一.迫る宿命
闇を司る巫女、瑠璃との出会いと決別より二年――麗蘭が十四歳に為って間もない頃。風友は十四年振りに、皇宮・燈凰宮に御座す聖妃に召し出された。
七年前に甬帝が崩御した少し後、聖妃は夫の後を継ぎ女帝として立った。麗蘭の代わりに第一子として通している蘭麗が継ぐところだが、現状では不可能なため、臣民からの信頼も厚い聖妃が即位したのだった。「恵蓮」という名の一字を取り、今では恵帝と呼ばれている。
麗蘭を預かり育て始めて十四年、風友は極力都に立ち入らないようにしていた。公主を託された只一人の臣下として、周囲より誤解を招かぬよう将軍職を辞した決断を、無駄にしないために。
年に数回紫瑤に戻る際も、皇宮には決して近付かない。都に在る実家・名門璋家の屋敷を訪ねたり、知己を訪ねたりするのみに止めていた。其の際も、下様に隠した公主を育てているのはもちろんのこと、公主の存在自体も身内にすら漏らさなかった。
女子なら十四、五歳とも為れば大人と見なされる。麗蘭がそうした年頃に為った今、呼び出されたということは、前に進むべき時が迫っているのは明白。麗蘭が本来在るべき場所へ戻り、生まれながらにして定められた宿を果たす、其の時が。
密かに皇宮へ参殿した風友は、正殿・陽彩楼へと真っ直ぐに向かった。女官長の明祥に案内され、前室で待たされること無く速やかに恵帝の居室へ通された。
「お久し振りです、風友」
淡い藤色の深衣を纏った女帝は、古くからの忠臣を御簾で隔てずに出迎えた。少女だった主は大人に為り、絶佳と褒め称えられた美貌により磨きをかけていたが、可憐で華奢な印象は変わらなかった。
「ご無沙汰しております」
片膝をついて頭を垂れた風友は、以前と何も変わらぬ忠誠を示す。
「遅ればせながら、甬帝陛下ご崩御、お悔やみ申し上げます。そして、国主と為られた陛下に心からのお祝いを」
「ありがとうございます。面を上げてください」
風友は顔を上げたが、礼節に則り主の尊顔を直視はしない。恵帝の方は臣下の顔を懐かしそうに見詰め、親しげに声を掛けた。
「十四年経っても変わりませんね、貴女は」
「陛下は益々お美しく為られました」
水面に浮かぶ睡蓮の如き微笑を覗かせると、恵帝は側に在る椅子を指し、風友に座るよう促した。
「貴女が皇宮を去ってから、近くに居ていただければと思う場面が何度有ったことか。けれど離れていても、貴女は事有るごとにわたくしの力に為ってくださいましたね」
「お役に立てて光栄でございます」
軍の要職を務めていた風友は、帝国内外に人脈や情報網を持っている。恵帝のため、国のために助力を惜しまず、陰に潜み貢献してきた。
若くして夫君を喪い娘たちを手放し、帝位という重圧に耐えねばならぬ主を常に案じていた。しかし時が経つにつれ、君主としての恵帝が想像していた以上の非凡さを有しているのに気付き始めていた。
「此の十余年で、紫瑤は目まぐるしく変わりました。此れも、偏に陛下のお力でございましょう」
世辞抜きで賞賛するが、恵帝はほんの数瞬口元を綻ばせたのみで首を横に振った。
「未だ、此れからです。確かに紫瑶は大戦前の様相を取り戻してきましたが、都から離れれば離れる程、民は辛苦しています。茗との戦も、いつ何時再開されるとも知れません」
そう言う恵帝も、珠帝が聖安への侵攻を直ぐに始めるとは思っていなかった。近頃珠帝は他国への侵略の手を緩めており、停戦状態の聖安とも、此れ以上戦う気が無いのではないかと噂されている。数年前、珠帝の人界統一の野望を砕かせる事件が起きたからだ。
「あの一件。茗を襲った『金の竜』が、我が国にも災厄を齎す可能性も十二分に有ります」
恵帝の言う悲劇は、世間に広く知れ渡っているものではないが、風友もある筋から伝え聞いていた。古の時代、一人目の光龍である『奈雷』が封印したと伝えられる怪物が突如放たれ、茗に甚大な被害を与えたのだ。
猛将や智将と聞こえた茗の武人が、邪悪な異形に挑んで次々と命を落とした。幾つもの町や村が滅び、茗人が大勢死んだ。金竜が彼の国に襲来したのは、非道な行いを繰り返す珠帝への天罰だと言う者も居た。
弱みに付け入られるのを恐れた珠帝は、帝国外へ援助を求めず、情報が洩れぬよう徹底した。ある英雄が金竜征伐に成功していなければ、今頃茗は滅亡し、猛威は広がっていただろう。
「『……』上将軍。竜を封じてから青竜将軍などと呼ばれているようですが、彼は幾ら強くても人の身です。陛下のお察しの通り、金竜を封じた身体が長く保つとは思えませぬ」
青竜は風友と並んで人界中に名を知られた剣士であったが、金竜を封じて以降神格化に近い扱いを受けている。されど彼への崇拝は、必ず来たる金竜の復活から目を逸らすための、人々の幻想に過ぎなかった。かつて青竜と同じ上将軍であり、人である彼を知る風友だからこそ――茗と敵対する為政者として、冷静な見方が出来る恵帝だからこそ、左様な実情を容易く見破っていた。
「麗蘭が今世の光龍であるならば、金竜を斃すのはあの子なのでしょうか」
呟くように言った恵帝の声には、我が子を案じる感情が間違い無く含まれていた。
「あの子は如何ですか? 文では健やかであると聞いていますが」
恵帝は翳りを帯び始めていた面持ちに、仄かに明るさを灯して問うた。風友は定期的に主へ書簡を送り、麗蘭の近況を伝えていたが、手紙が誰かの手に渡る危険を避けるため年に一、二度のみとしていた。同じ理由に依り、記す内容も細かには出来なかった。
「陛下に似て、輝かしいばかりに美しくお為りです。お人柄は気高く素直で素晴らしく、武芸も学問も申し分有りませぬ」
「我が娘ですが、其処は心配しておりません。貴女に任せたのですから」
途端に母の顔に為った恵帝は嬉しそうに、得意げに頷いた。そして暫しの間視線を下げ思案した後、再び厳しい顔付きに為り口を開いた。
「二年前、でしたね。あの子の前に天の君が降りられたとか」
「はい。私が非天と見破れずに迎え入れた門生が闇龍であり、姫が危なく為ったところをお助けくださったとのこと」
怪しいと思いながらも瑠璃を麗蘭に近付けてしまったのは、風友の落ち度であった。本人は今でも己の不甲斐無さを責めているが、文で事の次第を聞いた恵帝は、風友の所為とは思っていなかった。人ならざる邪神の手の者とは、人智を遥かに超越した者たちなのだから。
「七年前には黒の神も顕現しています。姫君が神巫女であらせられるのは、疑い無き真実と為りました」
深く頷いた恵帝は、同時に大きく息を吐いた。
「時が来れば、あの子の光龍としての宿が回り出し、戦いに身を投じねばならぬのでしょう。天より神巫女を授けられたわたくしたちは、大いなる存在を懼れ見守るしかないのでしょうか」
帝国の主といえど、天意の下では人に過ぎない。信仰厚く敬虔な恵帝は身の程を弁えており、麗蘭の母としての責務を重く捉えていた。
「陛下。姫君にお会いになれば、屹度お分かりになられます。光龍の化身といっても神ではなく、人であるということを」
十四年前、麗蘭を託され己が手で育てた風友もまた、良く似た重責に圧倒され悩み続けてきた。ゆえに主の憂慮を解し、勇気付け励ますことが出来た。
「とはいえ、姫君は只の人ではなく王と為られる御方でもあります。何時頃御許へお呼びに?」
元より明確な期限は決めていない。麗蘭が自分の身を守り、神巫女としての使命を果たすのに必要な力を付けるまでとの約束だった。風友の問いは、主に依って課せられた重大な使命をやり遂げるために、後どれだけの猶予が残されているかを問うものでもあった。
「あの子が十六に為った時、真実を告げようと思います。其れまでもう暫く、あの子をお願いします」
既に答えを決めていたらしい恵帝は、風友の目を見て間を空けずに言い切った。女帝の命にしては控えめだが、母として切実なる願いを受け取り、風友は粛然と頭を下げた。
日暮れ前。都から孤校へ帰って来た風友は、玄関先で留守を預かっていた麗蘭に出迎えられた。
「お帰りなさいませ、風友さま」
「ああ、ただいま」
上り口で正座し頭を下げた麗蘭の姿を見て、風友はやっと人心地付くことが出来た。紫瑶から休み無く馬を走らせたため疲れ切っていたが、麗蘭の凛とした姿勢を見ると清々しい気分に為るし、奥から聞こえくる子供たちの声が心穏やかにもしてくれる。
孤校で最年長の麗蘭は、相変わらず周囲との関係に苦慮しているものの、適度な距離の取り方を覚えてきていた。武術の腕も格段に上がり、風友が孤校を空ける際も以前より安心して任せられるように為った。
「何か困ったことは起きなかったか」
「はい。皆元気にしておりました」
風友は腰に差した剣を麗蘭に渡し、背負っていた荷を下ろして沓を脱いだ。
「都の様子は如何でしたか」
「取り立てて変わったことは無かった。訪れるたびに、大戦前の活気を取り戻しつつあるのは感じるが」
年頃の娘である麗蘭が、帝国の中心地たる都に興味を示すのも無理はない。されど現状で「自分も行きたい」などと言われても困るため、風友は此の話題を自然に避けていた。麗蘭が都に行き、己の出自について思わぬところで勘付いてしまっては具合が悪い。
「麗蘭、おまえに一つ頼みが有る」
框に座り、麗蘭と頭の高さを合わせると、風友は彼女の顔を見て言った。
「明日の昼頃、新しい門生が来るのは知っているだろう? 何時ものように、麓の村まで迎えに行って欲しいのだ」
「承知しました」
此の役割は、子供たちの中で唯一山を一人で下りられる麗蘭にしか出来ないものだった。以前は風友が自ら迎えに行くことが多かったが、最近は麗蘭が任されることが殆どである。
「少し特殊な事情の有る子だ。おまえなら会えば気で分かるだろう――当面の間は、おまえと同室にさせたい」
長く一人で一室を使っている麗蘭にとって、予想外な言葉だった。誰かと同室に為るのを命じられるのは、あの二年前の出来事以来である。
麗蘭が反応に迷っている訳を察し、風友は謝罪を重ねた。
「麗蘭。瑠璃のことは私の失態だ。もう二度と、あのような過ちは犯さない」
当時、麗蘭は師の前で感情を押し殺していたが、明らかに酷く傷付いていた。幼い彼女の我慢強さは痛ましく、風友の後悔を更に深めた。
「いいえ、風友さま。確かにあの時は応えましたが、今思うと却って良かったと思っております。お蔭で私に与えられた宿が如何様なものか、身を以て学べました」
ふっ切れたような麗蘭からは、無理をしている様子が否めない。だが彼女なりに整理し、一応の決着を付けたのだろう。
「明日来る子と上手くやっていけるよう、努力いたします」
立ち上がり一礼すると、麗蘭は風友の荷物を持ち室へ運んで行く。教え子の後ろ姿を見ながら、風友は静かに溜息をついた。




