おもひで列車
目が覚めると、ぼくは知らない駅にいた。
強い西日が射している。今、何時だろう。いや、その前に、ここはどこだろう?
ぼんやりと開いた眼の先には、ぼくを外へと促すように開いた乗車口。それにしても静かだ。先頭車両の隅っこで、いつの間にか壁に体を預けて眠っていたぼくは、かすむ目を擦りながら体を起こしてみる。……だれもいない。
「……ここ、どこ?」
電車がまったく動かないところを見ると、ここは終着駅だろうか。だとしたらぼくは終点まで寝すごしてしまって、他のお客さんたちはとっくにみんな降りてしまったに違いない。
それならそれで、だれかひとりくらい起こしてくれたっていいのに。ぼくは寝すごしてしまった自分の咎を他人になすりつけながら、ようよう立ち上がって外へ出た。座り心地のいい、緑色のふかふかしたシートに別れを告げるのは名残惜しかったけれど、そもそもぼくが目的地へ向かう途中でうっかり眠ってしまったのもあのシートが気持ち良すぎたせいだ。くそう。
乗車口を抜けてホームに降り立つと、遠くからカナカナカナカナ……という蝉の声が聞こえた。
あれは、えっと……そう、蜩だ。昔、田舎のじいちゃんがそう教えてくれた。あの声を聞くと何だかなつかしい気分になる。
……なつかしい?
いやいや、そんなことはないだろう。だってぼくはこれからそのじいちゃんに会いにゆくのだ。なぜだか眠っている間にすごく長い時間が経過してしまったように感じるけれど、そんなわけない。たかだかじいちゃんちから一番近い駅で降り損ねて、もう少し先の駅まで来てしまっただけじゃないか。きっとそんなに遠くない。
ぼくは蜩の鳴き声しか聞こえない、あまりにも静かな駅のホームを見渡した。やっぱりここもぼく以外にはだれもいない。目の前にはうすっぺらく流線形を描くプラスチックの待合椅子と、その後ろに堂々と佇んだ駅看板があるだけ。
『かえで駅』
「……?」
ぼくはその看板の真ん前に立って首を傾げた。……〝かえで駅〟? そんな駅の名前は聞いたことがない。
ぼくは昔から電車が好きで、田舎へ行くとよくじいちゃんにせがんで意味なく電車に乗せてもらった。じいちゃんはそんなぼくにイヤな顔ひとつしないで、むしろ嬉しそうににこにこ笑うと、「そうか、そうか」とぼくの手を引き駅まで連れていってくれる。
そして特に目的地も決めずに電車に乗り込み、ただ線路の向くまま気の向くまま、一日中電車に乗っているのだ。だからぼくはじいちゃんのいる田舎の近くの駅ならみんな知っている。どの路線に乗ればどの順番でなんていう駅に停まるのか、ぜんぶひとりで言えちゃうくらい。
なのに。
「〝かえで駅〟なんて知らないぞ……」
もしかして、最近新しくできた駅なのかな? それにしては足元のコンクリートはところどころひび割れて、屋根を支える白い柱も塗装があちこち剥げてしまっているけれど。
……いや、やっぱりこれを〝新しい駅〟と呼ぶのは無理がある。それにぼくはきょろきょろとあたりを見渡すうちに、ここがとても奇妙な場所であることに気がついていた。
だってこの駅、駅舎がない。
あるのは今ぼくがいる孤島のようなホームだけ。
線路の向こうは山。どっちを向いても山。それも斜面を覆う木々は真っ赤に燃えて、目に痛いくらいだ。
時折吹く風に乗ってひらひらと舞っているのは、赤く染まった楓の葉。ああ、そうか。だから〝かえで駅〟。
右を見ても左を見てもそびえる秋色の巨大な壁は、今にも両側から迫ってきてこのコンクリートの孤島を押し潰しそう。ぼくはその間でぺしゃんこになってしまう自分を想像して、思わずひゅっと首を竦めた。
カナカナカナカナ……
蜩が鳴いている。
何だろう、ここ。
少し、怖い。
そのときだった。
突然プシューッと大きな音がして、ぼくはその場に飛び上がった。
驚いて振り向けば、さっきまでぼくのゆりかごだった列車のドアが閉じている。かと思えば列車は金属のこすれる音を上げ、ゆっくりと動き始めた。
「あ、あ……ま、待って!」
置いていかれる。そう思ったぼくは慌てて走り出した。鮮やかな緑のラインが走った四両編成の鉄のゆりかごは、そんなぼくを後目に無情にも速度を上げていく。
そうしてぼくがホームの終わり、そこで鉄格子みたいな錆色の柵に通せんぼされたときには、列車は悠々とその巨体を揺らし、ゆるやかにカーブを描く線路の向こうへ消えてしまった。
ああ、どうしよう。ぽつねんとホームに取り残されたぼくは途方に暮れる。
ここには駅員さんもいなければ道を尋ねられそうな、親切そうな大人もいない。ほんとうにぼくひとりぽっちだ。こんな得体の知れない、わけの分からない場所でたったひとり残されて、ぼくはこれからどうすればいいのだろう?
「弱ったなぁ……」
「やあ。何かお困りかい?」
そのとき、突然すぐそばからぼく以外の声が聞こえた。
驚いて振り返ると、その先にはさっきぼくを通せんぼした鉄の柵がある。そしてその上にぽつんと乗った黄緑色。
「アキツキ・タクト君だよね?」
と、その黄緑色はぼくに言った。ぼくは驚きすぎて声も出なかった。
「アキツキ・タクト君でしょ?」
「か、カエルが……」
と、やっとのことでぼくは言った。けれどそれ以上は、いくら口をぱくぱくしてもまったく声が出てこない。
そう。柵の上からぼくに話しかけてきたのは、黄緑色の皮膚をした小さなアマガエルだった。
カエルはぎょろりと大きな目でぼくを見て、きょとんと首を傾げると、ゲコゲコ、とのどを鳴らす代わりに言う。
「カエル? それはボクのこと?」
「ほ……他にだれがいるんだ」
ぼくは一歩あとずさりながら、どうにかこうにか二の句を継いだ。
とても信じられないけれど、やっぱりカエルがしゃべっている。ありえない……。これはいったいぜんたいどういうことなんだ?
「そんなに驚かなくてもいいじゃない。久しぶりだね」
「ひ、久しぶり……?」
「ああ、うん。分からなくてもいいよ。それより、ここがどこだか分かるかい?」
「わ、分からない」
「そうだろうね。ここはかえで駅。既に終わった、始まりの駅さ」
「終わった、始まり……?」
「まるで意味が分からないって顔をしているね」
「ああ、さっぱり分からないよ」
「そりゃそうだ。世の中ってのは、分からないことだらけさ」
ケロロと歌うようにカエルは言った。大きな目は下から上がってきたまぶたで細められて、まるで笑っているみたいだ。
「それより君はどこへ行こうとしていたの?」
「ぼ、ぼくは……じいちゃんのところに、行きたいんだ。なのに電車の中で眠ったら、全然知らない駅に着いちゃった」
「そうかい。でもね、君のおじいさんのところへ行く列車は、さっき出てしまったよ。ちょうど君が降りてきた列車だ」
「えっ。ここ、終点じゃないの? だって、だれもいない」
「今日はたまたま君しか乗っていなかったのさ。それに、終点はもう少し先だよ」
「そう、なんだ……でもぼく、かえで駅なんて聞いたことない」
「言ったろ。ここは既に終わった、始まりの駅なんだ。ここで降りられた君は運がいい」
「そうなの?」
「そうとも。今ならまだ帰りの列車に乗れる」
そう言ってカエルはホームの向こうを見た。さっきぼくを乗せた列車が停まっていたのとは逆のホームだ。
「でも、ぼく、じいちゃんのところへ行かなきゃいけないんだ」
「どうして?」
「だって、お母さんがそうしろって……家ではまた、お母さんとお父さんがケンカしてるから。ぼく、帰りたくないよ」
「だけど今日はもう、向こうへ行く列車は出ないよ」
「えっ、うそだ」
「ほんとうだとも。なんならここで野宿して、明日の列車を待つかい?」
「……」
「降りちゃったものはしかたがないさ。今日は諦めてお帰り。なんだったらボクが送ってあげるから」
「その前に、どうしてカエルがしゃべるんだよ」
「君はカエルが好きだったろう。そのせいだよ」
「おまえと話してると、なんだか頭が痛くなるなぁ」
「あっはっはっ、そんな細かいことはいいじゃないか。それより、向こうの椅子に座って列車を待とうよ」
ぼくにとってはちっとも細かいことじゃないのだけれど、カエルはそう言ってぴょーんと柵を飛び下りた。柵はぼくの背丈と同じくらいあって、小さなアマガエルにしてみたら、たぶんかなりの高さのはずだ。
けれどカエルはその高さから平気な顔で着地すると、あとはぴょんぴょんとまっすぐに待合椅子を目指して跳び始めた。ぼくもしかたがないのでそれを追う。
「あのさ。もうひとつ訊きたいんだけど」
「うん?」
「どうしてこの駅には駅舎がないの?」
「決まってるじゃない。そんなのあってもしかたがないからだよ」
「しかたがないってことはないだろ。駅舎がなかったら、ここで降りた人はどこで切符を見せればいいのさ」
「そう言う君は切符を持ってるの?」
「あたりまえだろ。電車に乗るときに、ちゃんと……って、あれ? あれ!?」
水色とクリーム色、二色が交互に並んだ椅子に腰かけたところで、ぼくは慌てた。乗車前、確かに買ってズボンのポケットに入れたはずの切符がない!
それどころか、じいちゃんのうちに行くときはいつも持っていくお気に入りのリュックサックもなかった。今のぼくが身につけているものはと言えば、白地に細い紺のボーダーが入った襟つきシャツと、カーキ色のハーフパンツだけ。
財布や着替えの類はぜんぶあのお気に入りのリュックに入れていた。もしかしたらさっき列車を降りたとき、寝ぼけてリュックを置いてきてしまったのかもしれない……。というか、それ以外考えられない。
「ど、どうしよう……」
「大丈夫だよ。なんとかなるさ」
「なんとかなるって、切符も財布もないんだぞ!」
「それでもなんとかなるんだよ。人生において大切なのは、どんなときも未来を楽観視することさ」
「おまえのそれは楽観視っていうより、ただ単になにも考えてないだけじゃないのか?」
「簡単なことを難しく考えてしまうよりよっぽどいいだろう? 人はみんなそうやって自分を苦しめようとする。ボクにはそっちの方が理解に苦しむね」
「か、カエルのくせに、ナマイキな……」
「あっはっはっ、そうやって目に見えるものばかり大事にするのも人間の悪いところさ」
得意気にのどを反らせ、カエルは高らかに笑った。なんでこいつはこんなにあっけらかんとしているんだろう。しかもぼくの手のひらより小さいくせに、やたらめったらえらそうだ。
だけど切符をなくしてしまった以上はどうしようもないので、ぼくはしかたなくカエルの言うことに従うことにした。こいつがこう言うのだから、きっとなんとかなるんだろう。なんとかならなかったら、そのときはこいつを手の中に閉じ込めてあたふたさせてやる。
隣の椅子にちょこんと座ったカエルをちらちら見ながら、ぼくは内心そんなことを考えていた。けれど、そのときだ。
雨のように降る蜩の声に混じって、不意に右の方から何か聞こえた。はっとして耳をすましてみると、それはタタンタタン、タタンタタン……と一定のリズムを刻みながらこちらへやってくる。――帰りの列車だ。
「来た!」
その姿をゆるやかなカーブの向こうに認めたぼくは、思わず立ち上がって列車を迎えた。
ほんとうはお父さんとお母さんがイヤミを言い合っている、あのギスギスした家へ帰るのはとてもイヤだったけれど、電車好きのぼくは駅のホームにかっこよく滑り込んでくる銀色の車体を見ると、どうしても興奮してしまうのだ。
「キキーッ」
と、やがてぼくの目の前をいくらか通りすぎた列車は、甲高いブレーキ音を立ててホームで止まった。
車体に黄色のラインが走った、見たこともない列車だ。ほんとうにこれに乗って帰れるのだろうか? 不安になったぼくがそのまま立ち尽くしていると、再びプシューッと音がして三両すべての扉が開く。まるでぼくを急かすように。
「ほら、これに乗れば帰れるよ」
と、言うが早いか、ときにぼくの横をぴょんぴょんと通り抜けたカエルが、そのまま器用に乗車口へと跳び移った。そうして「早く乗りなよ」とでも言いたげにこちらを見るので、ぼくはまごまごしながらもつられて列車に乗ってしまう。
「プシューッ」
三度目の空気が抜ける音がして、扉が閉まった。ほどなく列車が動き出す。
けれどぼくはしばしの間、席に着くのも忘れて呆然と立ち尽くしていた。
だって、変だ。
やっぱりこの列車にも、人っ子ひとり乗っていない。
「なあ、カエル」
「うん?」
「帰りの電車は、ほんとうにこれで合ってる?」
「もちろん合ってるよ。どうして?」
「だってこの電車、だれも乗ってないじゃないか」
「そんな日もあるさ。それより、いつまでもそんなところに突っ立ってると危ないよ。座ったら?」
のんきな口振りで言って、カエルはぴょーんと跳び上がった。そうして座席へ、座席から背もたれへ、背もたれから窓枠に跳び移ると、自慢げにケロロと歌う。
ぼくは無人の車内に落ち着かないまま、ひとまずそんなカエルのそばに座った。ちょうど乗車口のすぐ横にある席だ。目の前には銀の手すりが天井目がけて立っていて、頭上ではいくつもの吊り革がゆらゆら仲良く揺れている。
更にその上には銀の網棚。こうして見ると何の変哲もない列車だ。
だけど、やっぱり何かがおかしい。なぜなら車内には吊り広告がひとつもないのだ。
いつもはどんなにたくさんぶら下がっていたって見向きもしない吊り広告が、逆に一枚もないとなると急に物寂しいような気持ちになるのは、単なるぼくのわがままだろうか。
「なあ、カエル。やっぱりこの電車おかしいよ。そもそもカエルが人の言葉をしゃべる時点でおかしいんだ」
「タクト。君はそうやってすぐに目の前のことにばかりとらわれる。もっと遠くのものを見たり、視野を広げてみたらどうだい?」
「なんだと。おまえがぼくのなにを知ってるんだよ」
「ボクは君のことならなんだって知っているさ。だって、いつもずっとそばで君を見てきたんだから」
「なんだって? ――うわっ!」
と、そのとき、ぼくは突然ゴウッと轟いた大きな音に驚いた。
途端に視界が暗くなり、ぼくは慌てる。まるで巨大な怪獣の口の中に列車ごと飛び込んだみたいだ。さっきの音はその怪獣の鳴き声だったと言われても、今なら手放しで信じられる。
「カエル! 真っ暗だ、どうなってるんだ!?」
「落ち着いて、タクト。トンネルに入っただけだよ」
「トンネルに入ったからって、どうして真っ暗になるんだよ! 電気は!?」
「そんなに暗闇を恐れないで。月のない夜が来たって、朝が来れば日は昇るんだ」
「は!? 何言ってるのかさっぱり分かんないよ!」
「分かるさ。君には分かる。ほら、もうすぐトンネルを抜けるよ。そうしたら窓の外を――遠くを眺めるんだ」
そのカエルの言葉が終わるか終わらないかのうちに、だった。
列車はそれまで暗闇に轟かせていた反響音を振り切って、真っ白な光の世界へ飛び出していく。
そう、真っ白だ。さっきまで窓の向こうでは西日が射していたのに。
驚きで見開かれたぼくの目には、白いカンバスみたいになった向かいの窓が映っている。
ただ、その白い世界には線路に沿って何本もの鉄の柱が立っていて、等間隔に置かれたそれが窓の向こうをすごい速さで流れていた。
あれは架線柱という電気を送るための柱だ。
けれどもぼくは、その柱の間にありえないものを見る。
「え?」
ぼくは思わず身を乗り出した。ぼくが目をこらした窓の向こうには、田んぼの畦道を歩くひとりの老人と、ぼくよりも小さい少年がいた。
その二人が手をつないで歩く畦道だけが、どこかから切り取られてきたようにぽっかりと白い空間に浮かんでいるのだ。
そしてその光景は、線路脇に並んだ架線柱を一本通りすぎるごとに進む。まるで教科書の隅に書かれたパラパラ漫画みたいな、なめらかさに欠けるカクカクした動きで。
気づけばぼくは、古い無声映画を思わせるその景色に釘づけになっていた。車窓という名のスクリーンに映し出された二人はこちらに背を向けて歩きながら、時折顔を見合わせては楽しそうに笑い合う。
そのとき見えた二人の横顔を凝視して、ぼくは確信した。
あれは、ぼくだ。
ぼくと、ぼくの手を引いて駅へ向かうじいちゃん。
「なんで」
思わずこぼれた声は、ゴウッというけものの咆吼に掻き消された。
視界は再びブラックアウト。またトンネルだ。畦道を歩いていた小さい頃のぼくとじいちゃんの姿も、一瞬で闇に呑み込まれる。
「なんだよ、あれ」
暗闇の中で、うめくようにぼくは言った。
カエルは答えなかった。
視界が真っ暗になってから数十秒。
列車は再びトンネルを抜ける。
「あっ」
と、途端にぼくは声を上げた。トンネルを抜けた先はまた真っ白な世界で、けれどもそこにはやはりどこかから切り取られた景色が浮かんでいたからだ。
今度は二人の男女が言い争っている。声は聞こえないけれど、大きく口を開けて互いに睨み合う、憎しみにまみれた顔でそれが分かる。
それはどこかの家の中。
いや、〝どこか〟なんて言い方はよそよそしい。
あれはぼくが住んでいた家だ。都会の新築マンションの一室。その清潔感あふれるリビングで怒鳴り合っている二人は言わずもがなぼくの両親。
当のぼくはと言えば、リビングの隅で膝を抱えて小さくうずくまっている。そうしながらぎゅっと目を閉じて、嵐が過ぎ去るのを待っている。
『――あいつは俺の子じゃないんだろ!?』
最後に世界を叩き割るような怒声が聞こえて、白い世界の中のぼくは泣きながら耳をふさいだ。
再び、視界はブラックアウト。
暗闇の数十秒が過ぎ去って、また白い世界がやってくる。
夕暮れ時。小さいぼくは畦道にひとり、しゃがみ込んで泣いていた。
あれはいつのことだったかな。
そうだ、確か小学四年生の夏休みのことだ。
ぼくはお母さんの実家である田舎に預けられ、じいちゃんとばあちゃんの三人ですごした。ほんとうは夏休みには一緒にプールに行こうと友だちと約束していたのだけれど、お母さんがそれを許してくれなくて、ぼくはじいちゃんの家にひとり置いていかれた。
それが悔しくて悲しくて、田んぼの隅にうずくまって泣いていたんだ。
そんなことを頭の片隅でぼんやりと思い出しながら、ぼくはそのとき既に確信していた。
そう。
さっきから架線柱の間を流れる景色はみんな、ぼくの記憶。
それはひどく断片的で動きもカクカクだったけれど、間違いない。
その証拠に――ほら。
柱の間で泣いていたぼくのところに、じいちゃんがやってきた。
それもぼくの記憶どおりだ。じいちゃんは涙でぐしょぐしょになったぼくの顔を見て、ちょっと困ったように笑う。それから「おいで」とやさしく言って、ぼくに手を差し伸べた。
もちろん声は聞こえない。だけどじいちゃんの口の動きと、ぼくの中の記憶で分かる。
記憶の中のぼくは泣きながらじいちゃんの手を取った。ぼくは農作業で日に焼けたシワシワの、それでいて大きなじいちゃんの手が大好きだった。
その手の中に収まったぼくの小さな手を握り返して、じいちゃんは畦道を行く。
あのときじいちゃんはぼくに言った。「いいもんを見せてやる」って。
徐々に暗くなる夕暮れ時の畦道を渡り、ぼくらが向かった先は山の麓にある沢のそば。
そこに辿り着くと、何を思ったかじいちゃんは、その辺に落ちていた木の棒でわっとあたりの草を払った。
その瞬間、すっかり日の落ちた空へ一斉に舞い上がったのは、蛍の群。
『うわあ~っ!』
と、そのときぼくは、直前までメソメソ泣いていたことなんてぜんぶ忘れて感激した。じいちゃんの家には毎年遊びに行っていたけれど、じいちゃんがその沢にぼくを連れて行ってくれたのはあのときが初めてだった。
無数の蛍を見てはしゃぐぼくに、じいちゃんは言った。ここはおれの秘密の場所なんだ、と。
だからだれにも教えなかった。ばあちゃんにだって教えたことはない。
だけどタクトは特別だからな。
じいちゃんはそう言って、白い歯を見せてニカッと笑った。ぼくもつられて笑い返した。
白い世界の真ん中で、夜の暗闇を蛍が踊る。あちこちで明滅する小さな光はまるで歌っているみたいで、ぼくはひとしきりそれを眺めたり追いかけたりしながら、きれいだね、とじいちゃんに語りかけたのを覚えている。
するとじいちゃんはいとおしそうに目を細めながら、じっとぼくを見つめて言った。
『タクト。おまえ、将来の夢はあるか?』
と。
ぼくは目を輝かせて即答した。
『じいちゃん、ぼく、電車の運転手になりたい!』
風が吹き、青草が揺られ、再び蛍たちが舞い上がった。
けものの咆吼。
世界はまた闇の中へ。
次にトンネルを抜けたとき、ぼくは気づけば記憶の見える窓の方へ移動して、座席の上に膝立ちになっていた。
そうして窓に張りつくように、食い入るように外を見る。トンネルを抜ける寸前、前方から射し込んだ光で窓に映り込んだ自分の姿が、黒い詰襟の学生服姿になっていることにもそのときは気づかなかった。
次に見えたのは、電車の模型を置いた勉強机にかじりつき、必死に受験勉強をしている僕の姿。
あの頃僕は、夢を叶えるために夢中で勉強していた。卒業生を何人も鉄道会社へ送り出した実績のある有名高校に合格したくて、昼も夜もとにかく勉強に打ち込んだ。おかげであまり友達はいなかったけれど、そんなの全然苦にならなかった。
だって僕にはじいちゃんがいた。
じいちゃんはいつだって僕の味方。僕が鉄道の運転士になりたいと言ったときも、「そうか、そうか」と嬉しそうに笑ってくれた。「お前ならなれるよ」と言って、力強く背中を叩いてくれた。
そんなじいちゃんの応援があったから、僕は折れずに頑張れたんだ。
相変わらず父さんと母さんの仲は最悪だったし、二人が「タクトが高校を卒業したら離婚しよう」という密約を交わしていることも知っていたけれど、じいちゃんの応援に応えたいと思ったらそんなことどうでも良くなった。僕はただ、じいちゃんの喜ぶ顔が見たかった。
その努力の甲斐あって、僕は目指していた高校に合格した。
雪の降る合格発表の日、掲示板に自分の受験番号を見つけて真っ先に電話をかけると、じいちゃんは電話の向こうで声を詰まらせた。それから「良かったなぁ、タクト。おめでとう、おめでとう」と言って号泣した。
だから僕は笑って、「おめでとうはまだ早いよ、じいちゃん。僕が運転士になれるのはもう少し先なんだから」なんて戯けてみせたっけ。
あのときはじいちゃんがあんまりわんわん泣くものだから、僕はつられて泣きそうなのを隠すので精一杯だった。じいちゃんはそんな僕のつまらない強がりを見抜いたのか、「そうだなぁ、それじゃあおれも長生きしねえとなぁ」と電話の向こうで豪快に笑った。
けれども、その三年後。
僕は鉄道会社の採用試験に落ちた。
「……」
現実は非情だ。再び真っ暗になった窓の外を見つめながら僕は思う。
鉄道の運転士になりたい。その想いだけは同じ夢を持つ誰よりも強く負けないと思っていたのに、そんな僕の自信とプライドは高校卒業と同時に砕け散った。
次にトンネルを抜けると、暗い顔をしてバスの吊り革に掴まった僕が見える。
バスの中は僕と同い年ぐらいの学生でぎゅうぎゅう詰め。そうだ、あれは大学へ向かう市営バスだ。
鉄道会社の採用試験に落ちた僕は、母さんの強い勧めでそのまま大学に進学した。僕が高卒で社会人にならなかったことを、母さんは喜んでいた。
あの人は子供の夢や願いより自分の体面ばかり気にする人だったから、子供はみんな高校を卒業したら大学へ行くのが当たり前という風潮の中で、自分の息子が高卒止まりになることが耐えられなかったみたいだ。大学の合格通知が届いた日、母さんは「これでみんなに笑われなくて済むわ」と言って、嬉しそうに笑っていた。
そして当初の密約どおり、僕の高校卒業を機に両親は離婚。僕は母さんと二人で別のマンションへと移り住み、そこから四年間大学へ通った。
けれど運転士になる夢を諦めたわけじゃない。あの頃僕はもうあとがないという事実に追い詰められていたけれど、それでも大学を卒業したら鉄道会社に就職しようと心に決めていた。そのための努力も怠らなかった。
じいちゃんもそんな僕を応援してくれた。時折何かに追い立てられているような、そんな不安と焦燥に駆られて田舎へ行くと、じいちゃんは昔と変わらぬ笑顔で温かく僕を迎えてくれた。それだけが僕の心の支えだった、と言ってもいい。
『タクト、よう来たなぁ』
そう言って思い出の中で笑ったじいちゃんの髪は、雪を被ったみたいに真っ白になっていた。
再び、闇。
トンネルへ入った直後、窓に映り込んだ僕の姿は、いつの間にか乗務員服を着たそれへと変わっている。
僕は黙って制帽のつばを下ろした。正面に列車の動輪と翼を模した、金の帽章が煌めく帽子だ。
けれども今は、その帽子を被っている自分がひどく惨めで滑稽なものに思えた。
ここから先の記憶は見たくない。
そう思い、視界を閉ざすように目深に制帽を被ったとき、窓辺から声がする。
「タクト。目を背けるな」
トンネルを、抜けた。
「これは君に必要な記憶なんだ」
いつの間にか、記憶の窓辺にはあのカエルの姿があった。
俺はなおも制帽のつばを押さえたまま、顔を上げられない。それでも記憶は容赦なく架線柱の間を流れていく。
あの頃。
大学を卒業し、ついに憧れの鉄道会社への合格を果たし、いよいよ運転士となるための下積み時代を過ごしていた、あの頃。
今思い出しても後悔する。
あの頃の俺はとても愚痴っぽくなっていた。
生来の後ろ向きな性格と、十代の頃から勉強に打ち込むあまり蔑ろにしてきたコミュニケーション能力。それに加え、自分の出生と家族に対する劣等感であまり人付き合いが得意でなかった俺は、入社後自分の不遇を託つことが多くなっていた。
何か嫌なことがある度に、じいちゃんのいる田舎へ逃げ込んだ日々。ばあちゃんに先立たれ、大きな家で一人暮らしをしていたじいちゃんに延々聞かせ続けた愚痴。
じいちゃんはそんな俺の弱音を嫌な顔一つせずに聞いてくれたけど、入社から数年が経った頃、ある日突然こう言った。
『タクト。そんなに言うなら、もう辞めたらいいんでねえか?』
俺は、頭の中が真っ白になった。
世界でたった一人の味方だと信じていたじいちゃんに、これまでの自分の努力を、苦労を、人生を、すべて否定されたような気がした。
その衝撃を受け止めきれなくて、動揺は瞬く間に噴き上がるような怒りに変わり、俺は思いつく限りの言葉でじいちゃんを罵倒し田舎の家を飛び出した。
『もう何もかも嫌になってくるよ』
じいちゃんの前で先にそんな弱音を吐いたのは、自分だということも忘れて。
だけど俺はすぐに気づいた。じいちゃんは次第に憔悴していく俺を見かねて、夢という名の呪縛から解き放とうとしてくれたのだということに。
あの頃の俺は本当に馬鹿だった。気づいたときにはもう遅かった。謝りに行こうにも、とてもじゃないがじいちゃんに会わせる顔がなかった。
だから、思ったんだ。
俺は絶対運転士になって、その夢が叶ったらじいちゃんに謝りに行こうって。
そして胸を張ってこう言いたかった。
「じいちゃん。俺、じいちゃんのおかげで運転士になれたよ」って。
それを聞いて、泣いて喜ぶじいちゃんの顔が浮かんだ。
それだけを心の支えに、俺は死に物狂いで頑張った。
そしてついに夢を叶えた。
鉄道運転士になるための国家試験。その合格が分かった日。
俺は浮かれまくってじいちゃんの家へ飛んでいった。じいちゃんと喧嘩別れをしてしまったあの日から、実に一年が過ぎていた。
俺は一年ぶりに訪れたじいちゃんの家の前で緊張しながら、それでも昂揚に頬がゆるむのを抑えきれず、思い切って玄関を叩いた。
じいちゃんは出てこなかった。
その日、じいちゃんは畳敷きの寝室で、布団に横たわったまま一人で冷たくなっていた。
ブラックアウト。
カエルは、何も言わない。
「笑ってくれよ」
暗闇の中、すっかり声変わりしてしまった低い声で、俺は言った。
「なあ、カエル。笑ってくれよ。俺は本当に馬鹿だった。救いようのない馬鹿だ。世の中には、絶対に手放しちゃいけない大切なものがある。そんな単純なことにも気づけなかった。俺は取り返しのつかないことをした。そんな自分に、心底嫌気が射したんだ。だから自暴自棄になった。こんな俺に、電車のハンドルを握る資格なんかないって」
トンネルは続く。
どこまでもどこまでも続く。
塗り潰されたような闇の中、列車はそれでも一定のリズムを刻んで走り続けた。
その揺れに合わせて、俺の心も傾いでいく。
「会社を叩きやめて、転職した。それがじいちゃんを裏切った自分への罰だと思った。だけどやっぱり上手くいかなかった。俺はじいちゃんがいないと一人で立っていることもできない欠陥品だったんだ。俺は酒に溺れた。次第に生きているのが馬鹿らしくなった。だから」
トンネル内に、金属の擦り合う甲高い音が響く。それはまるで悲鳴のようだと俺は思った。
この数年、俺の心が上げ続けていた悲鳴。
長い、とても長い間、俺は暗闇の中を彷徨い続けた。どこかにあるはずの出口を求めて、手探りで闇を這いずり回った。
だけど人生のレールから外れた俺に行く宛などなくて、いつしかその事実に気づいてしまって、明けない夜もあるのだと知った、だから俺は、俺は、
「笑わないよ」
そのとき、カエルが言った。
「笑わないよ、タクト。お前はよく頑張った。この世の誰もお前を見て笑ったりはしない。ただ一人お前を笑う者がいるとしたら、それは鏡に映ったお前自身だ」
鉄の悲鳴が、闇を劈いている。
「だがな、タクト。お前は大事なことを忘れてる。この世は確かに残酷だ。けれど、お前が思うよりずっと美しい」
「カエル、」
「思い出せ。その記憶が、もう一度お前を強くしてくれる」
ゴウッと、それまで嵐のように轟き渡っていたトンネルの反響音が、一瞬で遠のいた。
けれども、闇。
窓の向こうには、闇。
先程までの白い世界はどこにもない。
だけど。
その闇の袂から一斉に舞い上がったのは――蛍。
闇の中、見渡す限りの。
蛍、蛍、蛍――。
『うわあ~っ!』
そのとき、光の饗宴の中で響いたその声は、
『きれいだね、じいちゃん!』
両手を広げ、くるくると回る少年をいとおしそうに見つめたその眼差しは、
『タクト。おまえ、将来の夢はあるか?』
その問いに振り向いた少年の大きな瞳は、
『じいちゃん、ぼく、電車の運転手になりたい!』
輝いていた。
みんなみんな、輝いていた。
風が吹く。
黒いカンバスを蛍が舞う。
月明かり。
満天の星空の下、銀のけものは走り続ける。
未来への咆吼を上げながら。
迷わず、闇を貫いて――
「さあ、タクト」
泣き崩れる俺にカエルが言う。
「帰ろう。もうすぐ終点だ」
警笛が鳴った。
矢のように夜を駆けた思い出列車は、ゆっくりと減速した。
やがて車両の揺れが収まり、列車が深いため息をつく。
扉が開いた。
その向こうには、白く輝く稜線が見えた。
ああ、夜明けだ。
長かった夜に、日が昇る。
「タクト」
俺は一歩、踏み出した。
黎明を迎えようとする原野に、自らの意思で踏み出した。
その背中に声がかかる。
振り向くと、そこにはいとおしそうに目を細めたじいちゃんがいた。
「頑張れよ」
俺は頷く。
視界が滲んで、自分でも上手く笑えたかどうか分からなかったけど、びしっとその場に背筋を伸ばし、列車に向かって敬礼した。
それを見たじいちゃんも頷く。
あの頃と変わらない、しわくちゃの嬉しそうな顔で。
扉が閉まった。
俺を見つめたじいちゃんを乗せて、列車がゆっくりと動き出す。
行き先は〝かえで駅〟。
いや、あるいはその先の――
目を開けると、燃えるような赤が見えた。
ひらひらと降り注ぐ楓の葉。俺はその葉を濡れた体に浴びながら、川のせせらぎを聞いている。
体中が痛かった。おまけに寒い。
まあ、当たり前だ。草木も色づくこの時期に、流れの激しい渓流へ自ら飛び込んだのだから。
けれども俺は、生きている。
笑い出したくなるほどに、生きている。
「なあ、綺麗だなぁ」
そう言って、俺は笑った。見上げた空の水色と楓の赤が眩しかった。
傍らには黄緑色。まるで俺を促すように、首を傾げてそこにいる。
そいつと束の間目が合って、俺は小さく微笑んだ。
さあ、帰ろう。
始まりのあの町へ。
(了)