘭は、彼女を伴って自室へ戻って来た。
「済まない。同室に為ると聞いていなかったから、特に片付けていなかったのだ」
門下が増えるにつれ室が足りなく為り、今では多くの子供が二人で一室を使っている。しかし麗蘭は、ほんの僅かな期間を除いてずっと独り部屋だった。麗蘭と子供たちの関係を考慮して致し方の無いことだったが、風友は其れを気に掛けていた。
「良く整頓されていると思うけれど」
室内を見回した瑠璃は、感心した様子で首を傾げる。実際、畳の床には卓や櫃などが置かれている以外、細々としたものが何も出ていない。中断した手習いの道具が卓上に広げられている他は、全て決められた場所にしまわれていた。
殆ど身一つで来た瑠璃の荷物は小さく、片手で抱えられる程の包みが一個のみ。室の中央に麗蘭と膝を突き合わせて正座し、荷を傍に置いた。
「麗蘭は、いつから此処にお世話に為っているの?」
何を話せば良いか迷っていたところ、瑠璃の方から声を掛けてくれたので、麗蘭は幾分か安心した。
「生まれて直ぐに両親が亡くなり、風友さまに引き取られた。だから来た時の記憶は無い」
「そう――じゃあ、風友さまが母上のようなものね」
「瑠璃は?」
会話が途切れるのを恐れ、反射的に問い返す。
「私の両親も、随分昔に亡くなった。遠縁に引き取られたのだけど、其の夫婦も半年前に妖に襲われて亡くなってね。色んな孤校を巡って此処に」
茗との戦が勃発した十数年前から、国内の孤校は何処も一杯に為っている。戦自体は停戦して五年程経つが、様々な事情で二親を亡くす子供は未だに多い。
「妖に狙われやすいらしくて、孤校に入っても直ぐに追い出されてしまうの。風友さまが拾って下さらなかったら、本当に行き場を失くしていたと思う」
見たところ、瑠璃は人よりも大きな神力を有している。そうした神人は妖の獲物に為り易く、ゆえに身を護る術を体得することが肝要なのだ。
「其れなら此処は安全だ。妖は出るが、風友さまの結界に護られているし、其れに……」
――妖からなら、私も護ってやれる。
「風友さまは、此の国で一番強い御方だ。屹度護ってくださる」
口にし掛けて飲み込み、言い直す。他の子供と違うと分かれば、瑠璃も麗蘭を敬遠するように為るだろう。此れまでにも「新しい子」が何人もやって来たものの、一度たりとて例外は無かった。今回もいずれ知られるとはいえ、出来る限り時を稼ぎたい。
咄嗟に摺り替えた言葉だったが、瑠璃は納得して頷く。
「風友さまと言えば、聖安禁軍の中でも有名な方だものね。門下に為れるなんて光栄なことよ」
外から来た瑠璃にも風友を褒められ、麗蘭は誇らしい気持ちに為る。
「麗蘭とも、友達に為れて良かった」
言った本人からすれば何気無い一言であろうが、麗蘭は我知らず耳を疑ってしまう。
――友……達?
何時の日か友を得たい――其れは、麗蘭にとってささやかだが切実なる願い。孤校に子供が増えても自分からは遠ざかってゆく度に、募らせては裏切られる希望。
相応しい返事を見つけられずにいると、瑠璃は不意に立ち上がった。
「荷を置いたら一度戻るようにって、風友さまに言われているの。また後でね」
「ああ」
一人残された後も、麗蘭は瑠璃が座っていた所から目を離せずにいた。予期せず訪れた夢のような展開が信じられず、彼女が奇跡の存在に感じられた。
「友達――か」
口に出さなく為って久しい其の単語は、初めて知る言葉の如く新鮮で胸をときめかせてくれる。
手習いをしていた卓へと向かい、墨汁の残った硯や乾き掛けた毛筆、書き掛けの紙などをしまう。今出て行ったばかりの瑠璃が、早く帰って来ないものかと待ち切れずに、今朝掃除したばかりの室を再び草箒で掃き始めるのだった。