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この海に賭けてみないか?~ビジネススーツを脱ぎ捨てて~

私は、今日も電車に揺られ、

いつものように会社へと呑み込まれる。




「また同じ一日、か…。」



そこそこ名の知れた商社で働く私(洋一)は、

どうやら外野からは、充実しているように見える…らしい。




確かに、責任ある仕事をして、やりがいもある。

長年付き合っている彼女もいる。

任されているのも、これから期待されているのも感じている。

収入も同世代の中では悪くない方だろう。


それなのに……何かが、足りない。


ただ、それを口にしてしまうとどこか暗い世界に引きずりこまれるような、

そんな気がするから気付かないふりをしているだけ、だ…。



「今日も行くか?」


同僚に誘われ、会社が終われば酒を飲みに出る。

満たされているはずなのに、


物足りなさを感じてしまう自分を誤魔化すため、

身体をアルコールに浸しているのかもしれない。




その夜だった。

いつもの店で乾杯をすませると、同僚が不意に切り出した。


「お前さ、今度の日曜、用事ある?」


スケジュールをちらりと確認すると、予定は空白。


「いや、何も」


「じゃあちょっと付き合えよ」


「どこにだ?」


「いいから、いいから」


こうなったら返事を期待するのは難しい。




そういう奴なのだ。同僚の貴幸は…。


黙って手帳に待ち合わせ場所と時間だけを書き込むと、

再びグラスに手を伸ばした。




そして日曜日。

待ち合わせた駅から、一本の電車に乗せられる。


「休日に男二人で電車旅か?」


これなら彼女と映画でも見に行くんだった……そう後悔しても、もう遅い。

電車は緑の道を抜け、やがて視界が開ける。


「次で降りよう」


貴幸に促され、降りた駅からは、

かすかに磯の香りがした。


「…海が近い?」


耳をすますと、確かに小さいながらも波の音が聞こえる。


そのまま歩いていくと道が開け、砂浜が姿を現した。


季節外れの海は人気がなく、


あまりにも堂々とした佇まいに思わずため息が漏れる。


その姿は、勇壮そのものだ。


近くの自販機で買った缶コーヒーを手に、

砂浜へ並んで腰をおろすと貴幸が口を開く。


「お前さ、なんか悩んでただろ?」


「……気づいてたのか」


「そりゃあ、入社してからずっと一緒に働いてきた仲だからな」


「…………」


「俺、悩みがあるとここへ来るんだ。大きな海を見ていると自分の悩みなんて小さいものだからな」


同じように会社で、

いつもつまらなさそうにしていた同僚(貴幸)はそういって笑った。


私は…。


私は…彼の優しさに心の中で、そっと感謝しながら、

ただずっと、寄せては返す波を見つめていた。



不思議と心が癒される。


都会の雑踏の中で、こんな自由な気持ちはすっかり忘れていた。




なぜだろう。


窮屈なスーツを脱ぎ捨てて、解放されたい気持ちになる。


「なんか、海っていいもんだな~。」


「だろ?」


「ずっと考えていたんだ。このまま商社マンとして生きていくことの虚しさとか、そういうの」


「だったら、一緒に、この海に賭けてみないか?」


「!!…海に?」


貴幸の目は、もう笑っていなかった。


「俺はもうずいぶん前から、海に関するビジネスがしたいと思ってたんだ」


唐突すぎる誘いにとっさには、返事の言葉が出ない。


「まあ、考えておいてくれ。ただ、お前の助けがあれば、俺は嬉しい」


再び、にっこり微笑んだ貴幸の肩越しで、

大きな海が手招きしているようだった。




家に帰った私は、

脳裏に焼き付いた海の光景が忘れられず、パソコンを開く。


同僚の誘いは、

「自由になりたい」と願う私には、とても魅力的だった。


けれど、何の知識も持たずに、

飛び込んで成功できるほど甘い世界だとは思えなかった…。


ただ、海についてもっと知りたい。


「……ん?」


パソコンの画面越しに、

今日のような海の映像を見ていた私の手がふと止まる。


「潜水士……免許?」


それは、広告欄にあった小さなキーワードだ。


どうしてか、とても気になり調べてみると、

それは、海に関わる仕事を行う人間にとって必要な免許で、

学科のみの試験で行われるのだという。




今の私にとって、これほど適した資格はない。

海について、もっと理解を深めることができ、




なおかつ資格があるというのは、

貴幸との起業を考えた場合に大きく役立つだろう。




次の試験は、1月。

私は、決意する。



貴幸には、秘密にして、

この潜水士試験を受けてみよう。


そして、潜水士免許を得ることができたなら、その時、

今後の自分の身の振りかたの判断を下そう、と。




これまで、

海は見ているだけか、

たまに泳ぐだけの対象だった。


けれど、勉強を始めてみると潜った先の世界への興味が大きく湧いた。


仕事をしながらの勉強は、睡眠時間が削られ、

決して楽なものではなかったはずなのに、

テキストを開いていると、時間があっという間に過ぎていく。


そう、私もすっかり海の魅力にとりつかれていたのだ。




同僚には、

きっかけをくれて、ありがとうの言葉しかない。


あれだけ迷っていた私の心が、

いまは、はっきりと澄んでいた。




そして1月。

私は、めでたく潜水士免許に合格する。






「答えは決まったのか?」


いつもの店に、同僚を誘ったのは私の方だった。

そして、黙って潜水士免許を彼の前に差し出した。


「これは……」


「役立つかと思ったんだ、会社をやるために」


「ってことは…?」


「一緒に夢を掴みたい」



その瞬間、

店内だというのに立ち上がって叫び声をあげる貴幸。


私は、苦笑いを浮かべながら

肩をつかみ席に座らせる。



「免許を取るくらい真剣に考えてくれたんだ!お前とだったら絶対にうまくいく!」


「もちろんさ。」




潜水士免許を取得していく中で、

私は、海での工事や作業に興味を持っていった。


一方で、

同僚の方は昔からダイビングが好きで、

やはり海へ潜ることに興味があるのだという。


話は、日が変わっても終わらなかった。

仕事のことを考えるのが、

こんなに楽しかったのは初めてだ。




それから半年後、


私たちの夢の結晶である合同会社「マリンズ」が設立された。

数人のプロの港湾潜水技士も招き入れた。


ダイバーから海での水中土木・建設工事・調査潜水関係まで、

潜ることに関して、なんでもお任せの会社へと成長していくつもりだ。




退社を決めてから、

私も、海へと潜るようになった。


その度に、

新しい発見と、魅力を陸へと持ち帰る。


このわくわくした気持ちが

これから先ずっと続いていくのかと思うと、思わず顔がほころぶのだ。


そして、そんな私をみて同僚は言う。



「いい顔になったな」



と。

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