一.孤校
公主麗蘭を託された風友は、宣言通り将軍を辞して帝都を離れた。
彼女が禁軍最高の位から降りた真の理由を知るのは、あの嵐の日に甬帝の下集った一握りの者たちだけ。茗との戦の最中、聖安軍の全軍を率いる上将軍の突然の退役は、人界中を驚かせた。
一線から退いた風友は、都から南へ離れた阿宋山で小さな『孤校』を開いた。
孤校とは、身寄りの無い子供たちを集め住まわせ、学問や武芸を教える場所である。『孤児』である麗蘭を育てるには適しており、風友自身、軍を抜けた後の身の置き場として、以前より考えていたため都合が良かった。
帝位を継ぐ者である麗蘭の出自は、いずれ然るべき時が来るまで本人にも告げないでおくというのが、聖妃との約束だった。一方で神巫女であるという定めは、風友が時を見極め伝えることに為っている。
そして光陰矢の如く、運命の日から七年の月日が流れた。神巫女の存在を疎み、脅かすであろう人ならざる非天たちや、茗の珠帝を始めとする権力者の目から逃れ、麗蘭は人知れず成長した。
珍しい太陽色の髪を高く結い、長い睫毛に縁取られた瞳の色は深い紫。形の良い鼻に厚い唇、薔薇色の頬。神に愛される巫女と呼ばれるに相応しい、際立った美貌が眩いばかり。
年のわりに大人びてしっかりした顔付きに、真っ直ぐ背を伸ばした凛とした姿。下民に紛れているとはいえ皇帝の血を引くからか、他の子等とは違う高貴な品格を兼ね備えていた。
風友の孤校は、阿宋山の中腹、緑深き森の中に在った。広い平屋が二棟建っており、それぞれ寝食する建屋と授業を受ける建屋とに分かれている。
初めは麗蘭一人だったが年々数が増え、開校して七年目の今は、彼女を入れて五つから十四までの十数人の孤児たちが此処に暮らしていた。
孤校の朝は早い。子供たちは卯の刻には起床し、身支度を整えて朝餉を取る。食事は当番制で、週に一度か二度順番が回ってくる日に、年長・年少の者で組んで全員分を用意する。
彼らの中で麗蘭だけは、食事当番よりも早い寅の刻に起き、外に出て弓の稽古をするのを日課としていた。二年前風友から弓を習い初めて以来、晴れている日は毎朝欠かさず続けている。
今朝も何時もの修練を終えた麗蘭は、食堂として使っている和室へ向かう。歳の順に並んでいる膳の中に、自分のものは無い。他の子供たちの悪意有る悪戯だが、初めてではないため動じない。厨房に行き、鍋に残っている麦飯や味噌汁などを碗に入れて膳に並べる。
揃って食事している子供たちは、膳を持ち室を横切って行く麗蘭を見ても気にしない。週に二度、今朝のように風友が居ない時は、此の手の嫌がらせが行われるのが常だった。
麗蘭は同じ棟に在る自室へ戻り、畳の室の真ん中に膳を置いて、独り静かに食べ始めた。
物心付いた頃から、麗蘭は自分が他の子供とは違うのに気付いていた。皆が感じ取れぬものを感じ、見えぬものを見、身の内に秘めた神力や弓や剣を用いて妖と戦うことも出来る。
そして何時からか、彼女は知っていた。自分には果たすべき使命が有るのだと。誰に教えられたわけでもなく只、知っていた。自分は何か、特別な『宿』を持って此の世に生まれ出でたのだと。
子供たちは皆、麗蘭を遠ざける。麗蘭もまた、自身は彼らと相容れぬと思っている。
――私は何のために居るのだろう? 何をすれば良いのだろう?
使命感の強い彼女は、何時も其のことばかり考えていた。己が為すべきことを探求し、独りぼっちの寂しさから逃れようとしていた。
「麗蘭、入るぞ」
不意に、風友の声がした。箸を置いて背筋を伸ばし、手を膝上に乗せる。
「はい、風友さま」
襖が開き、風友が入って来る。自分と同様に、師が朝餉の膳を持って来たのを見て、麗蘭は目を瞠った。
「食事は独りでするものではない。私も共に取ろう」
そう言って襖を閉め、麗蘭の向かいに腰掛ける。長い髪を束ねて後ろに流し、半臂を着た師は何時も通りだが、彼女の端然とした姿を前にすると不思議と身が引き締まる。
「お早うございます」
「お早う」
改めて挨拶をする麗蘭には、気まずさが表れていた。本人は押し隠している積もりなのだが、目を合わせようとせず俯いたままで、居た堪れないのを繕えていない。
週に二度の瞑想の日、普段なら師は食事を取らない。にも拘らずこうして来てくれたということは、己が不甲斐無いのを見かねたのであろう。
膝を付き合わせると、風友は目の前に置かれた箸を取った。
「冷めないうちに食べよう。戴きます」
「はい。戴きます」
師に続き、麗蘭も食べるのを再開する。今朝の献立は、昨日麗蘭が狩って来た雷鳥の煮込みだった。
「最近は、食材の調達もおまえに任せきりだな。毎日助かっている」
「お役に立てて嬉しいです」
風友は、男子には弓や剣も教えている。女子で教えたのは麗蘭一人だが、彼女が最も上達が早く優れていて、特に弓については大人顔負けの腕前だった。
「昨日琿加将軍にお会いしたが、またおまえの弓を褒めていた。いずれ自分の軍に欲しいとまで言っていたぞ」
「琿加さまが?」
沈んでいた麗蘭の目が、途端に光を取り戻す。名高い妖討伐軍を有する白林の将に賞賛されたと聞き、嬉しくて堪らなかったのだ。
「おまえは将来、軍に入りたいのか」
其の問いに、麗蘭は迷い無く首を縦に振った。
「はい。十六に為ったら国のために力を尽くしたいと思っております」
十六歳というのは、風友が士官学校を首席卒業し、禁軍に入った歳である。其の話を聞いてのことなのだろう。
「あの、風友さま」
また、急に思案顔に為ると、麗蘭は茶碗の上に箸を置いた。
「私はあと数年で学校へ行ける歳に為りますが、風友さまは私を此処からお出しに為るお積もりですか?」
数瞬、風友は反応を悩んだ。
「自分でも分かっているとは思うが――おまえには、皆には無い力が有る。ゆえに私は、おまえを出来る限り此処に置いておきたいと思っている」
返答を聞いて、麗蘭は安堵の胸を撫で下ろした。
「ありがとうございます。私も、風友さまのお側に居とうございます」
――風友さまは、分かっていてくれた。
孤校の子供たちは、麗蘭の強過ぎる力に怯えて疎外する。何人もの子が共に暮らしているというのに、麗蘭にだけ友と呼べる者が居ない。
国のために戦うという大きな夢を持ってはいるが、幼い麗蘭の世界は大部分が此の狭い孤校に占められている。
確かに苦しい毎日だった。だがたとえ除け者にされようと、風友が許してくれるのなら其れで良い。溶け込めない孤校から出たいと思ったことも、無くはない。しかし敬愛する風友と共に居たいという気持ちの方が勝っていた。
「今日は天気も良いし、授業が終わったら剣の稽古の続きをしよう」
「はい、お願い致します!」
無邪気な喜色を湛えながら、きりりとした面持ちを崩さぬ麗蘭は、明るい声で答えた。先刻とは打って変わって晴々とした彼女の表情に、風友も穏和な笑みを漏らした。
未だ己の宿を知らない彼女だったが、受け入れる準備は早くも出来始めている。其れは風友の教えの賜物か、或いは神巫女として無意識に受けた天啓の為せる業なのか――