四.翡翠の君
何かの力に操られた優花は、大妖と戦う麗蘭を残して一人彷徨い歩き、暫し後に漸く正気を取り戻した。
「此処は」
辺りを見回し、奇妙な様相を認める。森の中に居るらしいが、阿宋山の森とは違う。樹々は紫色で生命力に欠け、空も青ではなくくすんだ紅色をしているし、有るはずの風の匂いも無い。
「半妖の子供、か」
背後からの声に振り返ると、灰青色の巨石を削り拵えた椅子に、初めて見る大人の男が座していた。
男の姿を目にした瞬間、優花は驚愕と畏怖の余り微動だに出来なく為った。此の世のものとは思えぬ翠玉色の長髪と瞳に、妖族特有の尖った耳を持つ男は、彼女の理解を超えた妖艶さを纏っていたのだ。
首や肩に掛けた黒い毛皮を撫でながら、男は優花へ双眸を向けている。切れ長の目に見詰められているだけで胸が激しく鼓動し、視線を逸らしたくても逸らせなく為ってしまう。
「『半分』とはいえ、おまえは俺の血を継いでいる。ゆえに、寄せられたのだろう」
血を受け継いでいると言われ、優花は亡き父の顔を思い出した。朧に残る面影の父の容貌は整ってはいたが、目の前の美丈夫と比すると次元が違う。
そもそも、父は正真正銘の人間であった。妖とは何ら関係の無い善良でひ弱な男だったが、人の形を取った邪な母に魅入られ不幸に為ったという。
優花を血族と呼ぶ此の男は、妖族である母の縁者なのだろうか。母の姿を見た記憶すら無い優花には分かりかねる。
「あ、貴方は」
恐る恐る口を開くが、身体が震えて続けられない。己の両腕をかき抱き、ずっと胸に引っ掛かっている何か――狐の妖が言っていた「主君」を思い起こす。
『我ら妖族の父であり、王であられる方』
翡翠色の男は、端整な顔に鳥肌が立つような麗しき笑みを浮かべた。
「気安く口には出せまい。だが、俺が何者であるか、おまえは既に知っているはずだ」
其の言葉を受けた優花は、遂に確信するに至る。此の男こそが『妖王』であり、大切な友である麗蘭を誘き出そうとしている敵なのだ――と。
「娘、名を何という」
「私は、ゆ――」
優花とて、麗蘭の敵にそう易々と名乗りたくはない。だが不可思議なことに、そうした意思に拘らず、当然の如く名を口にし掛けている自分が居た。
其の時、浅紫色の森の向こうから、大きな白い獣が現れた。優花の横を風のように過ぎて、一直線に妖王の許へ走り寄る。
「玉乃」
王に名を呼ばれ、玉乃は一瞬にして狐から人の姿に変化した。何も身に着けていない白い肌、白い髪の若い美女の姿だが、両手で抑えた額から血が大量に流れているのが痛々しい。
泣きながら縋る玉乃を抱き寄せた妖王は、彼女の手を傷口より離させ、自身の片手で静かに抑えてやる。
「光龍の矢を防ぐ結界術を施してやっていたが、破られたようだな」
妖王が呪を唱えて妖力を注ぎ、見る間に刺傷を塞いで行く。治り切ったところで、今度は聞き覚えの有る少女の張り声が聴こえきた。
「優花!」
呼ばれた方を見やると、全速力で駆けて来たのであろう、息を切らした麗蘭が立っていた。
「麗蘭」
互いの無事を確認し、麗蘭も優花も先ずは安心する。妖王は腕の中で怯える玉乃の髪を撫でながら、麗蘭を注意深く見詰めていた。
「光龍は、相変わらず我が同胞には容赦が無い。女の顔に傷を付けて、憐れとは思わないのか」
只の一言で畏懼の念を起こさせる低声が鳴り、麗蘭は右手に持つ剣を強く握る。左手も鞘に添え、何時でも抜けるよう体勢を整えた。
「貴様が妖王だな」
強気に呼び掛けたが、敵の放つ威圧感にかつて無い緊張を覚えていた。神仙かと疑う程の麗姿に秘めた尋常でない妖力は、底が見えず測り難い。神代、天人として君臨していたというのも頷ける気がする。
答える代わりに片頬に笑んだ妖王は、玉乃を立たせて下がるように目配せした。傷の癒えた女妖は再び妖狐に変化し、何処かへ走り去って行った。
――似ている。天帝陛下と、黒龍に。
双神とは異母兄弟であるという妖王は、顔の造りが何処と無く彼らに似ていた。人の年齢で言えば二十代の終わり頃というところで、兄である彼らよりも歳上に見えたが、神や妖異には外見の年齢など然程意味を為さぬのだろう。
玉乃が去ると、優花が麗蘭の側へ行こうと走り出した。しかし妖王は許さず、下僕に命ずるが如く言い放つ。
「動くな」
何か力を振るわれた訳でもないのに、優花は妖王の言葉に抗えずぴたりと立ち止まる。其れどころか、彼が軽く手招きすると足が勝手に応じてしまい、意に反して近付いてゆく。
「うそ、何で?」
当惑しつつも妖王の傍に歩み出て、地に膝を付いた優花は、麗蘭に青褪めた顔を向けた。麗蘭もまた、焦りの色を見せている。
「此の娘は妖族であるがゆえ、俺の命には逆らえぬ。此れも世の『理』の一」
石の玉座から立った妖王は、徐に腰を落として優花の首筋に冷たい指先で触れる。優しげな仕草とは裏腹に、麗蘭へ向けて脅迫めいた台詞を口にした。
「俺の女を酷い目に遭わせた仕返しに、友人の顔を潰してやろうか。そうでもしなければ気が治まらん」
気丈な優花が目に恐怖を浮かべたのを、麗蘭は見逃さなかった。頭に血が上り、勢い良く剣を引き抜いて敵へと切先を向ける。
「優花を離せ!」
まんまと麗蘭の戦意を煽り、妖王は満足げに笑んで立ち上がった。
「威勢が良いところは、実に光龍らしい」
敵が優花から手を離した瞬間、麗蘭は呪を唱えて刀身を神気で包み、走り出した。妖王は毛皮の肩掛けの下、腰に差した大剣を抜き、麗蘭の振るう剣を受け止めた。
剣から手、腕へと、振動と共に邪悪な剣の力が伝わって来る。鈍色に光る、石のようなもので鍛えられた妖王の剣は、明らかに普通ではない。神気を纏わせた麗蘭の剣が、喚声を上げて震えていたのだから。
幾度か打ち合わせたが、妖王が手心を加えているのは明白だった。受け続けるのみで隙が有っても攻めに転じず、麗蘭の力を試しているように見受けられた。
――此の男、桁違いに強い。
焦燥を募らせてゆく麗蘭だが、何とか活路を見出そうとする。されど刀を合わせれば合わせる程、歴然たる実力差を見せ付けられる。
麗蘭の連撃をいなしていた妖王は、やがてほんの僅かな力を込めて、彼女の剣を弾き落とした。武器を手放した麗蘭は、首筋に刃を当てられ完全に動きを封じられた。
「此処に居るうちは、師は助けに来ないぞ」
此の地は阿宋山ではなく、妖王が作り出した別空間のため、風友といえど妖気を感知出来ない。言われずとも、麗蘭はとっくに見抜いていた。
「少し、話をしようか」
意外な妖王の発言に、麗蘭も、固唾を呑み見守る優花も目を丸くした。
「千五百年間。俺はおまえたち光龍と、闇龍たちが殺し合う様を見続けてきた」
彼の口振りは、まるで昔を懐かしむかのようなものだった。
「闇龍は黒神の封印を解こうとし、光龍は其の度に阻止をする。今ほど力が衰えていなかった天帝も、時に光龍に手を差し伸べていた」
伝承に依れば、千五百年前の『奈雷』から数えて五百年毎に光龍は生まれ、同時期に闇龍も生きている。麗蘭は、四人目の光龍ということに為る。
前世の巫女たちの争いは伝説や神話として残され、広く伝えられている。妖の王として長き時を生きた妖王は、其れらを己が目で見て来たと言うのだろう。
「生まれては死に、魂としての定めを終える人の『理』を外れて戦い続けるのが、おまえたち『神巫女』の運命。だが、今生の戦いは今までとは違う」
疑問符は付いていないものの、妖王は麗蘭に底意を当てさせようとしていた。
此れまでの巫女たちとの違いについては、麗蘭にも容易に察しが付く。光龍が転生を繰り返す中で、何時か必ず倒さねばならぬ宿敵、黒神の存在である。麗蘭の生きる今生では、彼の邪神が復活しているのだ。
「黒龍を斃せば果て無い戦いは終わる――そういうことか」
前世の巫女たちとは異なり、麗蘭は黒の神を葬る好機を与えられている。彼女は己の答えに自信を持っており、妖王も否定はしなかったが、嘲るように一笑した。
「斃すだと? おまえが、奴を?」
態とらしく聞き返した妖王が、麗蘭の首に当てた刀身を微かに動かした。冷たさが伝わり、彼女は思わず喉を鳴らす。
「俺の見立てでは、奴は千五百年前の『天宮の戮』の時よりも更に凶悪かつ強大に為っている。天界の名だたる神々が抑えられなかった奴を、『開光』すら遂げていないおまえが、如何やって斃すのだ」
耳が痛い指摘だが、麗蘭は怯まない。二年前に『開闇』した瑠璃との力の差を見せ付けられ、打ちひしがれた時に、魂の主に託された言葉を思い出す。
「私は『為すべきこと』を為す。今は貴様を下して優花を助け、共に孤校へ戻る」
剣を手放し、首に刃を当てられている状態で、何故未だ覇気が残っているのか。勇気を挫かれること無く、立ち向かおうとしているのか。麗蘭自身にも良く分からない。
「やってみるが良い」
愉しげに言った妖王だが、次の刹那に顔色を一変させる。麗蘭が左手で首元の剣を掴み、押し除けたのだ。
素手で掴んだため、掌に刃が喰い込み血が滲む。麗蘭は痛みに顔を顰めたが、妖王が動じた一瞬を狙って彼の間合いから離れ、落とした剣を拾い構えた。
麗蘭が攻撃に移るよりも早く、妖王は呪を唱えて術を発動していた。剣先に集めた妖力で槍の穂に似た閃光を作り、麗蘭に向け振り払う。避ける間も、神術で防ぐ間も与えられなかった麗蘭の右肩に直撃し、彼女の身は強い衝撃で後方へ吹き飛ばされた。
「麗蘭!」
悲鳴に近い声で叫びながら、優花が麗蘭の許へ駆け寄った。息は有るが正体を失っており、目を閉じたまま反応が無い。
「身体が保たず、気を失っただけだ。傷は大事無い」
事も無げに言って剣を鞘にしまい、ややずれた肩掛けの位置を直して優花を見やる。敵愾心と懼れに浸って尚、強い眼光を向けてくる半妖の少女に、妖王は酷薄そうな口元を緩めた。
「だが、血は止めてやれ。其れくらい出来るだろう」
友を痛め付けた男を睨まえる優花は、彼が此れ以上危害を加える積もりが無いのを見て取り、戸惑った。
「ところで、おまえの母親のことだが」
唐突に話を振られ、優花は益々耳を疑った。
「少し前まで、俺の許に居た。人間の男を愛したとかで苦しんでいたが、おまえを産んだのを悔やんではいなかったようだ」
つい先刻、此の男と初めて見えたばかりで、母親のことなど話してはいない。にも拘らず、何故さも見知ったかのように言うのだろう。
「本当に?」
非天の君主の言など、まともに受け取ること自体如何かと思ったが、つい聞き返してしまう。
「おまえと同じ淡金の瞳と、素晴らしい翼を持った女だった」
昔、一時期だけ優花を引き取ってくれた父方の親族は、妖族の母を口汚く罵っていた。父を誘惑して苦しめただけでなく、優花という災厄を産み落とし、周りの人間を破滅させたという。
だが、優花は信じたかった。父と母は愛に依って結ばれ、其の証として己が生を受けたのだ、と。たとえ本当に母が邪悪だったとしても、心から父を愛し、愛されていたのだと。
妖王の一言は、そんな想いに応える穏やかなものだった。
母は未だ生きているのか、生きているなら何処に居るのか――問いを重ねようと、優花が口を開き掛けた時、妖王は突然踵を返した。
「行け。早く運ばないと、他の妖に襲われるかもしれないぞ」
言い置いて、引き止める時すら残さず、妖王は姿を消した。一呼吸して我に返った優花は、自分の着ている着物を裂いて包帯代わりにし、麗蘭の右肩や左手の止血を始めるのだった。




