二.妖
孤校の授業の後、風友と約束した剣の稽古も終えると、申の刻頃と為っていた。夕暮れまでには時間が有り食事当番でもないため、麗蘭は少し離れた狩り場へと出掛けた。
阿宋山の森には食用に為る鳥や獣が多く生息している。弓術を覚えてからというもの、暇が出来ると狩猟に出掛けて行く。今朝方風友に褒められたので、今日は特に気合いが入っていた。
近頃は以前に増して頻繁に妖が出る。子供たちは、自分たちだけで孤校の外を歩き回らぬよう言い聞かせられている。孤校の周囲は風友の結界に守られているが、其の区域から出てしまうと忽ち危険が及ぶからである。
されど、麗蘭だけは違った。彼女は既に己を守る術を身に付けている。弓を携えていて、妖の力が強く為る夕刻より前であれば、独りで外出する許可を得ていた。
其れは、麗蘭の力を高めようとした風友の意図的なものでもあった。此の小さな山には、麗蘭の力で倒せぬ妖異はもはや居ない。もし彼女の手に負えない大妖が出現すれば直ぐ様駆け付けられるよう、風友も常に注意している。
何度も行き来した山道を、森林の空気を感じながら速歩で抜けて行く。孤校の外へ出る際は、慣れた道であっても油断せず周囲の気を探るよう、風友から常日頃言われている通りにして歩く。実際妖気を見付け、戦いに入ることも有る。
ゆえに、何の前触れも無く異変を察知した時も、大抵の場合は落ち着いて対処出来た――此れまでは。
「妖か?」
突として、風の匂いや流れが一変するのを感じる。身の毛がよだつ気味の悪い感覚の波に呑まれ、咄嗟に背中の弓へと手を伸ばす。妖の気であるのは明白だが、何か妙だ。
――大きさが掴めない。
多くの場合、妖の力は妖気の大きさに比例する。今、近くに居るであろう妖異は、其の気を膨らませ続けており止まらない。妖が纏う妖気の大小を変えているのではなく、段々と此方へ近付いているのだろう。
相手の力を探り、もしも自身で対処出来ない程の大妖に遭遇したら迷わず逃げるようにと、師に常々念押されていた。
――逃げなければ。
そう判断するのに、然程時間は掛からなかった。姿を見せない妖の気は瞬く間に増大し、麗蘭が斃してきたものの中で最も巨大な気と為ったのだ。
踵を返した麗蘭は、孤校へと引き返そうと走り出すが、ぴたりと立ち止まる。
――孤校に帰れば、皆が危なく為るかもしれない。
此の妖異は風友の結界を破れるやもしれぬ。自分が逃げ帰ることで、孤校へ招き寄せてしまうのではないかと、麗蘭は直感した。
――逃げられない。
森の奥、麗蘭が見据えた方向から、獣のものらしき唸り声が聴こえ来る。地底から響く怪音は幾重にも連なり、妖が単数ではないのを伝えてくる。
何時の間にか、莫大な妖気は四つの塊に分かれていた。深緑の茂みより四足の魔狼が次々現れ、四頭が麗蘭の前に並んだ。
鉄黒の硬い獣毛に覆われ、長い尾は四つに裂けている。顔面には真紅の八つ目が在り、それぞれが上下左右し四方八方を凝視している。体は大人の男よりも大きく、麗蘭など簡単に跳ね飛ばしてしまえるだろう。
――廰蠱か……?
麗蘭自身、未だかつてその魔物を直接目にしたことは無かったが、四体で動く習性や判別し易い特徴から容易く想像出来た。
――何故、こんな所に廰蠱が?
彼女の記憶に依ると、廰蠱は魔界に棲む妖で人界に出ない。況してや、此の阿宋山に斯様な大妖が出るなど聞いたことが無い。そんな危殆が有るのなら、風友が警告せぬはずも無い。
思わず半歩だけ後退するが、其れ以上は怯まない。彼女は知っていたのだ――此処で動じれば其の刹那、自分は化け物に喰われると。
風友に教えられた通り、神気を発現させて己の周囲に結界を張る。麗蘭の身に毒と為る邪気を、僅かでも近付かせないために。
極力音を立てぬようにして素早く矢を番え、構える。廰蠱との間にはやや距離が有るため、肉薄される前に一頭でも多く射抜きたい。普通の妖ならば神力を込めれば一射で仕留められるが、此れ程の大妖と為るとやってみなければ分からない。
「来い!」
凛然とした麗蘭の声に応え、一つの黒塊が襲い掛かった。獣の咆哮と同時に彼女が射た聖なる矢は、走り来る一頭の眼の一つに命中した。射抜かれた一頭は、堪らず森の奥へ消えて行く。
一矢中てると、空かさず隣の一頭に向けて矢を放つ。今度は眼と眼の間を貫き、苦しみ呻いて巨体を地に倒す。麗蘭が次なる射撃に移る前に、後の二頭は視界から消えていた。
背後に気配を感じ、直ぐ様振り返る。飛び掛かって来る一頭の爪を辛うじて避け、よろめきそうに為るのを踏み止まり弓矢を構えた。
矢尻に神力を込め、再び飛び上がった妖獣を射る。此れも中って頭部を貫通したうえ、勢い余って注ぐ力を強めたため頭部の上半分を吹き飛ばす。
三頭を退けた麗蘭だったが、残り一頭に対し隙を与えてしまう。四頭目は彼女が矢を引き絞る間に接近し、猛進して来たのだ。
激突される寸前で躱したものの、麗蘭は武器を取り落として体勢を崩す。起き上がろうとしたところを後方から攻撃され、背を指爪で切り裂かれた。
焼き尽くされるような凄まじい痛みが走り、膝を付いて其の場に倒れ込む。徐々に感覚を失くす身体からは多量の血が流れ出て、意識も遠退き始めた。
「麗蘭!」
自我が薄れゆく中、覚え有る声が聴こえた気がしたが、其の主を確かめることも出来ない。
程無くして、声の方向から疾風迅雷の矢が飛んで来た。地に伏す麗蘭に牙を立てんとする廰蠱の頭を、横から射ち抜いて行く。
最後の獣は、破妖の矢に穿たれた穴より妖気を噴出させて横倒しに為る。時を同じくして、大怪我を負った麗蘭が意識を消失させた。
遠間から廰蠱を射た後、走って来た風友が、弓を捨て剣を抜いて瀕死の獣に止めを刺す。伏した麗蘭に駆け寄ると、顔は蒼褪め背から血を流しているのに気付く。
「麗蘭、麗蘭!」
眼を閉じたまま呼び掛けに応えぬのを見て、風友は治癒の呪を唱え始める。やがて血は止まり、傷も塞がって行くが、麗蘭の意識は戻らない。
大妖の邪気に当てられた麗蘭は、魂だけを連れ去られ、身体を置いて別の場所へと誘われる。風友の手の届かない、昏闇の領域に囚われていた。