六.運命の日
公主蘭麗が、皇族に所縁の有る冀州侯の館に逃れてから半年後。彼女の居場所が珠帝の放った諜者に知られ、茗軍に侵入されるに至る。対外的には世継ぎと見なされていた蘭麗公主の価値は高く、捕縛され、軍を率いて紫瑶近くまで来ていた珠帝の許へと直ちに連行された。
薄紅色の長い髪を束ねて真赤な革鎧に身を包み、珠帝は悠然と王の座に腰掛けている。宗桐宮という聖安皇家の宮殿を奪い、帝都へ攻め入る機を窺っていた彼の女帝は、忠実なる臣下が得た思わぬ収穫に満足していた。
「紅燐、面を上げよ。他の者は下がれ」
人を従属させる力を持つ、女にしては低めの重い声が響くと、二本の縦列で並んでいた十数名の武官たちが退室してゆく。広間に残されたのは、王の前に跪く若い女一人であった。
彼女は二十に為るかならないかというところの黒髪の美女。蘭麗の潜伏先を突き止めた、珠帝直下の諜者である。
「珠帝陛下。聖妃さまが会談の申し入れを」
待ちわびた報告を聞くと、珠帝は紅燐よりも更に秀でた美しき貌に艶笑を浮かべた。
「公主を質に取られて焦っているな。会談の場で、あの女の泣き顔を見られるかと思うと楽しみだ」
珠帝――名を珠玉という此の女は、代々茗の禁軍上将軍を輩出する名門の生まれで強力な神人でもある。先帝と婚姻した頃より宮廷で権力を蓄え続け、やがて夫を暗殺し自ら帝と為った。同時期に皇妃と為った聖妃とは、何かに付けて比較されてきたものの、為政者としての才は聖妃を凌いでいる。
「会談の場を設けてやろう。二日後に此処へ呼び寄せるのだ」
「御意に」
紅燐が答えると、珠帝は俄かに席を立った。
「あちらは大将の瑛睡も来るのであろうが、『……』上将軍は前線より動かすな。『小娘』との会談など、妾一人で十分だ」
「畏まりました」
「紫暗が送って来た使者に依ると、聖安は隣国からも援軍を集め帝都を死守する積もりのようだ。中でも魔国からの支援が厄介で、同盟のため数万の兵を派兵してくるとの噂。彼の国も内輪揉めで余裕が無いゆえ真偽は怪しいが、本当なら我が軍が返り討ちに遭うやもしれぬ」
聖安との戦は珠帝の想定以上に長く続き、茗軍が疲弊し敵が周辺国に援助を求める時を与えてしまった。自身よりも若い皇帝と妃への侮りや、聖安軍を甘く見過ぎたがゆえの失策だった。
「陛下。公主を使い、如何様な取引きを持ち掛けるお積もりでございますか」
帝位継承権を持つ蘭麗姫の使い道は、幾らでも考えられてしまう。人界統一という主の野望を知る紅燐が想像したのは、蘭麗を用いて如何に聖安を滅ぼすかというものだった。
問われた珠帝は片方の眉を引き上げ、意味深長な笑みを拵えた。
「既に決めた。蘭麗を盾に燈凰宮へ入り、あの女を含めて皇族を皆殺しにしてやろうと思っていたが――先刻蘭麗に会い、考えが変わった」
そう答えて、珠帝は其れ以上何も言わなかった。主君が腹心にすら心内を明かさぬのは往々にして有ることで、紅燐も珍しいとは思わなかった。
珠帝の考えが如何なものであっても、憐れなる聖妃や蘭麗姫にとっては酷烈なものに違い無い。元来心の優しい紅燐は、敵とはいえ同情を抱かずにはいられなかった。
――焔の女傑が罠を仕掛ける運命の日は、あっという間に訪れた。
聖安禁軍の上将軍瑛睡公と共に、聖妃は珠帝の指定した宗桐宮へ赴いた。
蘭麗が捕えられた日以降、聖妃は丞相や三公六卿ら重臣、そして上級将官らと協議を繰り返してきた。彼らの進言もあり遂に珠帝との会談へ踏み出したが、状況は絶望的で、対等な話し合いが出来るとはとても思えなかった。
皇族の離宮である此の宮には、かつて蘭麗と避暑に来たことも有る。母娘で過ごした思い出の宮だが、珠帝ら茗人に占拠された今は全く別の場所に見えた。
聖妃と瑛睡が王座の有る広間に着いた時には、先に来た珠帝が中央に置かれた円卓の側に立っていた。深紅の長衣を纏い、黄金の歩揺冠を頭に乗せた只ならぬ威容には、聖妃だけではなく武人である瑛睡までもが圧倒された。
茗の珠帝と聖安の聖妃が相対するのは初めてではなかった。開戦前の甬帝が登極する際に、来賓として珠帝が紫瑶に招かれたことが有ったのだ。
宿敵珠玉の風貌は、一目見れば二度と忘れぬ印象的なものだった。先の皇帝を惑わして妃と為り、直ぐに弑逆して帝位を奪ったことから、世間の人々からは傾国だの傾城だのと呼ばれるが、左様に陳腐な言葉では表せない。聖妃自身認めたくはなかったが、珠帝の絶美は彼女を王とすべく神が与えたものであろう。
「良くぞお出でになられた」
珠帝は片腕を広げて迎え、聖妃と瑛睡は国主に敬意を表して深く頭を下げる。
「ご無沙汰をしております。聖安の清恵蓮にございます。此れは、上将軍の瑛睡と申す者です」
先に聖妃が挨拶をして瑛睡を紹介すると、珠帝は彼を見て何かを思い出し、幾度か頷いた。
「そなたが瑛睡公か。我が軍の将軍緑鷹が、そなたに剣で敗れ名誉の傷を負ったそうだが……闘神の如き剣を振るうのであろうな」
「勿体無いお言葉でございます」
上将軍の当たり障りの無い返事を受け取り、珠帝は客人らに席を勧めた。二人は会釈して、卓を挟んで女帝と差し向かいに座る。
「珠帝陛下。お望みは何でございましょう」
真っ直ぐに切り込んだ聖妃は、巨大な敵に鋭い視線を送る。可憐な容貌に似合わぬ気迫が、珠帝を些か驚かせると同時に更なる戦意を湧き起こさせた。
「蘭麗公主をお連れせよ」
出入口辺りに控えていた兵に命じると、時を移さずして蘭麗姫が連れて来られた。逃げられぬよう二人の男に挟まれているが、公主として丁重に扱われ縄も掛けられていない。
約半年振りに娘の姿を見た聖妃だったが、無反応で眉一つ動かさない。蘭麗もまた同様であり、一歩も動かず表情も変えず、母を呼ぶことすらしない。
「美しく賢く、素晴らしい姫君だ。お返しするのが実に惜しい」
姫を称賛する珠帝の言は、上辺でなく心からのものだった。幼い姫の泰然自若たる様に女帝も胸を打たれたが、其れゆえに、此の母娘への残酷な仕打ちを思い付いたのだ。
「貴女も貴女の民も、此れ以上戦を続けるのは辛かろう。民を想い、早く戦を終わらせたいのは妾とて同じこと」
一度言葉を切った珠帝が、卓の隅に置かれていた書簡を手に取る。中から巻かれた文書を取り出して、其のまま聖妃に手渡した。
卓上で書を開き、書き連ねられた文字を慎重に読む聖妃の目が、一瞬だけ見開かれる。微弱な動揺を捉えた珠帝が、微笑んでから言い放った。
「姫をいただく代わりに、平和と安寧を。貴国の至宝である蘭麗姫ならば、対価として喜んで受け容れよう」
聖妃が顔を上げると、珠帝の向こうに蘭麗が見える。誇り高くあれという教えを頑なに守る姫は毅然として、一国の命運を握る母の決断を待っていた。
娘の想いを受け取った聖妃は、帝国の母としては此の上無い慈悲に満ち溢れ、人の子の母としては余りに罪深い答えを口にする。
「貴国のお申し入れを、お受けいたします」
蘭麗姫を生贄に、停戦は成った。仮初の和平が成り、聖安の『第一公主』は茗の虜囚として長い長い年月を送ることと為る。
「そなたを羨ましく思うぞ」
会談が終わり退室した珠帝が、隣を歩く蘭麗へと愉しげに話し掛けた。
「そなたの母には国を統べる器が有る。左様な母を持ったそなたは、公主として幸福であろう」
片頬に笑む珠帝は、本心では喜んでなどいなかった。彼女が求めていたのは聖妃や蘭麗の取り乱す姿であり、王と為る資格を持たぬと自ら晒す姿だったのだから。
また、帝都近くまで侵攻しておきながら停戦という選択をしたのにも、そうせざるを得ない理由が有った。長年の戦で国力が弱っているのは茗とて同じ。聖安を滅ぼせば分裂するであろう、彼の国の属国を纏めるだけの余力が無く、却って茗の統治が危うく為る恐れが有った。聖安を……聖妃を、完膚無きまでに打ち負かすことが、望んでも出来なかったのである。
ゆえに悔し紛れに――実に彼女らしくない振る舞いだが――こう言い添えた。
「其れゆえに、人として幸福に為れるかどうかは分からぬがな」




