プロローグ
(だって、自分の意思で逃げ出してきたんだもん。目立つわけにはいかないじゃないの!)
暑いし足は痛むし鞄は重いし、イライラが募るけれど、それは自分に向けるしかなった。
それでも、この3ヶ月に比べたらどれほど解放されるかと思えば、まだまだ頑張れるとリアは思う。
ウィスタリア=コーネルシュタイン、長いのと故あって恥ずかしいのとでリアと呼ばれる少女は、夏の陽射しも強くなった長閑な街道をひたすら、歩いている。
赤毛がまた日に焼けてしまうけれど、仕方ない。
17歳といえば、もう一人前の大人の女性とみなされるし、その一人前が、供もなく出歩いているのは基本的にはおかしい事態だっていうのも、よーく分かってる。
でも、だって、寄宿舎を脱走してきたこの身分で、路銀もささやかで、どうしたって優雅な旅は無理なのだ。
剣と魔法の世界。
馬車による交通手段しかなく、国は農業で栄えている。
かつては戦乱の世で、英雄が割拠していたというけれど、傾国の美姫がいたというけれど、それももう、おとぎ話の中の話。
王様のいる首都から3日の距離にある小さな町に、下っ端貴族の娘であるリアの実家がある。
汗を拭って、遠くを見やって、大きな緑の瞳を細める。
「あと、もうちょっとね…」
どの町にも必ずある鐘楼の姿が見えてホっとする。
と同時に、覚悟を決めねばならなかった。
一体、なんと言って帰ったものか。
近づく町並みに、懐かしい顔ぶれを思い返す。皆、きっと変わらず過ごしてるだろう。
父親、弟、それから幼馴染二人を思い返した時点でリアはギクっとした。
「そうよ、ばれたら大変だ」
兄のような一人には後ろめたくて会えないし、ケンカばっかりのお隣さんには、会って何を言われるか分かったもんじゃない。
見つからないように家に入らなきゃまずいと、今更気が付いた。
「よう、お嬢さん、乗っていくかい?」
ガラガラガラ、と遠くから近寄ってきた音が、すぐ脇に近づく。
馬車の御者台から、人の良さそうな男性が声を掛けてくれるが、リアは首を横に振った。
「ううん、すぐその町だから、いいわ。ありがと」
ゆっくり通り過ぎていった馬車は人だけではなく、手紙や荷物も預かって、積荷が零れ落ちそうになっている。きっと、一足先に町に着くのだろう。
もともと、悩むより慣れろの性分のリアである。
何とかなるもんよ、着いたらとりあえず腹ごしらえよね、なんて気楽さで、3ヶ月ぶりに町の門をくぐったのだった。
* * *
よく晴れた、夏の午後。
木陰や窓際のカーテンが風に揺られて、陽だまりに涼しげな影を作るのが嬉しい、そんな穏やかな一日のはずが、
「だまらっしゃい!!」
コーネルシュタイン家だけは、嵐の真っ只中だった。
「一体、どこの世界に人目を盗んで寄宿舎を脱走する娘がありますか!」
(…ここにいるじゃない、何て、言えないわよねー)
ウィスタリアは絶叫する父の手前、一応素直に黙って聞いていた。
「しかも、たった、たった3ヶ月!いいか、あの学び舎は国中でも誰もがうらやむ、最高の、名門の女学校なんだぞ!曲がりなりにも貴族の端くれ、せっかくの入学の機会を、お前は~」
何とか工夫して、知り合いに見つからないように帰ってくるなり、紙切れ(どうやら行方が知れないと先に通知がきていたらしい)を握り締め仁王立ちした父親が待っていた。
問答無用で書斎に連れて来られて、ずっとこれである。
さすがに疲れたのか、お茶をすする父親を見計らって、リアはそうっと声を出してみた。
「だって父様、あそこったら、ひたすら礼儀作法に身だしなみがどうのって、ちっとも学問なんかしないのよ、だから」
ダン、と、机を叩かれた。まだ切り出すのが早かったか。
「だからって学友のご令嬢がたにケンカを売るのがお前の学問か?授業もすっぽかして王都で警備隊に追い掛け回されるのか?見なさい!『学院始まって以来、初めて導く自信がなくなりました』だなんて書かれて、お前は、お前は…!」
その学院長からの手紙は確かに事実が書いてあり、もう一度お戻りになられるかは熟慮なさって下さいと括られていた。
でも、身分の高低で学友を差別するのが淑女の心得なのか?大切な形見を引っ手繰られたお婆さんに見向きもしなかった高慢な警備隊の変わりに手伝おうとして何が悪いのか。
規則を守り、真面目一辺倒に生きてきた興奮状態の父親には、とても今分かってもらえる雰囲気ではなかった。
「とにかく、こうなっては仕方ない。しばらくお前は家にいなさい。出歩くんじゃないぞ!」
「はい、お父様」
言われなくても、そうするつもりだ。
分かっていたけれど、リアは部屋に戻ると大きなため息をつくしかなかった。
リアは、もともと活発な子供ではあった。
この町が出来た時からこの地を取りまとめる貴族の家に生まれたが、学校に行き、遊ぶ暮らしは町民と変わりなく、大抵において貴族であることなど意識した事がない。
ここが、400年前、賢帝オーギュストが名もない領地の娘だった白薔薇の君を見初めた場所で、リアの血統に繋がるため、名前だけは大事にされているけれど、それだって他人事だ。
白薔薇の君の不思議の力で、ますます国が栄えたというが、今はそれも昔の話で、住まいだったヴィラ・ローザは廃墟となり、野生化した白薔薇が季節になると咲き乱れる観光地となっている。
管轄領なので維持費も馬鹿にならないとは父の弁。
「そもそも、私には無理って言ったのになあ…」
部屋の窓から目をつぶっても歩ける町並みを見渡して、リアはまた一つため息をついた。
幼馴染のジェイとケンカ半分で駆けずり回って、近所のお兄ちゃんであるルー兄のお店で珍しいものを見せてもらって、死んだ母様との約束どおり、大事な大事な弟ミカエルの世話をして。
『女だからって、大人しく我慢してる必要なんてないぞ、リア。おいで、おじいちゃんがとっておきの話をしてあげよう』
英雄の旅立ち、隣国の怪物退治の話、財宝探しの冒険。魔法使いや賢者の機転と知恵を働かせて勇者を助ける話も大好きで、自分だって、力はなくても知恵と勇気で知らない世界を、困難を乗り越えていくのだと思っていた。
「…ミカエルが大きくなるまで、ううん、なってからも、この家の仕事を手伝いたいって言いたかったんだけどな」
この町が好きで、コーネルシュタイン家はシルバーランス家と文武を分けて統治している。知恵と勇気と機転でもっといい町にする手伝いは、やりがいもあって楽しそうだと思った。けれど…。
今のあの様子じゃ、とても無理だ。
「うん、しばらく、待つしかないよね!そうと決まれば、ミカの相手でもしてこよう!」
3ヶ月前、お別れに泣きじゃくっていた5歳の弟はリアにとって目に入れてもいいくらいの存在だった。
次の嵐は、すぐ数日後にやってくるとリアは知らない。
* * *
相変わらず夏の日差しも眩しい数日後。
朝から呼ばれた父の書斎で、リアは、とっさに何を言われたのか、聞き取れなかった。
律儀に、真面目な父親は繰り返した。
「だから、見合いだ見合い。そんなポカンと口をあけるな、みっともない」
ミアイ。
って、何だっけ?
「見合い。…見合い?…はあ?!見合いって、もしかして結婚するときにする、アレっ?私がっ?!」
唾を飛ばしそうな勢いでリアが詰め寄ったために、父親は顎を引いて顔をしかめた。
「その見合いだ!まったくもって分からんが、物好きにもお前を見初めてくださった方がいるらしく、縁談を頂いた。これを逃すテはないだろう」
実父ながら大概失礼な評価を受けたリアだが、気にしている場合じゃない。
「い、いやです!なんで私がそんなこと」
途端に、父親が鬼の形相で立ち上がった。
「何でですと!良家の子女たるもの、作法や教養を身につけ、嫁ぎ先の夫君をよく助けるのが慣わし、それを3ヶ月で台無しにしてきたのは何処の誰ですかっ!」
「だってそれは理由があって」
「だまらっしゃい!せっかくかの白薔薇の君にあやかってウィスタリアと名づけたのに、お前と来たら!勉強や魔法に長けているわけでもなく、暴れるしか能がないんじゃ、このままでいけば、ミカエルの小姑になるしかお前の道はないじゃないか!」
(こ、小姑ってあんまりじゃない?)
とは口に出せないリアだった。
「いいか、これは命令です。見合いは1ヶ月後。それまでは大人しく、付け焼刃でもいいから作法を身につけておくように!」
「私は、この家の手伝いがしたいの、父様!」
部屋をばたんと勢いよく出て行った父親には届かなかった。
「ちょっと、どうしたらいいの…」
結婚?一体何の冗談だろ。でも、あの父様の様子じゃ、1ヶ月後は絶対に逃げられない。
「どうしよ…」
とても部屋には戻れず、気持ちを切り替えたくてリアは家を出て人のいる方へ向かった。
人生の岐路は、いくつもの道に枝分かれした状態で、リアに選択を迫っていた。