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人間の変性について 抄

作者:

 理性こそが人間を人間たらしめると伝えられています。

 文字を発明しなかった文明も、一定の水準に達した時点で同様の感想と観点を得、同様の言葉を伝えていたでしょう。

 宗教が説いて育もうとするのは理性ではなく信仰心の方ですが、教義の解釈や現実との妥結点を模索する神学や法学によって洗練される過程で、重要な美徳として扱うようになります。

 礼賛されても嫌忌されることはまずなく、あるとすれば、理性を保っているとかえって気が狂ってしまうような特殊な状況で発揮される一種の防衛機能でしょう。環境を整え、時間をかけて適切な療法を施すなら、生得の理性とは傷跡の分だけ異なった状態まで回復するので、それは一時の不可抗力に過ぎません。自ら望んで理性を打ち棄てるような能力は人間に備わっていないのでしょう。

 ところが、理性的とは思われない言動というのは、豊富な先例を求めて歴史に当たるまでもありません。噂話や報道はじめ実際に見聞きする機会は多くあり、その顛末を知れば誰でも心身を引き締めるのに、どうしてか繰り返されます。学ばない愚かな人類、というのはあまりにも酷な自虐ですが、かつて流行して今なお説得力ある反論のないこの暴言を対手に、人間の変性について述べてゆこうと思います。


 一つの前提として、理性を打ち棄てられる人間はいません。そのせいか、理性の対義語に相当する単語が外語にも見当たらないのです。カントによって区別された感性は悟性とともに関連語ですし、理性的でない有様を表現する際にもantiやun,notを伴わせた非理性、不合理、無理といった形で表されて、理の字を脱していません。自然・本能のままの性質の野性にしても、教えられなくとも訓練を積まなくとも生まれつき宿っている理性とは同義語もしくは等義語ではないでしょうか。

 それでは、どのような場面で理性が発揮されるかに注目しましょう。かつて、神を感じる神性を人間性の主軸としていた頃では、その地域の自然風土が強力な制約となっていました。この場合、人々の念頭に浮かぶもっとも理に叶った手段には、彼らの神性に訴えかけて思考を誘導する教義規範の強い影響を認めつつも、神よりも古くからある野性の欲求を満たす農耕や狩猟の知恵と経験から発した慣習が中核にあります。祈り、供物・生贄、人身御供といった行為は非科学的で物事の本質を突かない表面的なものとしても、古い王朝では自然の周期を把握した者が雨期の到来を予言的中し続けて神として君臨していたり、雨乞い・太陽礼拝の儀式を司るなどして人々の神性を通した統治の具としていたように、時と場合によっては合理的であるのです。

 ただ、神性と理性が調和している状態は概して観念上のもので、それが合理的手段として実用に耐える期間は長くはありません。自然の周期は突如として移ろい、雨期の予言を外した神政王朝は人々の信仰を失い、神性に訴えかける統治は崩れ、野生の欲求を満たせない以上はやがて打ち倒されてしまいます。運良く長い平穏状態に恵まれ、神性に基づいた教義規範を洗練できる期間を得たとしても、やがては更なる洗練とともに洗練された状態の維持にも莫大な出費を強いられるようになります。そしてそれが野性の欲求と大衆の必要から過度に離れていると無用の長物も同然で、やはり神性に訴えかけられなくなり自滅的な打倒を招き寄せてしまいます。かつて合理的であったはずの手段が非理性、不合理、無理と見なされるのは、自然環境の変化、社会環境の改造によって理にかなった手段が緩急問わず変容し、これに適応できなかったからであって、神性と理性という二つの人間性が対立するものだと示唆しているようには思えません。直面している大小様々な現実問題に取り得る手段、そして判断要素の多少によって合理的と導き出される解決法は変わってくるのです。

 しかし、反省と進歩を重ねる中で神性は理性を曇らせるものと思われて徐々に廃されてゆき、今や現在の人々の念頭にあるのは剥き出しの理性のように思えます。それでは、人間の変性について述べてゆきましょう。

 時と場合を正しく見定められて柔軟な対応力を残した状態で立ち止まれたのなら、神性が軽視されることはなかったでしょう。それができなかった過去を人類の愚かさに転嫁する例の一句には、実は少々の手がかりが含まれています。一つは、学ばなかったのではなく、ある地域では初めて直面する問題を、全く関係のない別の時空と発生原因で起こった同種の問題とを混同して決めつける明らかな不注意、そしてもう一つが問題に直面した人々に時折見られる人間の変性が発露した瞬間です。

 これは剥き出しの理性の時代である現代であっても常々見られます。変性とは、問題に対処できる解を導き出す際に参照される判定基準を入れ替えて、複数の解決手段を発案し採用する独特の能力なのです。

 これは人間以外の生物にはあまり見られません。野生の要求を満たす際の大原則は<楽して得とれ>で、労力を省いて同じかより大きな効果を得ようとします。理性と野性を等義語とした大意はこれで、無駄のない動き・徹底した省力は理に叶ったものと評されます。事業体においても少ない投資で大きな見返りを得ようと望んで、多種多様の工学が生まれ、合理化、選択と投資などの経営術も発達しました。これらは理性の産物であると同時に、核心には野性の要求を満たそうとする古くからの志向があり、この点では神性の時代と変わり映えしません。理性と野性の産物である現在の様々な技術は、神性の時代に蔓延した言い伝えや真偽定かでない論理とは異なる筈(もしや大きな違いはないのかもしれません)で、日常生活で起こる程度の問題であれば、大方の人はもっとも合理的な手段を瞬時に導き出します。ところが、変性の発揮によってそのもっとも合理的な手段を執らない場合があります。

 その術を知らなかったり、うっかり忘れているような場合とは違って、頭では分かっているけれど、ついどうしても、やむを得ない理由で別の手段を執ったり、単純な好悪であったり、自分好みの手段でわざわざ遠回しをする人など千差万別の形で変性は現れます。理性と野生が区別できないくらい強く結びついた現在は、楽であったり利得に結びつく手段に誘導されやすく、また選ばれやすい傾向が見られます。神性と野性の時代は、どういった手段、そして行いが神に認められるかといった志向として現れていました。ところが、時に理性、神性、野性のどれと照らし合わせようとしてもまったく合致しない行動があり、人はよくその有様を変と言い表してきました。

 A地点からB地点まで長期間通わなければならないとしましょう。電車バスといった公共交通機関、自家用車、タクシー、自転車、徒歩といった選択肢が浮かびます。この時点ではどれを選んでも変とは言われません。そこで制約をひとつずつ設けてゆきます。

 ・制限時間50分。

 徒歩では一時間以上かかるので除外されます。

 ・費用1000円以下。

 これで公共交通機関、自家用車、自転車の三つが残ります。

 ・B地点は自家用車での訪問が禁止。

 公共交通機関と自転車の二つに絞り込まれました。

 ・往復1000円まで交通費が支給される。

 これでまずすべての人が、もっとも楽でその楽を得るための出費も抑えられる公共交通機関を選ぶと思われます。理性と野性が結びついた現代で主軸となっている判断基準は、どのような手段が合理性と効率性の二つを高い水準で満たしているかどうかです。けれども、そうしたお金を費やされるのを忍びなく思ったり、健康づくりの運動のために、単に自転車が好きだからという理由で選択肢を入れ替える変性を発揮して、非合理な手段を採用する人は確かにいるのです。

 このもっとも合理的な手段を変性によって入れ替えて自転車を選んだ人であっても、道路の状態、交通量、信号の多少、季節ごとの風向などその他の多くの要素を計算して、もっとも効率の良い道順や速力を模索します。その過程で今まで知らなかった道を繋いで気になる商店を見つけたり、姿勢や漕ぎ方というような意外な発見をするでしょう。それらの発見はもっとも合理的な選択肢を選んでいては起こらなかったものです。つまり変性とは人の多様なあり方を形作る重要な要素でもあるように思われます。

 理性と野性の要求を満たす合理的な手段ですべてを決定づけるとしたらどうなるでしょうか。いずれは誰がなにをやっても同じになります。こうした究極の状態に陥ることはないでしょうが、その代わりにもっと深刻な状態になります。合理的な選択肢の提示は、とある時空で割り出し得る要素からしか導出できないため、成功確率60%の選択肢Aと40%の選択肢Bのその後の変化までは計算に含まれていません。合理的な選ぶのであればまず間違いなく60%の選択肢Aが選ばれるでしょうが、予測できていなかった誤算によって徐々に確率が低下し、ついには40%を下って成功確率10%以下にもなり得ます。逆にBを選んでいたなら、Aの確率を下げた同じ現象が40%を50%へと引き上てゆくこともあり得ます。合理的な手段は、一見無駄な行為、合理的でない変な行為によって生み出される副次的な効果を得られません。予測していたことが予測していたとおりにしか起こらないため、損害はほぼ起こらないにしても計算外の余分な利得がないので、±0に近い結果しか得られないように思えます。これでは完璧な循環を実現した社会でしか使い道がなく、そしてそれは絶対に長続きしない世界です。あるとしたら人間がいなくなったあとの自然世界か、人間がいなくなった直後から次に理性を獲得した生命体が誕生するまでの僅かな期間にすぎないでしょう。

以降は非公開です。

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