五.幕開け
妖王との邂逅の後、麗蘭が目を覚ましたのは、孤校に在る自室だった。
畳上に敷かれた布団に寝かされ、風友に見下ろされている此の状況は、以前にも経験が在る。あの時と異なるのは、師に加えて優花の顔も有ることだ。
「麗蘭! 気が付いた?」
「ゆう……か」
「良かった、良かったよお!」
麗蘭が弱弱しく友の名を呼ぶや否や、優花は歓声を上げて飛び付こうとした。
「優花、無体はよしなさい」
傍らの風友が優花を制止し、窘める。しかし師の顔も、安堵と喜びに満ちていた。
森での戦いで気絶してから、其の後の経緯が分からぬ麗蘭は、混乱しつつ一先ず身を起こそうとする。深い傷を負った右肩は痛み、受けた邪気の所為か身体が重く麻痺している。
「優花が助けてくれたのか?」
起き上がるのを諦め、横臥したまま尋ねる麗蘭に、優花は困ったように頷いた。
「あいつは元々、麗蘭を殺したりする積もりはなかったんだと思う。麗蘭が気を失ってから直ぐに居なく為ってしまったの」
優花が言うには、妖王が消えた後に異空間は消失し、何時の間にか阿宋山に戻っていたらしい。自分の着物を裂いて麗蘭の傷口を止血し、優花本来の姿――大鷲に変化し、麗蘭を背に乗せ風友の結界付近まで戻って来たという。
妖の姿では結界の内には入れないため途方に暮れていたが、折良く風友と会い、無事に麗蘭を連れ帰った。風友もまた、大妖・玉乃の妖気に感付き孤校の周辺を探し回っていたのだ。
「優花から聞いた。妖王と戦ったそうだな。本当に、良く無事でいてくれた」
自分の力及ばぬところで、麗蘭や優花が非天に脅かされたと知り、風友はまたも悔しさと無力感を味わわされた。されど、難所を切り抜けた彼女たちを、誇らしく思う気持ちも有った。
「風友さま。私は、妖王に一矢も報いることが出来ませんでした」
無念の面持ちで言う麗蘭に、今にも泣き出しそうな顔をした優花が頭を振る。
「何言ってんの、無事だっただけ良かったよ。本当に麗蘭が死んじゃうかと思ったんだから」
風友も、麗蘭の敗北を責めはしない。
「優花の言う通りだ。次の戦いに勝てれば良いのだから、今は幸運に感謝し、ゆっくり休みなさい」
優しい師の労いに頷きながらも、麗蘭は口惜しげに息を吐いた。
少しして風友が退室し、麗蘭は優花と二人だけと為った。そして優花も一度席を立ち、麗蘭のために白湯を取りに行こうとした。
「優花」
背中から呼び止められると、優花は涙に濡れた目元を拭い、にっこりと笑って麗蘭の方へ振り返った。
「優花、助けてくれてありがとう。そして――済まない。危ない目に遭わせてしまったな」
神巫女という存在ゆえに避けては通れぬ、非天との争い。優花に敬遠されぬよう、そして面倒事に巻き込まぬよう、麗蘭は自分が光龍であるのを告げまいとしていた。しかし結果として、妖狐や妖王との戦いの場に連れ出してしまった。
「まあ、確かに……麗蘭が光龍だってことは、もっと早く知りたかったかも。凄くびっくりしたもん」
心なしか、優花の目と声に不満が表れていた。
「す、済まぬ」
麗蘭が焦っているのを見て、優花は再び口元を綻ばせた。
「水臭いのはもう、無しね」
屈託無い優花の笑みは、麗蘭の心底で、今までに無い決意をさせた。
――強く為りたい。何者にも屈することの無い本物の強さ。使命のため、自分のため、そして、私のことを大切に思ってくれる……私が大切に思う人たちのために。
苦悩を経て、漸く出会えた真の友の前で、誓う。強く、誰よりも強く為ることを。
夜の帳が下りた頃。阿宋山から去った妖王は、住まいの一つとしている琅華山へと戻った。同族たちの待つ岩室へと向かう途中、妖霧立つ森の中で、突として血を分けた邪神が姿を現した。
「態態お出ましとは、異母兄上」
右手を胸に当てた妖王は、半歩退いて恭しく一礼した。
「久方振りだね、翠」
父である天帝も、実母である女神・新羅女も亡き今、妖王を真の名で呼ぶ者は此の黒神だけである。
異母兄の姿を見るのは千五百年振りだが、外見は殆ど変わっていない。人間で言うところの、二、三歳程大人びて見えるだけだ。尤も、年月を経たから成長したという訳ではなく、黒神の気分が表れているに過ぎないのだが。
「今宵のように月が見事な夜は、あの夜を思い出す。天の城で僕が父上を殺し、君が僕の母上を殺し、兄上と剣を交えた――あの夜を」
皓月を見上げる黒神は、楽しい出来事を回顧するかの如く微笑んでいたが、瞳は空虚であり真意は読めなかった。
「もう一度あんたに会ったら、訊いてみたいことが有った」
其れは、長い間妖王の心の片隅に存していた疑問である。
「あの時、如何して態と負けた? あんたの力は天帝を上回っていたはずだ」
天帝と戦った妖王は、己は天帝に敗れたものの、其の後に戦う黒神は必ず勝つだろうと目算していた。結果を知り、如何にも納得出来ず、何か訳が有るのだろうと踏んでいた。
「神気の量や大きさだけで、勝敗が決まる訳ではない。兄上を侮ってはいけないよ」
含みの有る言い方だったが、黒神がそう言っている以上、左様に解釈せざるを得ない。
「態と、と言えばね。兄上は僕を殺せたのに殺さなかった。あの情け深い御心を、事も有ろうが僕にまで向けたんだ」
皮肉を込めた黒神の言葉には、諦めとともに静かな怒りが混ぜられていた。
「止めを刺していれば、疾うの昔に全てが終わっていたのにねえ」
笑んではいるものの、目は全く笑っていない。黒神は心の底から怒っている――妖王にはそう感じられた。黒神の強い憤りを初めて目にし、妖王は興味を抱くと同時に震え慄いた。
「君も、兄上の親愛と慈悲で命拾いしたんだろう? 誇り高い君からすれば、さぞや屈辱だったろう」
妖王をも身震いさせる冷気を鎮めたかと思えば、黒神は異母弟の癇に障る問いを敢えて投げ掛ける。妖王の答えは是であり、この千五百年のうちで腹癒せに様々な悪事を為してきたのだが、封じられていたはずの黒神は何処まで知っているのだろうか。
挑発に乗らずとも何も返さずにいた妖王に、黒神は別の問い掛けをした。
「僕が封じられている間、巫女たちをずっと見ていたんでしょう。其れで、『麗蘭』を如何思う?」
意図が読めぬ質問に妖王が眉根を寄せていると、黒神が付け加えた。
「麗蘭は、僕を殺して此の戦いを終わらせられると思う?」
ふとした疑問、ではなく、黒神は本気で問うていた。妖王の直感だが、何らかの答えを求めているように見受けられた。
過去に会ってきた光龍と、麗蘭という娘を比べ、先ずは真剣に考えてみるが、一度会っただけでは断言出来かねる――其れは黒神も承知のはずだ。天帝の巫女である麗蘭は、妖王のみならず黒神の手すら届かぬ存在なのだから。
詰まらぬ答えを返しても仕方が無いので、此処は試してみることにした。
「あの娘は、今までの光龍たちとは毛色が違う。あんたを殺したい程憎まずして、全力を出し切れるだろうか」
そう述べたところ、黒神は血も凍るような笑顔を浮かべる。妖王は数瞬とはいえ、目を見開き絶句する程の驚きに打たれた。
邪心が一切無い、純真な少年のような、眩しくももの恐ろしい表情。『天宮の戮』以降見せなく為った顔だが、天上に居た頃には何時も覗かせていた静謐で優しげな顔である。
不思議なことに、黒神の様子は『あの頃』と今とで全く異なっている。だが妖王は、どちらの異母兄も好きには為れなかった。
「案ずるな。麗蘭は必ず僕を憎悪する。僕という存在を此の世から消さずにはいられなく為る」
自信に満ちた黒神に、妖王は麗蘭の未来を哀れんだ。目的を達するのに手段を選ばぬ此の邪神は、言葉の通りにするため凡ゆる悲劇を引き起こすであろう。
「人間たちの怨嗟や殺意など、与えて奪うだけで容易く生まれてくる。君は静観を決め込むのだろうから、楽しみに見ていると良い」
其処まで言うと、黒神は森閑とした暗闇へと帰りゆく。麗蘭や、麗蘭が守るべき人々の大切なものを玩弄して奪い尽くし、絶大なる悲憤を誘うために。
妖王から遠ざかり、声も届かなく為ったところで、黒神は木々の隙間に浮かぶ満月を仰ぐ。
「僕も己の『為すべきこと』を為し、麗蘭との戦いを始めよう。其れが、愛しい君にしてやれる、唯一の償いだから」
――定めの少女・麗蘭の、生涯に亘る戦いの幕開けが迫っていた。
荒国に蘭 完
第一部「金色の螺旋」へ続く
■これにて物語はおしまいです。
本編第一部「金色の螺旋」に続いていきます。
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■よろしければ、次話の後書きもどうぞ。お読みいただきありがとうございました。




