降臨
白銀の龍神が統べる此の世界には、遙か神代より語り継がれる少女たちがいた。
天より下され地に生まれ、地に死してまた地に生まれる。天に愛され地を愛し、天地のために戦い死んでは生まれ出ずる。神威に依って人の理を外れ、五百年ごとに戦いの螺旋輪廻を繰り返す。
神々は何時しか彼女たちを『光の龍』と呼び、人々も彼の存在を尊び崇めた。やがて五百年に一度訪れる『降臨の日』は、卑小な人間たちにとり、何時の世においても特別な日と為った。
四人目の神巫女が降りたのは、人界の覇者たらんとする西の大女帝ではなく、未だ年若くか弱いものの、善良なる東の皇と妃の下。彼らを選んだのは巫女の魂か、其れとも父たる天帝か――ともあれ、先の巫女の死より五百年を経て、光龍の『宿』は再び回り始めたのだ。
◇ ◇ ◇
猛烈な雨風に震える黒雲に、稲妻が轟然と走る嵐の日。此の地の夏には珍しい空の荒れ様は、天意が表れる日として相応しい。
此処は西の茗と並び人界を支配する、東の大国聖安。帝都紫瑤の皇宮燈凰宮にて、皇后である聖妃が産気付いて早、数刻。宮廷でも選り抜きの、十余名の重臣たちが、産室の隣で其の時を待っていた。
彼らは今、重大な局面を迎えている。数年前に隣国茗の仕掛けた戦は戦況が思わしくなく、国内の情勢も芳しくない。
此の場に集う、皇帝の信頼を得た武官・文官たちは、難局に在る帝国を守るために皆憔悴している。そんな中での世継ぎの誕生は、彼らには数少ない希望と為る吉事だった。
「お生まれになりました。姫君にございます」
今か今かと待ちわびた報が届いた時には、既に夜も更けていた。相も変わらず雷鳴は止まず、壁の向こうより聴こえくる呱呱の声と、報せに来た女官長の声を掻き消してしまった。
胸を撫で下ろし、頬を緩めた臣下たちは、顔を見合わせて喜びを共にする。皇帝の側近である丞相が早速隣室へ向かおうとすると、女官長は頭を振って制止した。
「璋将軍、皇帝陛下がお呼びです。他の皆さま方は、もう暫しお待ちを」
甬帝の命を受けた女官長が先ず通したのは、伝説的な武と勇で禁軍の頂点に立つ女将軍、璋風友のみだった。足止めされた他の男たちは、理由をあれこれと想像するが、総じて良くないものばかり。神人として、所謂神々の領域に精通した彼女が呼ばれたのを見るに、生まれた姫に其の方面での心配ごとが生じたに違い無い。
そんな懸念は風友本人も当然抱き得たもので、大きく為ってゆく産声を聴きながら、速歩で産室へと向かう。
――此の神気は。
何時の間にか、感じたことの無い種の、神人の力が存している。大きさからして生まれたばかりの赤子の秘める気とは思えない。神力の強い聖妃の子と考えれば分からぬでもないが、其れにしても強大過ぎる。
「陛下。璋将軍がお出でに」
扉の前で女官長が声を掛けると、甬帝自らが短い返事をした。
「入れ」
許しを得て入室した風友が見たのは、金糸の刺繍入りの白い絹衣に包まれた嬰児を抱いて立つ甬帝だった。奥の大きな寝台には、大役を終えた聖妃が横たわり目を閉じている。
つい先程まで生命力に溢れる泣き声を上げていた姫は、風友が現れた頃にはすっかり大人しく為り、父の腕に可愛らしく収まっていた。
女官長は扉の外で待機し、室内には皇帝夫妻と姫、そして風友のみと為った。
「公主殿下のご誕生、おめでとうございます」
風友は膝を折って首を垂れた。一見したところ――赤子の持つ神気が巨大であるのは気に為ったが――目立った問題は見受けられない。聖妃の方も難産だったとはいえ、今は気が安定している。
忠実なる将軍の祝福に、若くして父と為った甬帝は深々と頷く。未だ齢十八の、端正な顔立ちに頼り無さの残る青年だが、子が生まれた途端に一段と大人びて見えた。
「璋将軍、此れへ」
主の手招きに応じ、風友は父娘の許へ歩み寄る。甬帝に姫を抱くよう促された彼女は、一礼して御子を受け取った。
「美しい御子ですね」
産み落とされたばかりの子というのは、斯様に綺麗なものだろうか。聖安一の佳人と言われる聖妃の娘であるから、不思議ではないのかもしれぬ。
「其の子の左肩を見よ」
そう命じた甬帝の声は、何故か緊張に震えている。待望の我が子を迎えたにしては、手放しで喜んでいるようには見えない。
言われた通りに御子の小さな肩を見やると、思いも寄らぬ印が刻まれていた。彫り込まれた刺青の如くはっきりと浮き出た、白い龍である。
「此れを見て、余はある御印の話を思い出したのだが、そなたは如何思う?」
甬帝が何のことを言っているのか、風友にも直ぐに思い当たるものが有った。
「姫君の神気には、聖妃さまがお持ちのものと近い性質が有ります。されど……」
聖妃とは異なり、神力を感知する力を持たぬ甬帝のために、風友は己が感じるままを伝える。
「恐れながら、姫君は只の神人ではあらせられぬ」
公主が如何な存在か、風友は確信に近いものを持っていた。されど、簡単に断言は出来なかった。彼女の考えが正しいならば、聖安にとってのみならず人界中にとって、数百年に一度の大事であるがゆえに。
「先の巫女が亡くなられて、五百年近く経っております。可能性は高いかと」
今、風友が言える精一杯のところまで言うと、傍らで聞いていた聖妃が声を発した。
「此の子を宿した時から、啓示のようなものを感じてはおりました。陛下が仰せの通り、此の子がそうなのですね」
夫とは異なり、聖妃は疾うに覚悟を決めている様子だった。風友も決心すると、もう一度目を凝らして姫の御印を見た。
「『光龍』であると知られれば、此の子は危険に晒されるでしょう。他国の為政者、妖を始めとする『非天』の勢力。そして、最も危ういのは茗の珠玉――」
皆まで言わぬうちに、甬帝が溜息を吐く。
「戦の混乱に乗じて姫を奪うか、抹殺しようとするやもしれぬな」
聖安の王たる彼が懼れるのは、宿敵茗の女帝であった。戦に勝ち、人界を統一する為には、手段を選ばない珠帝のこと。戦力としても象徴としても聖安の希望と為り、茗の脅威と為る光龍の降臨を知れば、危害を加えてくるのは目に見えている。
「神々を敬わず、玉座を得るため夫を弑する女です。有り得ぬ話ではございませぬ」
風友の意見に、甬帝も聖妃も賛同する。そして実際に珠帝が姫を害そうとすれば、今の彼らには危機を回避する絶対的な自信が無かった。
飛ぶ鳥を落とす勢いを持つ珠帝の力は、即位して二年足らずの青年王の抵抗など容易く払い除けてしまうだろう。戦で不利な状況に有る今なら尚更だ。
「陛下、お願いがございます」
妻が身体を動かそうとすると、甬帝が透かさず腕を差し出して支える。彼の手を借りて力の入らぬ身を起こし、聖妃は運命の一言を放った。
「姫を風友に託して隠し、逃がしたいのです」
十六に為って間も無い華奢な少女である聖妃は、長い出産に耐え疲れ切っている。だが夫に訴え掛ける意志は強固であり、有無を言わせぬ力を有している。
驚愕した甬帝は、同様に衝撃を受けている風友を見る。
「風友の許で武術と神術を学ばせ、先ずは己の身を守れるようにしなければ。神巫女としての使命を果たし、此の国の王と為るためにも」
甬帝と聖妃の第一子である此の公主は、今後幾人の公子・公主が生まれようと唯一の世嗣である。とある歴史的な経緯に依り、聖安が一子相続を続けているためで、一番目に生まれた子が天に遣わされた神巫女であろうと、其の慣例は守られるのだ。
「そして其れ以前に――わたくしたちは、わたくしたちの娘を此の手で守り抜かねばなりません」
聖妃の言葉は、静かに聞いていた風友にも、胸に迫るものを感じさせた。
――聖妃さまは、こんなにお強い方だったであろうか。
風友が皇家に輿入れした聖妃に仕えるように為ってから、未だ一年と経っていない。其れでも側近くに侍り、若き妃の信頼を得てゆく過程で、かなりの部分を理解出来たと思っていた。
――私の思い上がりだったのだろうか。
感心している間に、甬帝が難しい顔で考えあぐねていた。
「だが、上将軍にだけ姫を任せるわけにはいかぬ。隣で控える諸臣たちが納得せぬだろう」
女帝と為る定めの公主を預かり育てれば、将来其の立場を利用して権力をほしいままに出来る。風友には左様な邪念が無いとはいえ、甬帝の言う通り今の地位では説得力に欠ける。聖妃の願いに応えるには、風友が取り得る道は一つのみだった。
「陛下。姫君をお預かりする大役のためとあらば、私は喜んで将軍位をお返ししましょう。さすれば皆に異存は有りますまい」
二十代後半という、史上稀に見る若さで上将軍の位を得るため、風友は尋常でない努力を積み上げてきた。ゆえに執着は有れど、『光龍』を、そして未来の王を守り導くという栄誉と比べれば、取るに足らぬものとさえ思えてきた。
「本当に、良いのだな」
既に妃の案を受け入れ、許そうとしていた甬帝は、生来の寛大さから風友に改めて尋ねる。
「御許を離れようと、私は永久に甬帝陛下と聖妃さまの下僕。此れまでと何も変わらず、心は何時もお側に」
断言してから、風友は大切に抱えた姫の顔を覗く。
――私が此の御子を守るのだ。遠くない未来、此の子が伝承の巫女の如く非天と戦い、聖安に……人界に光を齎す日まで。
女将軍の眼に映る、使命に燃える火を認め、甬帝は頷いた。立ち上がって出口へと向かい、僅かだけ扉を開けて女官長に告げる。
「皆の許へ行く」
控えの間に甬帝と風友、そして女官長に抱かれた赤子の姫が現れた時、諸臣たちは歓びの声で以て迎え入れた。理由も分からず待たされたことなど忘れ、健やかで玉のような姫の生誕を祝った。
彼らの明るい顔とは対照的に、甬帝は硬い表情を崩さぬまま、やがて片手を前に翳して皆を制止する。
「皆、聞け」
子の誕生を心待ちにしていた甬帝の厳粛な様子に、皆は漸く先刻から覚えていた悪い予感を呼び起こされた。
「龍の御印が顕れた。此の娘は、我が国の世継ぎにして新たなる神巫女、光龍である」
言い放ち、甬帝は傍らに居る赤子の腕を示す。予想外の事実に皆、懼れ慄き、次々と膝を付いて平伏する。
「おめでとうございます。天が我らに賜った、此れ以上無い贈り物にございましょう」
そう述べたのは、風友の部下であり禁軍の将軍である瑛睡だった。
「其の通りだ。だが同時に我らは、天より使命を授かったのだ」
此の時には既に、若き主君が何らかの決意をし、此の場に集まった者たちに宣言しようとしているのに、誰もが気付いていた。
「父として、だけではない。天帝より神巫女をお預かりした者としても、余は何としても姫を守らねばならぬ」
そう言った甬帝は、まるで歴戦の将の如く力強く、其れでいて聖人の如く達観した顔をしていた。されどまた、今にも壊れそうな程儚くもあった。
「我が娘『麗蘭』は、本日より璋風友の許で育てられる。此の事実は此処に居る者のみ知ることとし、たとえ肉親であろうと口外を許さぬ。余と聖妃への忠義を示せ」
こうして麗蘭の存在は隠された。間も無く第一皇女が生まれるという吉報から一転し、死産したという悲報が帝国中に駆け巡る。そして時を経ずして、隣国の敵珠帝の耳にも辿り着く。
――国中が悲しみに暮れる中、麗蘭は秘かに『宿』を以て下されたのだ。
東アジア風長編ファンタジー「金色の螺旋」の主人公麗蘭の、過去編という位置づけです。本作品だけでもお楽しみいただけます。
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過去に「荒国に蘭」として完結させた作品のリメイク作となります。話の大筋は変わりませんが、エピソードを追加しながら、ほぼ一から書き直しています。