七.紅の静寂
やや残酷な表現があります。
此れは、神の国の神話であるが――全て真実の話。
遠い昔。天界で、天子の一人である黒龍が邪神に堕ちた。
異母弟の妖王と共に天宮に乗り込むと、たった二人で闘神たちを殺戮し、天帝神王の首級を上げた。遅れて駆け付けた兄の聖龍が黒龍を打ち敗り、神剣に封じて人界へ落とすのに成功したものの、天の城は惨憺たる有様。彼の事件は後の世で、『天宮の戮』として記憶された。
白銀の龍神である聖龍に対し、黒龍は畏怖の念を込めて『黒神』と呼ばれ始めた。封印されている間にも『非天の王』や『黒の邪神』という異名で恐れられ、悪の根源として、神からも人からも憎まれ続けた。
弟たちに制裁を加えた聖龍は、天帝を継ぎ天上に君臨した。凶悪な黒神を倒した天の王は、父帝以上に崇敬されて権勢を誇った。
世界は知らずにいた。自身よりも強い黒神を封じ続けたため、聖龍の力が時を経るごとに弱まっている事実を。黒神が放たれた時、天地を覆い尽くす本当の脅威を。
天宮での戮より千五百年の後、黒の神は復活した。
◇ ◇ ◇
天帝の居宮・陽凰宮は、浩浩たる天界の中心に位置する天山に在った。数百の神々が集う彼の宮の最奥に、主殿である黎明殿が立つ。此処は限られた上級神のみが立ち入ることの出来る、此の世で最も厳かなる神殿である。
黎明殿の王座の間は、白い岩壁で拵えた廊下を進んだ奥の奥に在る。高みへと伸びる円柱も滑らかな床も、白亜に似た石材で造られた壮麗なる空間。悠久の時を生きる者が住まう殿舎らしく、貴い静謐さに浸されている。
広々とした室だが、無駄な彩りも過剰な装飾も見当たらない。飾りといえば、薄紫色を基調とした壁掛けや絨毯、百合に似た白花が活けてある位であった。
室の中程から、床や柱と同じ石で出来た数十段の階段が積み上がっている。見上げる程高い段上には、屋形の形をした銀色の御座が据えられていた。
御階の下には、二十、三十もの名の有る男神が前後に並んで跪いている。参殿を許された上位の者たちが、此処暫くの間こうして代わる代わる嘆願に訪れているのだ。
数年前、黒神が人界に現れたという恐ろしい噂が立ち始め、直ぐ様天界中に広がった。腕に覚えの有る闘神たちが名乗りを上げ向かったが、帰って来た者は皆無だった。
何十もの闘神が『行方知れず』と為り、聖龍に次ぐ実力を持つ『五闘神』の筆頭薺明神も消えた。最も強いと言われた彼の女神以降、後に続く者は居なく為った。
近く、黒神が追随する非天たちを率い、天宮に攻め入るのではないかという声も上がり、神々の恐怖は増大している。
「天帝陛下、どうかお聞き届けを。黒神をお討ちください」
彼らは跪礼し、聖龍自らの邪神討伐を一様に請い願う。黒神を降した天帝ならば、必ずや勝利してくれるだろうとの希望に縋り付く。
されど、聖龍の応えは無い。屋根の有る八角の御座の中に坐し、銀の御簾を下ろしたままで顔も見せない。邪神を怖れる臣下たちを激励するでも叱責するでもなく、高みから静かに見下ろしているのみ。
天帝の斯様な反応は今に始まったことではない。薺明神が『消えた』という凶報が伝えられた頃から、彼の君は近しい臣下にすら滅多に姿を見せなく為った。
神々の中には、莫大な力を持ち解き放たれた黒神に、天帝が恐れを為したのではと案ずる者も居る。或いは、千五百年前に二人の弟に殺された父母に加え、姉と慕い師と敬った薺明神までもが居なく為ったのを嘆き、心を閉ざしてしまったのでは――と。
「陛下。黒神復活の噂が広まり、地上の他の邪神や妖たちが勢力を拡大しています。此のままでは、天の権威が落ちる一方です」
「一度ならず二度までも、此の天宮を血で穢すことは為りませぬ! 御決断を!」
何も答えずに居ると、彼らの責めは激しさを増してゆく。聖龍が寛大なのを良いことに、中には身の程を弁えず増長する者も出てくる。
「御自ら戦いへお出に為らず、黒神の非道を黙認しておられるのは、奴が弟であるからか? そう謗られてしまいますぞ!」
別の者が更に無遠慮な発言を重ねようとすると、彼らの背後から、皆が知るものと良く似た低声が聴こえて来た。
「偉そうな口を利くね。天帝の権威を貶めているのは君たちじゃあないか」
最初に振り返った者が、声の主の姿を目に入れる前に、其の者の頭は胴体と離れて宙に飛んでいた。
「ひっ……」
隣で跪いていた男の首が失く為り、悲鳴を上げようとした者の頭が刎ねられる。唖然としている間に、次から次へと赫い血を噴いて破裂してゆく。
首から断たれる者の他に、手や足が飛ばされたり身体を縦横に裂かれたりする者も居た。いずれも何かの力を身体の内側から注ぎ入れられ、弾けさせられ、元の形を留めぬよう酷たらしく戮された。
彼ら全員が八つ裂きにされるまで、然程時間を要さなかった。真白い床、壁は血に塗れ、美しい神々の見るに堪えぬ残骸に埋め尽くされた。
王座の間が寂然とすると、一人の男が扉の方向より歩いて来た。一つに纏めた長い黒髪を背に流し、濃紺の衣服を身に付けている姿が、此の白い広間では目立って見える。
自ら築いた死骸の丘を避け、軽い足取りで御階へ近付いて行く。口元には微笑を作り、右手には鞘に納められた銀色の長剣を持っていた。
「お久しゅうございます、兄上」
天帝を兄と呼ぶ男は、御座の真下まで来ても止まらずに階段を上り始めた。
「中々来てくださらないので、追放された身でありながら罷り越してしまいました。お見受けしたところ、お身体が優れぬ御様子ですが」
石段の途中に落ちている首には一瞥もくれずに、黒き男は玉座へと上がってゆく。あと数段という所まで迫ると御簾が上げられ、漸く天帝が現れた。
冴え冴えとした完美なる顔貌は、其の色彩を除いて、向かい合った双神の片割れと鏡で映したかの如く似ている。黒神の純黒な闇に対し、滑らかな白肌に下ろした銀糸の髪、淡く青い瞳という色合いは、まるで月の光を思わせる。
己の半身と見詰め合い、双方共に暫時動かなかった。先に踏み出したのは黒神の方で、身を屈めて左手を伸ばし、兄の外套を徐に掴んで引き寄せ、恭しく口付けた。
片膝を付いた弟と、階下に広がる血の惨状を順に見た聖龍は、黙したまま綺麗な眉根を僅かだけ寄せた。
「久方振りにお会いするというのに、弟に何の言葉も掛けてくださらないのか。今お座りに為っている玉座は、私が貴方に差し上げたものだというのに」
黒神は冷笑し、携えていた紫銀の剣を両の手で差し出す。神剣・瑞奘――此の長剣こそ、黒神を封じ籠める器と為っていた聖龍の御剣であった。
父である故君より賜った神剣は、聖龍のために鍛えられた至高の剣。敵である黒神が何故いとも容易く返してくれるのか、聖龍にも真意が読めない。少なからず疑念は有るが、拒否する強い理由も無いため、数瞬の躊躇いの後に受け取った。
「貴方と耀蕎の封印は強固だった。本来ならあと千年は出て来られなかったでしょうが、私の巫女が亀裂を作ってくれたお蔭で内側から破れたのです」
『天宮の戮』において、聖龍は黒神に止めを刺さず瑞奘に封じた。其の瑞奘を薺明神・耀蕎が人界へ持ち出して封じ込め、二重の封術で縛した。五百年前の闇龍が黒神復活を企て、封印を解く寸前で光龍が阻止した一件は、聖龍の記憶には新しい。
「やっと戻れたかと思えば、貴方の名の下闘神たちがやって来た。余りに多いのでどれだけ殺したか覚えていないのですが、中には見知った顔も居ましたよ」
含みの有る言葉に、聖龍が初めて口を開いた。
「おまえが耀蕎を殺したのか。あの耀蕎を――おまえが」
変化の乏しい顔に、聖龍は驚愕や憤り、悔恨といった感情を微かに表した。
「今の私は誰でも殺せると、御存知でしょうに。あの奈雷すら殺めたのですから」
立ち上がり、事も無げに言う黒神は、悪意有る追い打ちを掛けて兄を責める。
「お怒りに? そんなに耀蕎が大切なら、何故無理にでもお止めにならなかったのです? 私が彼女だからといって見逃すとでもお思いだったのなら、大きな過ちというものです」
「おまえが耀蕎を殺すであろうことは分かっていた。分かっていながら行くのを許したのだ」
五闘神のうち唯一の生き残りである薺明神は、聖龍の許しを得て黒神の許へ向かった。『天宮の戮』以来、彼女の苦しみを知っていたからこそ、許さざるを得なかったという方が正しい。
「『黒神』よ。おまえの欲するものは何だ」
問うた聖龍の双眸からは、つい先程までは確かに在った情感が消失していた。
「貴方と神王が創り上げた世界の終焉――とでも言っておきましょうか」
問われた黒神も、冷えた抑揚の無い声で答えた。
「おまえが其れを『真に』望むなら、私は今一度おまえを止めねばならない」
瑞奘の柄を握る右手に力を籠め、聖龍はかつて弟だった邪神に戦いを挑む。
「兄上、見縊らないでいただきたい。貴方の神力が弱まり、新たな光龍が生まれても人界に降りられなかったことは分かっている」
優美に微笑んだ黒神が、石段の下に転がっている神々の成れの果てを手で示した。
「怯える憐れな神々の懇願を聞き入れ、自ら私を討ちに来ることも出来なかったのでしょう」
心の内を言い当てられても、聖龍は陶器然とした作り物の仮面を付け何も漏らさない。
「おまえこそ、『神王陛下から取り返した』其の力が有りながら、何故事を為そうとしない。おまえを王と崇める非天の者たちを、未だ統率し切れていないのだろう」
剣を抜かずとも、黒神へ静やかなる敵愾心を叩き付ける。兄にしては挑戦的な発言に、黒神は何処か満足げに目を細めた。
「焦る必要は有りますまい。先ずは今世の巫女たちが殺し合う様を眺め見るのも、悪くはない」
目を合わせて逸らさず、ややあって黒神が踵を返した。御階を数段降りると足を止め、肩越しに振り返る。
「奈雷と流羅――死ぬ度に生まれ変わる彼女たちを見詰め続け、兄上はどの様な心境にお為りですか」
懐かしき初めの巫女たちの名を出し、黒神は唐突に尋ねた。
「転生し、争いを繰り返す定め。人の理に反した宿が、罪深いと思いませぬか。己が宿の残酷さに気付かぬ幼い少女が、戦いへ身を投じてゆく姿を如何思われますか」
薄らと笑みを湛えたまま、試すような口振りで問いを重ねる。聖龍は其の底意を探ろうとするが、純なる闇に遮られて弟の胸中が見えない。
過去、黒神が天子であった頃は共鳴し合い、想いを共にしていた。されど、天と非天とに分かれて敵対してからは違う。叛逆して天宮を血の海にし、今し方もまた、震え慄く神々を惨殺した邪神の考えなど、理解出来るはずが無い。
「もし、おまえが私の許から離れなければ、巫女同士が争う定めは無かった。元来の宿を全うし、志を一つに出来ただろう」
――そして、おまえが私の許を去ったのは、私の罪でもある。
後に添える言葉を、聖龍は敢えて続けなかった。天の王たる彼が、非天に対し罪の意識など見せる訳にはいかない。其れに今更黒神に後悔の念を見せても、もはや詮無いこと。弟が『黒神として』現れた以上は、一切の情を捨て闘争せねばならぬのだから。
「兄上、安堵いたしました。私たちが敵同士であるという認識に、違いは無いようですね。今度こそ、私を殺す覚悟はお有りですか?」
千五百年前の戦いにおいて、聖龍は黒神を降したが殺しはしなかった。真相は、『殺せなかった』のだ。黒神は、そうした聖龍の迷いについて言及している。
「おまえが此の世を乱し、現世に生きる者たちを苦しめようとするのなら」
聖龍が答えると、黒神は深い闇の眸で彼を見据える。兄の心底を覗き、其の決意が如何程のものか、確かめるかのように。
「お会い出来たのが嬉しく、長居してしまいました。私の神気に気付き、駆け付けてくる者も居るでしょう」
黒神が聖龍から視線を外し、遠く下方に在る閉じられた扉を見る。本人の言う通り、黒神は特徴的な黒の気を隠そうとしていないため、そろそろ誰かがやって来ても不思議ではない。
「此れ以上殺しては、兄上が益々お困りに為る。此の後も勇気有る臣下を無駄死にさせませぬよう」
討伐を許可して黒神の許へ行かせれば、待ち受けるのは死――しかし非天と為った者を討ちに行くのを許さねば、天帝の威信が失墜してしまう。天帝位を守らねばならぬからこそ、死に急ぐ神々を止められなかったのだ。黒神は、兄の斯様な葛藤を見透かしていた。
天の宮を覆い、聖龍の神気と鬩ぎ合っていた黒の力が、彼の姿と共に消えた。残された聖龍は、黒神の作り出した紅の静寂を見下ろし、既に意味を成さなく為った弟の真名を口にする。
「鵺……」