五.母と娘
麗蘭と風友が帝都を出て七年。茗との戦は年々激化し、形勢は聖安にとって不利に為る一方だった。
属国を次々奪われるだけでなく、周りの大国を取り込み財政的にも打撃を与えられる。此の数ヶ月においては、国境防衛線を突破されて本国内にまで進軍され、要衝を狙われ陥落させられ続けていた。治世九年目に入った甬帝が、自軍の士気を高める為に出陣した戦場で討死したのは、そうした折であった。
茗軍が帝都の在る金州に迫るのは時間の問題と為り、聖妃は手元で育てていた蘭麗公主を逃がす決意をした。蘭麗は麗蘭よりも一つ歳下で、表向きの第一公主として燈凰宮で成長した二人目の御子である。聖妃譲りの佳麗な顔立ちと利発さで民からは国の『至宝』と呼ばれて慕われ、麗蘭を手放した甬帝と聖妃にとっても、唯一残された大切な宝だった。
当初は同盟関係にあった魔国へ受け入れを要請しており、ほぼ実現し掛けていた。ところが彼の国の情勢も不安定だったため一頓挫を来し、結局聖安国内の冀州郊外への疎開と為った。
避難先の宮に赴く際、蘭麗は見送りに来た聖妃と共に、途中に在る兒加の街に数日滞在していた。領土内にも諜者を潜ませている敵から隠れるため、彼女たちの来訪は極秘にされている。
夫を喪いたった一人で聖安を守る聖妃には、哀切に身を沈める時どころか睡眠を取る時すら無い。そんな中で、母娘が共に居られる最後の数日、聖妃は可能な限り蘭麗と共に過ごした。
日に二度、帝都や前線から来る使者の報告を聞いたり、何か指示を出したりという時以外は、蘭麗と一緒に居て色んな話をした。近くの森に散策に出て目にした珍しい鳥のこと、女官たちと鞠遊びをしたこと、臣下が美味しい菓子をくれたこと――斯様な取るに足らぬ、取り留めも無い会話を楽しんだ。
二人きりに為ると、亡き甬帝との思い出を語り合ったり、彼の死を悼み悲しみを分かち合ったりした。常に人目に晒されている高貴な彼女たちは、宮の中では純白の喪服を身に着け冥福を祈っていたが、戦時中ということもあり哀情を表に出しはしなかった。
身の内に有する特異な神力が、聖妃と蘭麗に未来を見せていたのだろうか。もう直遠く遠く離れてしまうことを感じ取っていたのだろうか。話せど話せど話題が尽きないのが、自分たちでも不思議に思う程であった。
「湖の畔でね、一寸上くらいの男の子とお話ししたの。蒼い目と髪が綺麗で、とても力の強い子でした」
卓を挟んで母と向かい合っている蘭麗が、声を弾ませながら昨日の出来事を話す。
「剣の稽古をしていたから、何時か私と姉上を助けてくれる剣士に為るかもしれません。名前を聞いておけば良かった」
皇宮に居た時、蘭麗の周りには同じ歳頃の子供が少なかった。お忍びでの散歩で下様の少年と出会い、余程嬉しかったのだろう。
「将来貴女を守ってくれる子なら、わたくしもお会いしたいわ」
蘭麗の話に耳を傾けながら、聖妃も痩せてしまった頬を緩める。刻一刻と別れの時が迫るのを恐れ、娘の顔を記憶に刻み込むため優しげな眼差しを逸らさない。
「暫く離れて暮らすことに為るけれど、覚えておいてくださいね。貴女と姉上のこと」
「はい。もちろんです」
物柔らかに念を押され、蘭麗は大きく頷く。母より秘密を知らされた時から、姉の存在は彼女が守るべきものであり、心の支えとも為っていた。
「何時か、姉上とお会いできるのを楽しみにしています。どんな方なのか、何をお話しするか、何をして遊ぶか。そんなことばかり考えています。屹度美しい方なのでしょうね」
話に聞いただけの姉を想像しつつ、蘭麗は月白とも藍白とも取れる色の瞳を輝かせる。目を細めた聖妃が、暫しの間沈思してから口を開いた。
「蘭麗。貴女と姉上の名前について、まだ話しておりませんでしたね」
「はい」
思い当たる節の無い蘭麗が、小首を傾げてから答える。
「貴女がたの名前には、此の国に繁栄を齎し、麗しく咲き誇る気高き蘭の如くあれ――という意味を込めました」
麗蘭と、蘭麗。姉と同じ字を用いた名前を、蘭麗自身も気に入っていた。美麗なる花を愛でる名に、何処か遠くに居る麗蘭との繋がりを感じていたのだ。
「長い戦に依り此の国が荒れ果てて、離ればなれに為ったとしても、其の名に同じ祈りを込められた貴女がたは、固い絆で結ばれ何時の日か出会える。わたくしと亡き父上の想いです」
自分が抱いていたものと似た両親の想いを知り、蘭麗の胸は一層熱く為る。
「名に恥じぬよう、努力いたします。姉上とお会いした時、良い妹だと思っていただけるように」
母の両手を取り、蘭麗が屈託無く微笑む。利口な彼女は、母の美貌を翳らせる辛労を見逃さなかった。激務に追われながらも自分を慈しんでくれる母を、僅かでも喜ばせようと努めていた――苦難に満ちた日々に生まれた温かなる一時が、長きに亘る別離の前の、母娘最後の一時であった。