『ナボテの葡萄、イゼベルの沈黙』
陽光に熟れたぶどうの実を愛でていたナボテの胸元を、無情な切っ先が貫いたわけではない。彼を呑み込んだのは、濡れ衣という名の濁流だった。
「この男は神と王を呪った!」
広場に響き渡った、ならず者たちの偽証。ナボテの必死の抗弁は、四方から飛来する石礫の雨にかき消された。鈍い音が重なり、土煙のなかで声が途絶える。先祖伝来のぶどう園を守ろうとした、ただそれだけの男の命が、冷たい石の下へ埋もれていった。
すべては、宮殿の寝台でふてくされていたアハブ王から始まった。
ナボテにぶどう園を譲ることを断られ、食事も取らずに顔を背ける夫を、王妃イゼベルは寝台の脇から見下ろしていた。細い指には金の指輪が光り、肩から流れる衣には異国から運ばれた染料の深い色が沈んでいる。彼女は夫の不機嫌を慰めるどころか、冷たい笑みを唇に刻んだ。
「まあ、情けない。イスラエルの王ともあろうお方が、たかが農夫ひとりに土地を拒まれたくらいで、枕を濡らすのですか?」
「だが、あれは先祖代々の嗣業だと……」
「黙りなさい」
イゼベルは夫の言葉を鋭く遮った。耳元で揺れる宝石の飾りが、かすかに音を立てる。
「王が望むものを、なぜ平民の気まぐれで諦めなければならないのです。あのぶどう園は王宮のすぐそば。あなたが菜園にしたいとお望みなら、手に入れるのが当然でしょう」
「しかし、力ずくで奪えば民の反発が――」
「力ずく? いいえ、そんな粗暴な真似はいたしません」
彼女の笑みが深くなる。声は柔らかいのに、その言葉には逃げ道がなかった。
「長老たちに手紙を送りなさい。あなたの名で封印を押すのです。証人を二人立て、ナボテが神と王を呪ったと告げさせればよい。罪人として処刑された者の土地なら、誰もあなたを責められません」
アハブは口を開きかけ、結局、何も言えずに目を伏せた。
「起きて食事をし、心を晴れやかになさい。あなたは黙って玉座にいればよいのです。ナボテのぶどう園は、わたしがあなたに差し上げますから」
イゼベルは豪奢な衣の裾を翻し、寝台を離れた。王の印章を手に取り、アハブの名で長老たちに手紙を書く。封蝋に印章を押しつける指先に、ためらいはなかった。
その命令に従い、ナボテは偽りの罪を着せられ、石打ちにされた。彼が息絶えたあと、アハブはぶどう園を自分のものにしようと、そこへ足を踏み入れた。
夫の権威さえ、イゼベルにとっては自分の望みを遂げるための道具にすぎなかった。アハブにバアルの神殿と祭壇を築かせ、エホバに仕える預言者たちを容赦なく狩り立てる。彼女が欲するものは、いつしかすべて彼女のものになった。民の嘆きが、宮殿の分厚い壁を越えて届くことなどありはしない。
「犬が、イゼベルの肉を食らい尽くすであろう」
かつて預言者エリヤが告げた神託すら、彼女は鼻先で笑い飛ばした。
やがてアハブが戦死し、息子アハジヤ、そしてエホラムが相次いで王位に就いたあとも、イゼベルの権勢は揺るがなかった。皇太后として宮廷に君臨し、淫行と呪術で人々を絡め取る。自分はシドンの王女、イスラエルの支配者。誰もがその声に従い、誰ひとりとして彼女の地位を脅かせるはずがなかった。
――エヒウの戦車が、地響きを立ててエズレルへ雪崩れ込む、あの日までは。
傷を癒やすためエズレルに戻っていた息子エホラムが、エヒウに討たれたとの急報が届いた。だが、イゼベルの傲慢は微塵も揺らがなかった。狼狽えるどころか、彼女はゆったりと鏡の前に腰を下ろす。
侍女たちに命じて衣装を整えさせた。金糸を織り込んだ長衣を肩に掛け、宝石を散りばめた帯を締める。首には重ねた金の飾り、耳には揺れる耳飾り。黒々とした顔料で両の目を鋭く縁取り、髪を一筋も乱さず結い上げた。衣の裾が床を滑るたび、宝飾が小さく鳴る。
それは死を目前にした女の身支度ではなかった。窓の下に現れる反逆者を見下ろし、その心をひるませるための、最後の威厳だった。
宮殿の門に、砂塵を巻き上げてエヒウの戦車が駆け込んでくる。
階上の窓に身を寄せたイゼベルは、磨き上げた爪を窓枠に置き、眼下の男へ冷ややかな声を投げ落とした。
「主君を殺した者よ、ジムリよ。万事うまくいっているのかしら?」
かつて主君を暗殺して王位を奪い、わずか七日で自ら命を絶った謀反人。その名を引いた、毒を含む嘲笑だった。反逆者を迎える女王の顔には、恐怖の影ひとつない。
エヒウは窓を見上げた。
「わたしに味方する者は誰だ! そこにいるのは誰だ!」
イゼベルの背後で、かすかな衣擦れの音がした。
振り返ると、二、三人の廷臣が窓辺に進み出て、エヒウを見下ろしていた。長年、影のように彼女に仕えてきた者たち。その目に宿っていたのは畏れではない。沈黙の底で発酵した拒絶だった。
「その女を落とせ!」
エヒウの短い命令が響いた。
イゼベルが何かを言いかけるより早く、廷臣たちの手が伸びた。宝石を散りばめた衣が乱暴につかまれ、金の飾りが鳴る。彼女が威厳をまとわせたその身は、窓枠の向こうへ押し出された。
視界が反転する。見上げた空は青かった。落下は、あっけないほど一瞬だった。
石畳に叩きつけられる重い衝撃。血飛沫が白壁と馬に散った。イゼベルは踏みつけられ、華やかな衣は血に染まった。
「あの呪われた女も、王の娘ではある。埋葬してやれ」
エヒウは宮殿に入り、食べ、飲んだ。それからしばらくして、部下にそう命じた。
兵たちが遺骸を拾い集めようと広場へ向かったとき、犬たちはすでにその身体をほとんど食い尽くしていた。石畳に残されていたのは、頭蓋骨と両足、そして両手のひらだけだった。
富も、権力も、飾り立てた美貌も、すべては失われた。かつて誰もがひざまずいた女の姿を、もはや誰も「これがイゼベルだ」と指さすことはできなかった。
預言者の告げた裁きは成就した。奪われたぶどう園に染み込んだナボテの血への報復もまた、ついに果たされたのである。




