二.出会い
爽やかな草色の田園風景、緑葉豊かな桜木の下に、少女が一人で佇んでいた。
肩下まで伸ばした濃紺の髪に、淡い金色の瞳が良く映える。目鼻立ちははっきりしており、幼き頃より重ねてきた苦悩のためか、年齢よりも大人びて見えた。
「阿宋山との分かれ道に在る、鼠色の石の道標――此れかな」
出立前、病床の師に示された道を行き、伝えられた地点まで辿り着いた。石標の位置で待っていれば、阿宋山の孤校の者が迎えに来てくれる手筈に為っていた。
此処は農地や森に囲まれており、彼方此方で畑仕事に勤しむ人の姿が見える。目指す阿宋山の方角には森が在り、迎えはそちらから来るものと思われた。
少女は優花という名で、今年十四に為るが、見知らぬ地を一人旅するのは初めての経験だった。無事に到着し、軽い達成感を得て一安心していた。
前居た孤校で苦労してきた優花にとり、今日は大事な日だった。此の後何年世話になるか分からない新しい孤校を、初めて訪れる日なのである。
――新しい先生や新しい門生と、上手くやれると良いんだけど。
幸い、前に世話に為っていた老齢の女師匠とは良好な関係を築けていた。門生たちとも色々有ったが、『友人』が居た時期が無いわけではない。いずれも長続きはしなかったが。
――高望みしちゃいけない。静かに暮らせていければ十分と思わなきゃ。どうせ私は「半分」なんだし。
昨日、元居た孤校を出てから、道中ずっと考えていた。己が人間の少女ではないのを隠すために、何に注意し如何振る舞えば良いのか。普通の子らしく為るために、何が必要なのか。
考え事に集中していた所為か、背後の森から人がやって来るのに全く気付かなかった。
「そなたが伯優花か」
突然呼び掛けられ振り返ると、立っていた少女の美しさに身体が固まった。
「あ、は、はい!」
驚きの余り、返事の声が上ずってしまう。思わず何度も瞬きをして両目を擦るが、夢ではないらしい。
「私は風友さまの門下、清麗蘭という。そなたを迎えに来た」
同門の少女と分かり、優花は漸く力を抜いた。
「態態ありがとう。助かるよ」
礼を言うと、麗蘭の見目好い面貌に頬笑みが浮かぶ。彼女がほんのすこし笑んだだけで視界に輝きが溢れ、優花の口からは自然と溜息が漏れていた。
小さな森を出ると、景色が変わり視野が開けた。今日は雲一つ無い晴天のため、空の紺碧色に山を覆う青緑色が調和している。
田圃や畑の間を通る一本道を、阿宋山へ向け二人並んで歩いて行く。時々擦れ違う村人たちに挨拶をする麗蘭は、顔が広く彼らに好かれているように見えた。
「優花はどこから来たのだ?」
「紫瑶だよ。数年あちらの孤校に居たのだけど、先生が身体を悪くして閉校になっちゃって。門生は皆ばらばらに他の孤校へ引き取られて、私は一人でこっちに」
紫瑶と聞いて、麗蘭の目が好奇に輝く。
「都生まれの都育ちなのか」
「外れの方だけどね。遠くてお城は一度も見たこと無いんだ」
そうは言っても、帝都内で生まれ育ったのは優花の細やかな自慢だった。
「前の先生と風友さまが古い知り合いで、其の伝手で」
実際のところ、風友の孤校以外から受け入れを拒絶されたのだが、初対面の麗蘭に其処まで明かす勇気は無かった。
「風友さまってとても立派な方なんでしょう? 私は運が良いって、先生が何度もおっしゃってたよ」
璋風友という人物は、先の大戦で功績を残した風友上将軍其の人だと聞いている。出自の問題から、優花の入門を許可してくれる師がなかなか見付からなかったため、風友には感謝してもし切れなかった。
「ああ。私も風友さまの許で学べるのを誇りに思っている」
師を褒められたためか、麗蘭は嬉しげに頷いた。こうして彼女が笑む度に、親しみと好感を増してしまうのだから、優花からすれば美人というのは本当に羨ましい。
「孤校では私が同室に為る。今日からよろしく頼む」
「うん、よろしくね!」
気さくな麗蘭が同じ部屋と分かり、優花の不安心は軽く為った。
――私が「半分の子」だってばれないようにしなきゃ。ばれたら麗蘭だって、嫌がるに決まってる。
前の孤校では皆に素性を知られていたため、同室に為ってくれる者は一人も居なかった。新しい土地で、今度こそ平穏な毎日を送るために、失敗は許されない。
田畑、野山のみという景観で、正面方向に小さな家々が現れ始めた。阿宋山山麓に横たわる集落の入り口らしく、食材や雑貨などを店頭に並べる店も在る。
「もう直ぐ正午だな。空腹ではないか」
「朝出る時食べた切りだから、一寸空いたかも」
「では、此の先の店で団子でも買っていこう。風友さまからお金を預かってきたのだ」
団子、と聞いて、優花の表情がぱっと明るく為った。
「良いね! 味は?」
「豆を砂糖で煮て作った餡を塗したものと、胡麻を塗したものが有ったはずだ。どちらも美味しい」
道すがら、楽しくおしゃべりしながら、村を抜けて阿宋山へと入る。山歩きは慣れていない優花であったが、麗蘭と話していると疲れを感じなかった。
新しい孤校での初日は、優花の恐れていた通りには為らず、問題無く終えることが出来た。
着いた時、十人近くの門生たちに迎えられてたじろいでしまったが、思いの外温かい子供たちの眼差しに胸を撫で下ろした。
麗蘭に連れられて風友と対面すると、頭で描いていた女性とは大きく異なる印象を抱いた。元将軍で夫も持たないという点から、男性的で厳格な人物と想像していたが、優しげな雰囲気は母性を感じさせた。
前の師は、優花の複雑な事情を風友に伝えていた。麗蘭も居る手前、さり気無い一言ではあったが、風友は優花に労いの言葉を掛けた。
休日であるため授業は無かったものの、麗蘭の案内で孤校の中を回ったりしているうちに夕刻に為っていた。夕餉までの時間、暗く為る前に、麗蘭の勧めで湯浴みをすることに為った。
孤校の建屋にも浴室は有るが、麗蘭が連れて行ったのは、風友が張った結界の外に在る野湯であった。森の中に自然に出来た窪みに白濁の温泉が湧き出しており、十人くらいは入れるであろう大きさだった。
「すごい、広いんだね!」
感嘆した優花は、衣服を脱いで掛け湯をし、岩石の湯船に足の指先を浸してみる。熱過ぎずぬる過ぎない温度が丁度良い。
「此の場所は風友さまと私しか知らぬ。静かに過ごしたい時にはうってつけだ」
そう言いながら、麗蘭も優花に続いて湯に入った――左肩が見えないように――優花の左側へ腰を下ろした。
「他の皆は来ないんだね。離れているから、知っていても風友さまか麗蘭が一緒じゃないと来られないんだ」
優花はふと、疑問に思う。そんな秘密の温泉を、何故今日会ったばかりの自分に教えてくれるのだろう、と。
水面から立ち昇る湯気のため、只でさえ白い麗蘭の肌が一際輝いて見える。近くで見ると、何も纏っていない所為も有ってか更に、神秘的な美しさが漂っていた。
己が見惚れられているのにも気付かず、麗蘭は優花と全く異なることを考えていたらしい。暫し沈黙した後、唐突に切り出した。
「優花は、妖の血を引いているのか」
「あ……うん」
驚いた優花は、自身の肩を抱いたり頬を叩いたりする。入浴中の今は、肌身離さず身に付けている妖力封じの札を持っていない。妖の姿に変化しているのではないかと焦ったのだが、ちゃんと人形を維持出来ていた。
「こんなに早く当てられたのは初めてだよ」
前の孤校で辛い思いをしてから、札を持っていない時も妖気を漏らさぬよう制御に努めている。其のためか優花の声は、僅かだが震えていた。
「もしかして、風友さまに聞いたとか?」
「いいや。少しだけ、気を読むのが人より得意なのだ」
人間の父と妖の母を持つ優花の本性は『半妖』である。此れまで、其の事実を知って尚優花と友で居続けたものは皆無だった。だから麗蘭にも、可能な限り隠し通したいと思っていた矢先だった。
「ごめん、嫌だよね? 半妖の子と同室なんて」
問うた優花の顔は諦めに沈んでいたが、麗蘭からの応えは意外なものだった。
「何故だ?」
逆に問い返され、優花が返答に困っていると、麗蘭は空を見上げた。
「以前、妖討伐の際、討伐士の中に半妖の女剣士が居た。年少の私の面倒を良く見てくれたし、戦いでも大活躍をしていた」
立ち居振る舞いや身のこなしから、麗蘭が武術に優れているのは予想していたが、妖討伐に参加しているなどとは思ってもみなかった。
「済まぬ、そなたの片親は妖族なのだったな。妖討伐の話など相応しくないだろう」
「ううん、良いの。確かに母が妖なんだけど、この姿で居ることの方が多い『人より』なんだ。其の剣士さんと同じだと思う」
嘘偽りの話ではなかった。早くから人の世界に溶け込んでいたため、優花自身は人であるという意識が強い。
「半妖が人形を取り続けるのは難しいと聞く。もし、変化したい時が有れば、此処なら心置き無く出来る」
其処まで聞いて、優花は麗蘭が此処を教えてくれた理由を悟った。半妖だと気付いたうえで、気に入りの場所を提供してくれたのだ――と。
麗蘭の偏見の無さと思いやりに触れ、優花は感激と戸惑いを同時に覚えた。己が感じている以上に、多くの傷を負ってきたがゆえに。
――此の子となら、本物の友達に為れるかもしれない。
浮かんでは儚く消えて行った望みが、明るい光を放ち生まれ出でた気がした。此の時は未だ、麗蘭も同じ気持ちでいるとは思ってもみなかった。
嬉しく為り、優花は人差し指の中程で鼻を擦る。
「麗蘭は同い歳くらいだよね? 私、今十四だけど」
「同じだ」
「其の歳で大人に混じって妖討伐をしているなんて、すごいね。力の強い神人だっていうのは何となく分かるんだけど」
長けているというわけでもないが、優花も気を読むことができ、只人と神人の見分けは付く。
「ありがとう。幼少より修練している弓術と、神力の強さしか取り柄が無いのだ」
謙遜にしか聞こえず、優花は首を傾げた。
「そんなこと無いでしょ。麗蘭みたいな美人、見たこと無いよ」
本当は『美人』という単語一つでは表し切れない美麗な容姿だと思っているのだが、もっと良い表現が咄嗟に出て来なかった。
褒められた麗蘭は、きょとんとして優花の顔を覗き込む。
「そうか? 私はおまえの金色の目の方が美しいと思うが」
至近から見詰められ、優花は気恥ずかしさに目を逸らした。未だ麗蘭の美々しさを見慣れておらず、近くに寄られると緊張してしまう。
「そ、そろそろ出ようか。早く帰らないと日が暮れちゃう」
此の日――麗蘭と優花は友に為った。
麗蘭は優花の秘密を知ったが、己の左肩に刻まれた御印を彼女に見せようとはしなかった。今は未だ、其れだけの覚悟が無かったのだ。




