四.神巫女の争い
人の世で、他の誰にも持ち得ぬ力ゆえに孤独と為った麗蘭が、初めて得た友人・瑠璃。彼女が妖を使役していたという事実が、霹靂と為って麗蘭を打ち砕いた。
「安心するが良い。さっきの麝鳥は孤校へ向かわせたが、結界に阻まれるだろう。おまえが如何反応するか見たかっただけだ」
普段とは全く異なる面持ちで、別人のような話し方をする瑠璃に、麗蘭は目を瞬かせる。
「何故、おまえが」
風友も瑠璃を訝しみながら、悪ではないと言っていた。疑義は有れど非天とは関係無いと、麗蘭は根拠も無く信じていた。こうして決定的な場面を見せられても、未だ思考が追い付かない。
「囮にした。おまえを呼び出し、目的を達するために」
「目的?」
瑠璃は優美に笑んでいるが、追及すれば釈明するに違い無い。ほんの冗談の積もりだったと話すに違い無い――麗蘭が懸命に想像を巡らせようとするも、瑠璃は非情にも其の努力を水の泡にしてしまった。
「私がお仕えする『黒の君』の望みを叶えること」
其の呼称が誰を指すか、分からぬ麗蘭ではなかった。多くの人々にとり、彼の君主は神話の中の遥かなる存在でしかないが、麗蘭にとっては違っていた。連綿と受け継がれてきた魂を奮わせ、与えられた今生の総てを賭して斃さねばならない、宿命の敵である。
「おまえが、黒神に仕えているだと? おまえは一体……」
困惑していると、瑠璃が突として着物の袖を捲り上げ己の左肩を示す。象牙の如く白い肩に刻まれているのは、際やかな黒き竜の痣。
「黒い御印。まさか」
似て非なる刻印を持つ麗蘭が見て、此れ程分かり易い徴は無い。顔に愕きの色を表し絶句していたものの、やがて深く息を吐いて気持ちを静めた。
「瑠璃。おまえが如何な存在で、如何な宿を下されているかは分かった」
分かりたくなどなかった。しかしお蔭で、瑠璃に関して途切れ途切れであった糸が一本に繋がり、腑に落ちなかった事柄が飲み込めた気がした。初めて瑠璃に会った日に感じた、身体が受け付けない気の正体。そして『光龍』である自身と同等以上の力を有する理由――いずれも、彼女が黒神に創られた『闇龍』であるのなら得心がいく。
相反する定めを持って下された二人の巫女は、友に為れるはずが無かった。永遠に反目し合う兄と弟を主とし従属する限り、分かり合えるはずなど無かった。共に過ごした日々は、瑠璃の謀であり空虚な幻影に過ぎなかった。其れでも麗蘭は、瑠璃の本心を確かめておきたかった。
「此れは全て、おまえの意志なのか? 私を結界の外へ連れ出し戦うために、孤校を危険に晒すのを承知で妖を放ったのは、おまえ自身が望んだことなのか?」
もし、瑠璃の本意でなかったとすれば。大いなる存在に命じられ、従わざるを得ないがゆえの行いであったのなら。淡い望みをぶつけてみるが、黒巫女の双瞳は凍て付いた光を湛え揺れ動かない。
「私は、私の意志で彼の方に従っている。おまえに近付いたのも、彼の方が望まれたゆえ」
刹那、瑠璃の姿が麗蘭の視界から消失した。目で追おうとするが、瑠璃の方が段違いに速かった。
「麝鳥を使い、おまえを誘き寄せたのは戦うためではない。おまえを殺すためだ」
そう言い放った時には麗蘭の背後に回り、気付かぬうちに抜いた刀の刃を首筋に当てていた。防御すら出来ずに容易く後ろを取られた麗蘭は、肩越しに瑠璃を見て身を強張らせる。
「おまえも風友さまも、私の師は誰か気にしていたな? 私が従うのも教えを乞うのも黒龍神さまのみ。弓も剣も神力の使い方も、全て彼の方に師事した」
邪神が師という発言も然ることながら、感情の薄い冷艶な眸が麗蘭の身を竦ませた。
「もう暫し、おまえと同門の友人ごっこを続けたかったが、風友さまがお気付きに為り始めたゆえ仕方無い。流石は、元上将軍さまだ」
本性を隠して難無く孤校に入り込んだ瑠璃は、子供たちを懐かせ麗蘭の友として信頼を得た。風友に多少の不信感を抱かせたとはいえ、手管は鮮やかかつ巧妙だった。麗蘭の命を奪うために行った所業だというなら、殆どが成功していると言っても過言ではない。現にこうして、麗蘭の闘志を削ぎ動きを封じているのだから。
「如何する? 風友さまは遠く紫瑶に居られるゆえ、助けてはくださらぬぞ」
口角を上げて問うてくる瑠璃に、麗蘭は気取られぬよう刀の柄を握り直す。瑠璃の刃から生じる冷やりとした恐怖に耐え、苦悶の声を出した。
「尊敬していたのに、真実は此れか」
見損なった――というよりも、純粋に悲しかった。同じ神巫女と言っても、光龍と闇龍とは決して相容れない。人とは違うという点で親しみを感じていたのが一転して、此の世で最も遠い存在同士と為ってしまったことに失望させられたのだ。
加えて今まで育み、これからも守ろうとした友情が幻想と消え、二度と戻らないのを覚悟し始めた。麗蘭も瑠璃と同様、宿を為す道を選び取った神巫女であるために。
瞼が熱く為り眦が濡れるが、落涙せぬよう耐え忍ぶ。友が居なかった日々には思いも寄らなかった苦しみが襲い来て、胸を押し潰してゆく。
「おまえが黒神に従うというのなら、私もおまえと戦うことに迷いは無い」
言うや否や、麗蘭は屈んで瑠璃の刀を避ける。瞬時に身を翻し、再び向かい合って剣と剣を打ち合わせた。
――瑠璃は、本気だ。
合わせた剣を通して、鋭い殺気が伝わって来る。意地の悪い戯れでも単なる脅しでもない。黒神に命じられ、全力で麗蘭を葬ろうとしているのだろう。
――私は……本気に為れるのだろうか。
躊躇わないと言い切ってはみたが、本当はそんな勇気など無い。今朝まで友として接していた瑠璃と戦い、傷付け合わねばならぬなど、頭では割り切れても心が付いてゆかない。
実力差が有り、此方が優位に在る場合ならば別だが、相手方が強い今は全身全霊を捧げ戦わねば生き残れぬだろう。麗蘭は未だかつて、人間相手に殺意を持って戦ったことは無いが、何となく予想出来ていたし、経験の有る妖相手の戦いでも言えることだった。此の惑いを瑠璃に悟らせぬために虚勢を張ったものの、彼女には屹度見抜かれている。
笑みを零した瑠璃は、一度刀を離して間合いの外へ引く。すると転瞬、抑えていたらしき神気を膨張させ、麗蘭を圧倒した。
巨大な気が拡散し、見る見るうちに四囲を包み込む。風が暴れ出して足元の木の葉が地を跳ね、樹々が騒めきを始める。
此れは、紛うこと無き『黒』の気配。瑠璃と出会った日に麗蘭の心身が激しく拒んだ非天の気。麗蘭の神気を呑み込む程の濃度で、神巫女として今の瑠璃が麗蘭の実力を越えているのを如実に表している。
――何故だ。如何してこんなに違う?
光龍と闇龍は、共に一双の龍神に依って生み出された。武芸には優劣が有れど、生まれ持つ神力は拮抗しているのではないかと、麗蘭は甘く考えていた。
辛くも力の膜を拵えて、黒の気で身動き出来なく為ることは避けた。刀を両手で握って正眼に構え、力を解放した瑠璃の出方を窺う。
剣を高く振り被った瑠璃は、麗蘭の右肩目掛けて打ち下ろす。麗蘭が真横に避けて剣で受けると、休む暇も与えず斬撃を連ねてくる。受けては斬り込み打ち払い、暫く剣技の応酬が続いた。
風友と手合わせするのを見て分かってはいたが、瑠璃の剣碗は卓抜している。一撃一撃が其の柳腰からは信じ難い程重く、研ぎ澄まされて速い。更に麗蘭の動きを先読みして攻撃を封じてくるため、徐々に守勢へ回らざるを得なく為る。
麝鳥との戦いに因る疲れや、先刻受けた矢傷の痛みも有る。攻勢を掛ける瑠璃に付いていくのがやっとという麗蘭は、次第に呼吸を乱して防戦一方に陥ってゆく。彼女の苦しげな様子を見ても一切の慈悲を掛けぬ瑠璃が、手加減無しの連撃を加えて麗蘭の剣を弾き飛ばした。
武器を手放し体勢を崩した麗蘭は、片膝立ちの状態で眼前に剣先を突き付けられる。程無くして瑠璃は剣を持つ手を上げ、麗蘭の首へ狙いを定めた。至近距離で命を握られてしまった以上、麗蘭は呪を唱える時も与えられず、絶体絶命に追い詰められた。
――やられる!
命運尽きたと絶望したのは、瑠璃の冷然たる目を見たがゆえ。使命を果たせる喜びでも達成感でも、麗蘭への憎しみでもない。冷え切った無機的な双眸が、瑠璃という少女から凡ゆる情が排除されているのを明白にしている。此れ以上刃向かおうが命乞いをしようが、彼女は冷酷無慙な剣を振り落とすであろう。
予期した通り、瑠璃は頭上に翳した剣を勢い良く下ろした。万策尽きた麗蘭は固く瞑目し、為す術無く時が過ぎるのを待つ。されど、暫時待ってみても何も起こらない。恐々としながら瞼を上げてゆくと、瑠璃が途中で剣を止めているのが見えた。
麗蘭は目を疑い数度瞬きして確かめるが、見間違いではない。丁度麗蘭の顔の真横で、瑠璃は剣を振る腕を止められている。目視出来ぬ力に依って掴まれ、剣と共に小刻みに震えていた。
妨害は想定外であったらしく、瑠璃は少なからず動揺していた。ややあって急に視線を別の方へ向けたため、麗蘭もつられてそちらを見やる。離れた場所に立っていたのは、麗蘭にとって――そして瑠璃にとっても見覚えの有る容貌の、目も眩む美しさに溢れた男だった。
彼の立つ所だけ、空気が限り無く透明に澄み渡り時が止まって見える。顔の造りは彼の黒神と同じだが、長い髪は銀、瞳は淡い青色で邪神とは色彩を異にする。明らかに人ではない高位の存在に、麗蘭は尊信の念を起こされた。
「何故、貴方が」
何時の間に平静さを欠いていた瑠璃が、思わず言い漏らす。術が解けて動けるように為ったが刀を取り落としており、明らかな狼狽を見せていた。
白銀の天王は、甚だしい畏怖を覚えて怯む瑠璃へ穏やかな眼差しを送っている。厳かな威と慈しみが滲んだ瞳は、敵を貫き通すものではなかったが、忠実なる黒巫女を怖気付かせる程の激烈なものだった。
喫驚し硬直している麗蘭に一瞥を投げ、瑠璃は呪を唱えて気の片鱗すら残さず姿を消してしまう。風の止んだ森には閑けさが満ちて、光の巫女の前に降りたいと高き者を謹んで迎え入れた。




