バッガ・ブー
鉄塔は背の高いフェンスで囲まれており、南京錠で閉ざされた入り口には「きけん! よいこはここであそばない」と注意書きされたプレートがぶら下がっている。
二人の少年は互いに顔を見合わせ、にたりと笑った。
どちらの顔にも、「わるいこは遊んでいいんだな」と書いてある。
鉄塔を囲うフェンスには有刺鉄線さえ張られておらず、少年たちでも易々と乗り越えることが出来た。二メートル近いフェンスの頂上から飛び降りて、二人は鉄塔の根元から空を見上げる。
トラス構造の鉄骨が左右対称に広がり、西日に赤く染められた空はやけに狭く見えた。
鉄塔が建っている場所は高台で、吹き抜ける風は心なしか冷たいが、見晴らしは抜群だった。二人がいる位置から下界を臨めば、広大な田園、雑然とした住宅地、その果てにある山々まで見渡すことが出来る。
鉄塔を登れば、もっと遠くまで眺めることが出来るかもしれない。
少年たちは互いに顔を見合わせ、頷き合った。
ひし形に組まれた鉄骨に足を掛けて、滑らないよう注意を払いながら二人は鉄塔を登り始めた。一人が先行して登りやすいルートを探り、もう一人がその後に続いた。鉄塔は見た目よりも随分と登りやすいらしく、先を行く少年は淀みのない動きで上を目指していく。
二人の少年は、あっという間に鉄塔の中腹まで辿り着いた。
町の方へ視線を転じれば、地上から眺めたときよりも広く遥かな景色が目に映る。先を行く少年はさらに上へと向かっているが、後に続いていた少年は、ふと遠くなった景色に奇妙な非現実感を覚えて足を止めた。鉄骨に背を預け、恐る恐る地上を眼下に見る。先程乗り越えたフェンスが、冗談のように小さく見えた。
もし、ここから落ちたらどうなるのだろう。
そんな思考が否応なしに絡み付いてくる。不安に駆られて頭上を見上げると、もう一人の少年は随分先の方まで登ってしまっていた。登ることに夢中なのか、声を掛けても振り返ってくれない。追いつく為には今すぐ足を踏み出して登るべきなのだが、身体は石にでもなったかのように重く、降りようとしてもそれは同じことだった。
動けない。
どうしてこんな所に登ってしまったんだ、と少年は思う。そもそもここは立ち入り禁止の場所で、こんなところを大人に見られたら親にも学校にも連絡が行くかもしれない。恐怖と罪悪感で泣きそうになる。一刻も早くこの鉄塔から──降りたい?
少年は顔を上げる。
今、どこからか声が聞こえた。
少年の目の前に、人が立っている。いつの間に現れたのか、そいつは鉄骨の上にしゃがみ込んで少年を見上げている。しかし少年はそれに気づいていない様子だった。
西日に背を向けても影すら落とさないそいつは、少年の耳に囁きけた──降りたい?
先行していた少年は思わず息を漏らす。
鉄骨に腰掛け、足を外側へと投げ出して町を眺めると、そこから先にある景色は別世界だった。太陽は大きく傾き、山側は燃えるようなオレンジに染まっている。町にはぽつぽつと明かりが灯り、夕焼けを映した水田は砕いたガラスを散りばめたようにきらめいている。
まさか、こんなに綺麗だとは思わなかった。
ここを秘密基地にしようと思った。
この鉄塔は林道を少し入ったところにあるし、何より立ち入り禁止だから人に見つかる可能性も少ないだろう。その二つの条件が少年の心をくすぐるのだ。
この素晴らしい提案をもう一人にも伝えようと、少年は鉄塔の内側から真下を見下ろした。
しかしそこには、誰もいなかった。
少年は首を傾げる。さっきまで確かに自分の後に付いてきていたはずだ。鉄塔を降りるような時間はなかったはずだし、そもそも黙ってこの場から去る理由が見当たらない。ただ単に死角に入っているだけかも──少年はそう思い、角度を変えて覗き込むが、やはり人影はどこにも見つからなかった。
もしや、びびったのか。
一人で先に降りただけならまだいい。だが、大人に告げ口しに行ったとしたらまずい。怒られることに対しては何とも思わないが、この場所が他の誰かに知られてしまうのは嫌だった。
少年は急いで鉄塔を降り始めた。
支柱から斜めに伸びる鉄骨に足を乗せ、身体を降ろすために足元を確認しようとして、ふと地面の一部が真っ赤に濡れていることに気づく。
それが血溜まりだと理解した瞬間、息が止まった。
いなくなったもう一人の少年と、地上に広がる鮮血。その二つが少年の頭の中を駆け巡る。その思考はやがて、自分も落ちるかもしれない、という強迫観念に摩り替わって全身を強張らせた。しかし、このまま動かずにいるのも危ない。少年はすり足で鉄塔の支柱に身体を寄せて、どうにか鉄骨に腰を下ろす。
深呼吸をしてみる。
だが動悸は激しくなるばかりだった。
もしかして、あいつは死んでしまったのか。
ほんの一瞬で目をそらしてしまったが、かなりの量の出血であったように見えた。コップ一杯に注がれた血液を少年は想像するが、そのコップを落としたとしても、鉄塔の足元に広がるほどの血溜まりは出来ないだろう。
人間がどの程度の怪我をすればあれだけの血が流れるのか、そんなことは少年には分からない。ただ、少なくとも生きるか死ぬかの境界を跨いでいることは間違いないだろうと思う。
自分の真下に、死体が転がっているかもしれないのだ。
うそだ──少年は震える口で小さく息を吐いた。さっきまで笑いながら遊んでいたのに、何の前触れもなくこんな事態に陥るわけがない。あいつは何か用事を思い出したとかで帰ってしまっただけで、さっき自分が見た血溜まりは見間違いに決まっている。現実にこんなことが起こるわけがないのだ。
少年が動き出した。
地面を染めた鮮血の赤色が真実かどうか、今起きていることが現実かどうかを確かめようとしている。両手で鉄骨を握り締め、恐る恐る鉄塔の足元を覗き込む。
その直後、少年は強い力で引っ張られた。
少年の視界が逆さになる。何が起きたのか分からないまま西日の強い光に目を焼かれ、慌てて上へと視線を逃がすと、そこには夕暮れの空ではなくアスファルトと血溜まりがあった。宙に投げ出された、という理解が全身を走る。なのに落下はいつまで経っても始まらず、足首を誰かに掴まれている感覚があった。
少年は必死になって首をめぐらし、誰が自分の足首を掴んでいるのか確かめようとする。
しかし、どのように角度を変えても、顔は愚か人影さえ見当たらない。
夕陽が低い位置から照らし、鉄塔は地面に巨大な影を落とす。もがく少年の影は奇妙な踊りを踊っているように見え、その影は、鉄塔から離れた位置で宙に浮いていた。
夕暮れの景色に少年の叫び声がこだまする。しかし少年も知っているはずだ、この鉄塔は林道を少し入ったところにあり、立ち入り禁止である。人に見つからないと思ったから秘密基地にしようと思ったのだ。
叫んでどうにかなるものか。
長く伸びた影、もがく少年の影、宙に浮いたその影はやがて、地上へ向かって、落ちた。
鉄塔の傍らで、ざり、と足音がした。
だが人影は見当たらない。足音は遅々とした足取りでフェンスの外へ出ると、「きけん! よいこはここであそばない」と書かれた注意書きの横で足を止めた。そこで足音の代わりに、何かを背負いなおすような音がした。
しばらくして、再び足音。
黄昏時の薄暗闇の中に、不気味な静けさで聳える鉄塔から、遠ざかっていく。
鉄塔には血溜りが二つ残された。
残されたものは、それだけだった。